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プラトニクス  作者: coach
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第41話:クラスに一人は

 『クラスに一人』の法則。

 ひとクラスに一人は目立つ子がいる、というこの経験則は、良く人口に膾炙(かいしゃ)した法則であり、説明の要を待たないであろう。

 倉木宏人(ヒロト)は、四時限目の英語の授業を右から左に聞き流しながら、この法則が彼のいる二年二組でも正常に働いていることをその目で確認していた。

 宏人の視線の先に、一人の少女の姿がある。あらぬところを見ている彼とは違って、真面目にノートを取っている彼女の姿を、宏人は眩しげに見つめた。少女の斜め後ろの宏人の席からは、彼女の細い肩と艶のあるセミロングの黒髪、そしてその愛らしい横顔が見えていた。

「倉木、これ、訳してみろ」

 よそ見をしている生徒に対する嫌がらせに、宏人は機敏に対応した。だてに一年、中学校生活を送ってきたわけではないのである。授業中のサボり方は心得ている。心得その一、授業の予習をした上でサボるべし。彼は立ち上がると、男性教諭に向かって、聞かれた英文の日本語訳を淀みなく答えた。

「……正解だ」

 授業を聞いていないことをやり込めようと思っていたのだろう、当てが外れ残念そうな顔をする教師。

「ふっ、先生、そんなの昼メシ前ですよ」

 おどける宏人に、周囲からどっと歓声が上がる。

 ちらりと、近くを見ると、下を向いて慎ましやかに笑う綺麗な口元が見えた。宏人の心がふわりと宙に浮く。二瓶瑛子(エイコ)。学校という砂漠を旅する宏人の心のオアシスだった。小鳥のような華奢な外見にしとやかな所作、気立ての良い性格でもって、クラスの男子の人気が集中する女の子である。宏人にしてみると、好きとか、付き合いたいとか、そういう浮ついた気持ちもないわけではないが、それよりも癒しという意味合いが強い。女の子とはこうでなくては、という理想モデルなのである。容姿も話し方も、笑い方も可憐という一語に尽きた。

――同じ女でも、アレとは全然違うな。

 宏人が座りながら心中で瑛子と比較したのは姉である。クラスの女子との比較対象に姉を出すあたり本来ならばシスコンの(そし)りを免れない所であるが、これには事情がある。なかなか起きない姉を嫌々ながら起こしに行って、寝ぼけ眼の姉に思い切り殴られたのが、今朝のことである。こちらとしては見たくもないのに、しどけない姿をしている少女からの、痴漢、変態という罵声のおまけ付きだった。姉の起床を促すのは、本来ならば母の役割だったのだが、今朝はなぜか忙しいようで宏人に白羽の矢が立ったのだった。親切に起こしにいってやったお返しが鉄拳という理不尽。その記憶の生々しかったところに、視界に映ったのが瑛子であるので、皮肉げに比べてみたくなったというわけである。

 全くもって姉はひどい、ひどすぎる。それが宏人の姉に対する偽らざる真情であった。姉がいると言うと、羨ましがるバカな同級生男子がいるが、彼らは何も分かっていない。姉などいても何も良いことはないのである。粗暴で気分屋で弟をパシリくらいにしか思っていない存在。そんなものがいてもし何らか得をすることがあるとすれば、忍耐力がつくことくらいであろう――発狂しなければだが。兄の方がよほど羨ましいし、でなければ一人の方が清々するというものである。

「おい、倉木」

 四時限目が終わり、昼食の時間に入って少しした時、横からかけられたクラスメートの声に、

「なに?」

 と宏人が答えると、来客があることを告げられる。普段、他の教室から訪問を受けることがない宏人は訝しげに戸口に目をやった。

――げっ!

