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プラトニクス  作者: coach
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第40話:潜む非日常

 階段を下りた校舎の一階は、三年生の領域である。幾つかの教室の横を素通りした(アオイ)の足が、三年五組、という札の下で止まった。背筋に引き締まるものを感じる。蒼は上級生の教室に来ただけで緊張するような可愛げのある少女ではない。事実、所属する部の三年生部長に用事があって彼女の教室まで会いに行ったときは、全く緊張しなかった。上級生の教室自体ではなく、室内にいる人物が問題なのである。その人物の前では蒼は観客ではいられない。観客でいることが彼女の現実であるとすれば、ここは異空間であると言って良い。

「あの、坂木と言いますが、伊田先輩、お願いします」

 戸口付近にいた先輩女子の一人に取次ぎを頼み、室内に視線を走らせると、蒼のお目当ての人物の姿が視界に入った。本を読んでいるようだったが、後輩が来ていることを告げられた彼女は顔をこちらに向けると、軽く手招きして見せた。入って来いということらしい。慎み深い様子でしずしずと教室内に歩を進める蒼。

「どうしたの、坂木さん?」

 かけられた澄んだ声に蒼はうっとりとした。彼女の前で席についているのは、蒼が所属する保健委員会の委員長、伊田(アヤ)だった。

 美貌の人である。夜を集めたような黒髪と、雪のような白い(おもて)が鮮やかなコントラストをなしている。切れ長の瞳には知性の光、すっと引かれた唇は薄紅の上品な輝きがある。一分の隙も無い完全性が、返って満開の花のような、触れたら落ちそうな儚さを感じさせて、しかしそれさえもが魅力であった。

「坂木さん?」

 少し強めにかけられた声に、蒼は正気を取り戻した。

――やば、まともに見惚れてた。

「あの、今日の委員会で発表する内容をレポートにまとめて来たんです。それで、もしご迷惑でなければ、内容を(あらた)めていただければ、と思いまして」 

 内心の動揺を隠し蒼が用件を告げると、わざわざそんなことで、とちょっと驚いた風ながらも、彼女は気持ちよく蒼の頼みを聞き入れてくれた。

「そこ、座って」

 指示された通りに、蒼は綾の前の無人の席に座った。席の主はお昼休みを教室以外の場所で楽しんでいるのだろう。

 綾の目がプリントに落とされた。眉の辺りで綺麗に切り揃えられた前髪がかすかに揺れた。

 A4サイズのプリントには、校内で起こる怪我とその原因の統計、さらには怪我防止の対応策がまとめられていた。

 蒼の気持ちは落ち着かない。ここでは、彼女は否がおうにも舞台に上がり、『恐縮する後輩』を演じなければならない。観客になるために、自分のクラスメートにするように綾にもキャラをつけてみようとするのだが、どうにもうまく行かないのだった。むろん、クラスメートほど彼女のことを知らないということはあるだろう。綾と話す機会は委員会の時間くらいしかない。しかし蒼は初対面の人間でも直感から適当なキャラをつけてしまうので、それは本質的な理由とはならない。綾には、蒼のキャラ付けを拒む何かがある。彼女には、どこか存在感が感じられない。すぐ目の前にいるはずなのに、まるでとても遠くにいるような、一人だけ別の時空間を生きているかのようなそんな雰囲気がある。そんなキャラは、蒼の今までの経験上いないのだった。

「よく書けていて、わたしが言うことは何も無いわ、坂木さん」

 目を上げた綾からお褒めの言葉を頂いた蒼は、心の底からほっとしている自分を感じていた。これも例にないことである。蒼は特別誰かに褒められたいと思ったことはないのだが、彼女だけは例外なのだった。保健委員会の発表のために資料を作って来たりしたのは、綾の目に留まりたいという気持ちからである。