 人影を認めた宏人はすぐさま椅子から立ち上がると、一陣の旋風のように教室の出入り口へと向かうと、

「何しに来たんだよ?」

 と鋭い声を投げて、けわしい顔を作った。険しくもなろうというものである。戸口に立っていたのは、誰あろう、先ほど心に描いていた人物、その人だった。

「お姉ちゃんに向かってそういう言い方ないでしょ、ヒロトくん」

 にこやかに切り返したのは、宏人の姉の日向(ヒナタ)である。鎖骨の辺りまで伸びたセミロングの黒髪の中で、長い睫毛が縁取る黒の瞳に穏やかな色があった。

――何が、ヒロトくん(・・)だよ。気持ちわりい。

 普段は呼び捨ての彼女が、くん付けで弟を呼ぶのは、周囲の目を意識してのことである。驚いたことに、彼女を知る人間に彼女のことを聞いてみると、皆一様に、おとなしやかで優しい良い子、という評価をするのである。彼女は限られた親しい友人や家族以外の人間に対してはおそろしく巧妙に自分を偽る術を身につけているのであった。

「何の用だよ、姉貴」

 今朝のこともあるし、物見高いクラスメートに見物されていることもあるしで、つっけんどんな調子で再度、用件を訊くと、

「これよ」

 と、少女はハンカチに包まれた平たい箱を差し出してきた。

「ヒロトくん、お弁当持ってくの忘れたでしょ。だから、届けに来たのよ」

 宏人の顔からさあっと血の気が引いた。しまった、と思ったが、もう遅かった。これが姉自身の用事だとすればつれない態度を取っても、思春期の少年であるということで理を通せるが、姉が弁当を届けに宏人の為にここまで足を運んだということであれば、感謝の言葉をかけこそすれ、冷たい態度をとっていい理由には到底ならない。そうして、いわれない侮辱には力で答えるのが姉のやり方だった。

 彼女はまだ微笑んでいた。その微笑にぞっとするものを覚えながら弁当を受け取る宏人。そう言えば母が朝忙しそうにしていたのも、ど忘れしていた弁当を慌てて作っていたからであった。あれもこれも弁当のせいである。引いては今日、弁当の日などにしてくれた学校のせいであろう。いや、給食センターか?

 意味の無い責任転嫁をする少年の目がせわしげに周囲を探った。

「どうしたの?」

 小首を傾げて優しげに聞こえる声を出すわざとらしい姉を無視して、辺りを懸命に探った宏人だったが、

――何でこういう時にいないんだよ、賢(にい)は!

 と心中で苛立ちをぶちまけるしかなかった。

 姉を止めることができるこの世で唯一の抑止力は、姉の幼馴染みであり、宏人も小さいときから兄と慕ってきた少年である。よく姉と一緒に行動しているようなので、もしかしたら、と期待をかけたわけだが、どうやらいないようであった。

「じゃあね、ヒロトくん」

 姉は、教室の廊下側の開いた窓から覗く野次馬の同級生達ににこやかに会釈すると、ターンして廊下を遠ざかっていった。

 意気消沈して席に戻ったヒロトの周りに何人かの少年少女の集まりができる。

「おい、今の誰だよ?」

「もしかして、倉木くんのカノジョ?」

 宏人が、姉貴だよ、とぼそりと言うと、更なる歓声が上がった。

「姉ちゃん? お前、姉ちゃんなんていたのかよ、ずるいぞ」

「お姉さん、スゴい可愛いね。それに優しそう」

「カレシいんの? 紹介してくれ」

「あの人、三年の倉木先輩でしょ。同じ苗字だけど、まさか倉木くんのお姉さんだったなんて、いいなあ」

 人の気も知らないで勝手なことを言い続ける外野を放っておいて、宏人は弁当箱の蓋を開けた。家に帰ったあとの戦闘を予想すると、食欲も失せるというものだが、空腹では戦はできない。食べながら、宏人は頭を回転させた。起こってしまったことは、もうどうにもならない。ならば対応するだけだ。考えられる対策は……などということに思いを巡らせて、時間を無駄にする必要はない。取るべき行動は決まっている。宏人の姉への嫌悪で濁った心の目に、爽やかな風貌の少年が映っている。小さいときから面倒を見てくれた彼ならば、きっと今回も助けてくれるだろう。

――よし、今日の放課後、賢兄の部活まで行って事情を話して、姉貴の怒りを静めてもらおう。

 一応の対策が決まり、ほっとした宏人が幾分、安心して弁当を食べ終えると、

「あの……倉木くん」

 と、か細い声を聞いた。

「数学の先生が職員室に来てくれって……」

 おどおどした口調で目を伏せる少女の催促の声に宏人は立ち上がった。各教科の教師のパシリをするのは、学習委員である宏人と、今彼に声をかけてきた彼女、藤沢志保(シホ)の務めだった。

 志保と並んで廊下を歩く宏人は息苦しい雰囲気の中にいた。委員会が一緒であるものの、彼女とはほとんど口を利いたことがない。志保もまた、瑛子とは別の意味で『クラスに一人』だった。マイナスの意味で目立ってしまう子である。あまり話す友だちを持たず、休み時間も一人で本など読んでいるような、独立の気風と言えば聞こえは良いが、クラス内ではしばしば、暗い、というレッテルを貼られてしまう子である。教室内で浮いてしまい、軽く遠ざけられるような子。クラスの輪の中心とまでは言えないが、確実にその中にいる宏人との接点はほとんどなかった。

――あーあ、きまずいよなあ。

 沈黙が重い宏人だったが、かと言ってほとんど話したことのない子に軽快に話しかけることができるほどの社交性があるわけでもなく、職員室までの道のりは遥かに遠かった。

 と――

「倉木くん……」

 横の少女から小さな声がして、永久に続くはずだった静寂が破れたので、宏人はどきりとした。

 遠慮がちな目を向けている志保の方を向いた宏人が、

「なに?」

 と訊き返した声はちょっと冷たい響きを帯びてしまった。彼女に悪感情を持っているわけではなく、驚きの照れ隠しであった。が、彼女はそうは取らなかったようだ。

「ご、ごめん……何でもない」

 あらぬ誤解を与えてしまったことを恥じるくらいには誠実であることを自負している宏人としては、

「いや、気になるだろ、それ」

 と明るい声を出した。笑みも作りたいところであるが、そこまで愛想良くできるほど世慣れたところはない。ためらいがちな志保に、話せよ、ともう一押しすると、

「大したことじゃないんだけど……」

 と前置きして、彼女が宏人の姉と同じ部だということを告げてきた。

――本当に大したことじゃないな。

 志保には悪いが、姉の話など聞きたくない。とはいえ、話を切り上げてしまえば、またぞろ死のような沈黙に戻ってしまう。宏人は気を取り直した。よくよく考えれば、姉に関してのことであれば、職員室に行くまでのヒマつぶしくらいにちょうどいい話題である。

「藤沢って、テニス部なんだ」 

「うん。それで……先輩にはいつもよくしてもらってるんだ」

「姉貴、後輩の面倒なんか見んの?」 

「日向先輩は誰にでも優しいよ」

外面(そとづら)はいいからな、アイツ」

「え? 倉木くんに対しては違うの?」

「全然な。平気でオレのこと殴るし、蹴るし、暴力女ですよ」

「綺麗で素敵なお姉さんにしか見えないけど」

「だからさ、なんだっけ、そういうの。ほら、虎かぶってんだよ」

「……猫、でしょ?」

「同じようなもんだろ。ネコ科だし」

「全然違うよ。虎なんかかぶってたら、恐い本性を隠してることにならないじゃない」

 そう言って少し顔を(うつむ)かせておかしそうに笑う志保を見て、宏人は意外な思いだった。こうして話している分には、普通の気の良い子にしか思えない。皆からどうして遠ざけられているのか不思議である。その謎を解明する前に職員室についた。室内で数学教師からプリントを受け取り再び廊下に出た所で、宏人の頭に閃くものが一つ。

――これは、もしかしたら……

 それは志保に関することではない。宏人にとっての喫緊(きっきん)の問題は姉についてのことなのである。志保と話していたおかげであろう、姉への対処法が一つ頭に浮かんだのだった。ただし、それには志保の協力が必要だった。

「藤沢」

 職員室を辞して歩き出そうとしていた少女に、宏人は、頼みがある、と言って頭を下げた。

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