「今日の委員会は、このレポート一枚あればこと足りるね。他の人の発表を聞く必要はないくらいよ」

 続けられたこれ以上ない賛辞に有頂天になった蒼には、舞台を外から眺める気持ちの余裕などなかった。

 プリントを返されるともう留まる理由がなくなった蒼としては名残惜しい気持ちはありながらも、失礼します、と席を立つしかなかった。と、そのとき、

「お話中、しっつれい」

 というあまり言葉通りのことを思っていそうもない気楽な声がかけられた。その声の主に、蒼はぎゅっと心臓をつかまれたような気がした。綾の横に立っていたのは、彼女に勝るとも劣らない麗人だった。三年五組は美人揃いだというもっぱらの噂であり、そういう噂は男子だけがするものではない。美人は、男子にとってはロマンティックな恋人候補かもしれないが、女子にとっては現実的なライバルなのである。さて、蒼としては、五組の美女の中でも、綾が一番だと思っているのだが、別の意見もあり、その一つが、いま綾の横にいる彼女、平井七海(ナナミ)を挙げていた。しなやかなボディラインに、胸の辺りの膨らみが蒼としてはちょっと羨ましい。ざっくりとしたかなり思い切ったショートカットがボーイッシュな魅力を、アーモンド型の瞳と少し大きめの薄桃色の唇がガーリーな可憐さを与えていた。

「本当に失礼よ、ナナミ」

 容赦なく答えた綾の言葉には、しかし本気でたしなめる色はなく、それが二人の仲の良さを物語っていた。

「ノート、サンキュ」

 借りていたらしいノートを綾に返すと蒼に微笑みかけてから、七海は背を向けるとそのまますぐに遠ざかった。

 気を遣ってくれた先輩女子のあとを何とはなしに目で追っていると、

「坂木さん、ナナミのこと、苦手でしょう」

 と綾が微笑していた。心中を読まれた蒼はまともに驚いて、

「どうしてそう思ったんですか?」

 訊いてみると、

「だって、顔が引きつってるもの」

 と思ってもない答え。まさか顔に出てしまっていたとは迂闊(うかつ)である。反射的に手で自分の顔を確かめてしまった蒼に、

「ウソよ」

 とくすくすと顔を(うつむ)かせて笑う綾。

「からかわないで下さい、先輩」

 頬が紅潮するのを覚える蒼だったが、綾の言うことは当たっていた。いや、正確に言えば、ちょっと違う。苦手といえるほど、七海のことは知らない。何かの機会に、二言三言話したことがあるだけの関係である。当然、あちらとしては、蒼のことを何とも思っていないだろう。それにも関わらず、彼女からは息苦しいほどの圧迫感を感じるのだった。綾と好対照をなすかのような、濃密な存在感が七海にはある。その細身の体から放たれるエネルギーを確かに蒼の皮膚が感じていて、それが心に障るのである。七海もちょっと類例がない少女で、とても形容ができないのだった。

 『憧れの先輩に緊張する後輩』の役を堪能した蒼が、綾の前を辞して教室の出口に向かったとき、肩がとんとんと叩かれた。ふと足を止め振り返った蒼の頬に人差し指の感覚。

「ミッション・コンプリート」

 蒼の頬に指先を押し付ける任務を完遂した男エージェントは、見知った顔であった。蒼の気持ちにちょっとほっとした色が現れる。彼には『キザなナンパ男』という称号を贈ることによって、観客の立場に立つことができるからだ。

「何するんですか、瀬良先輩?」

「いや、後ろ姿があんまり可愛かったからさ」

 とさっぱり意味の分からない言い訳じみたことを言ったのは瀬良太一(タイチ)。蒼がちょっと見上げる格好になる位置でくっきりとしたハンサムな顔立ちが屈託なく笑っていた。五組は女子で有名だが、男子にも一人、校内人気ランキングのトップを争う少年がいて、彼がそうなのだった。蒼の部に、蒼目当てというわけではないが、よく遊びに来るので、顔なじみになっている。

「そのお茶目さんを発揮する所を間違えると犯罪になりますよ」

 冷たい声で言ってやると、

「そう怒るなよ、アオ。綺麗な顔が台無しだぞ。まあ、そのツンデレぶりも嫌いじゃないけどさ」

 気楽な声が返って来た。

――デレになったことなんかないでしょーが。

 内心反発した蒼だったが、ここは三年生の教室であって、なかなか思う通りを口にすることもできず、表情を笑みの形にして太一と談笑するしかなかった。気のせいだろうか。周囲の視線を集めているような気がする蒼。

――気のせいじゃないな。

 闇に光る猫の目のように、何人かの先輩女子の瞳が、太一と親しげに話している小娘に対する嫉妬で輝いているのを蒼は感じた。

 全くの誤解にいたたまれなくなって、一礼して帰ろうとしたときに、

「アオ。これやるよ」

 太一の軽やかな言葉。蒼の手の平に小さな包みが一つ。

「何ですか、これ?」

(あめ)

「あめですか?」

「そうだよ」

「はあ、いただきます」

 突然のプレゼントの意図に集中してしまって、一瞬生まれた意識の間隙に、太一の秀麗な顔が蒼の顔の横に寄せられ、頬と頬がもう少しで触れ合いそうになるほど近づいて、

「今日の髪型も可愛いな」

 耳元で囁かれる声。蒼の胸がどくん、と一つ大きく鳴った。自分だけに聞かせるような秘密めいたやり取りに、心奥に粟立つものを感じる。この瞬間、再び蒼は舞台へと上げられた。今度の役所は、『かっこいい先輩に翻弄される後輩』と言ったところ。蒼は、彼女の観客という立場を破壊した太一を見直した。只のキザ男という評価は改めなければなるまい。

 更なる嫉妬と憎悪の目に送られて、教室を出た蒼は、上気した我を取り戻すための一助に、飴の小袋を握り締めた。飴と一緒に、自分が覚えたざわめきを潰そうとしてみる。平べったい形の飴は、ぎゅうと思い切り力を入れると、袋の中で割れたようであった。

 心を落ちつけるのに気を取られすぎたようである。前から来る男子生徒と肩が触れて、その拍子にクリアファイルが床に落ちてしまった。

「すみません」

 不注意を詫びる蒼の前で、拾い上げられたファイルから丁寧に埃が払われていた。

「坂木か」

「加藤先輩」

 ぶつかったのは、部活動の数少ない先輩の一人だった。中背の彼は、特別人目を引く容姿ではないが、短めに揃えた髪と、キレイに剃られた口周り、きちっと着た制服から、こざっぱりとした印象を受ける。

「委員会の仕事で、五組に伺った所です」

 クリアファイルを受け取りながらする説明を、興味なさそうな顔で聞く先輩男子。三年生の教室から出て開放的になった蒼は、部活動で口を利く仲であることもあって、

「『犬も歩けば』ですね〜。運命の人と出会ったかと思ったじゃないですか」

 と気安い言葉を発した。

「何のことだ?」

「ガール・ミーツ・ボーイの定番ですよ。肩と肩がぶつかって、その瞬間恋に落ちるみたいな。先輩にぶつかっても、二つの意味で、その可能性ゼロですからね。先輩、カノジョいるし、わたしは先輩に興味ないしで。全く、ぶつかり損ですよ。わたしの運命の出会い、返してください」

 無茶なことを言う少女に、彼はたじろぎもしなかった。

「違うな」

「え?」

「運命の出会いなんか無い。出会いは全て運命だ」

 平明な事実を告げるかのような淡白な口調でそう言うと、彼は蒼の反応を待ちもせずに立ち去った。

 取り残された蒼の耳に、先輩男子の言葉が心地よい響きをもって繰り返される。

 全くもってここは異次元である。他人の言葉を素直に聞くなどというおよそ蒼には全然似つかわしくないことが、簡単に起こる。

 廊下の先にあったもと来た階段を昇りながら、蒼は、異世界からの脱出に心身をリラックスさせながらも、後ろ髪を引かれる思いでもあった。世界を俯瞰して評価する側に立つことも楽しかったが、非日常の世界を探険するうちに、自分が評価ができないものの魅力も分かるようになってきていた。そうして、非日常世界に入り浸るうちに、いつしかそちら側に住みたくなったりするのだろうか。

――まさかね。

 向こうにはたまに行くからこそ楽しいのである。基本はクール・キューティで良い。そう結論付けた蒼は、しかし気がついていなかった。日常に潜む異世界を覗けるということ自体が、異世界に住むというまさにそのことだということに。

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