第38話:最果てへ続く別ルート
学校から家に戻り、夕飯が用意されるまでの時間を、円は勉強に充てていた。リビングに陣取って、足の短いテーブルの上に、参考書の類を広げる。学校帰りで勉強モードになっている脳のスイッチを切らないため、制服姿のまま、フローリングに敷かれた絨毯の上に腰を下ろす。着替えもしないはしたない娘に対して母はあまりいい顔をしないが、中学生の本分を果たそうとしている子に向かってあまり強く言ったりもしない。
穏やかな夕べだった。家の近隣は静かな家族が多く、また円のいるリビングにも静寂を壊す装置はない。テレビは置いてあるのだが、そもそもあまりテレビを観る家族でもない上に、円が勉強しているときは遠慮してくれていた。聞こえてくるのは、シャープペンを動かす音に、母が指揮する包丁とまな板のハーモニーだけ。心地よく仕事に向かえる、最高の環境――
「やあだ! 今日は、お風呂入んない〜!」
最高の時間は長続きしないものである。
ダイニングから響く幼児の金切り声に、ノートに軽快なステップを踏んでいたペン先が滑る。円は消しゴムを取ると、シャープペンのした粗相の後始末を始めた。
「やだもん!」
円の手に力が込められる。消しゴムの圧力が強すぎてノートが悲鳴を上げた。
「アサヒ。お風呂は毎日入らないとダメよ。もうちょっとしたらお母さんと入りましょ」
「やーだー、今日は入んない!」
「どうして?」
「どーしても!」
「頭を洗うのが嫌なの?」
「ちーがーうー、今日は入りたくないの!」
「お風呂入らない女の子は嫌われちゃうよ」
「いーもん、嫌われても」
母と六歳の妹の麗しいコミュニケーションに、円の頭はくらくらしてきた。何だって風呂くらいすっと入らないのか、と苛立たしげに思ってしまうが、それはフェアではあるまい。つい数年前までは、円もあのように母を困らせていただろうし、その母にしたって、妹のような年頃には母の母、すなわち祖母を困らせていたのであろうから。歴史は巡るのである。しかし、悠久の歴史に想いを馳せる余裕は今の円にはなかった。彼女の目下にあるのは、社会の問題ではなく、理科なのである。
なおも続く母子の攻防の喧騒に、もともと我慢強い方ではない円の忍耐はすぐに限界に達した。
「あーもう、うるさいな」
立ち上がって、ダイニングテーブルで駄々をこねている妹に向かうと、妹は、くりくりとした円らな瞳に警戒するような色を浮かべていた。
「アサヒ、お姉ちゃんと一緒に今すぐお風呂に入るよ」
切り口上でそう言うと、円は妹の小さな手を取って、軽く引いた。このまま浴室に導いて、手早く妹の体と髪を洗ってやって騒音源を撤去した方が、騒音を聞きながら何度もシャープペンの芯を折るより、よほど精神衛生上、健全というものである。どうせ円も入浴しなくてはならないし、またそもそも妹をお風呂に入れることは、そのとき手が空いている家族の誰かの仕事でもあったのだった。
六歳にもなるとなかなか力がついてくるものだ、と妙なところに円が感心したのは、妹の旭が、姉の手を振り払ったときだった。
「やだ! 円お姉ちゃんとも、環お姉ちゃんとも、お母さんともお父さんとも誰とも入んない!」
憎々しげに、べーっと舌を出す妹に、感心の気持ちはすぐに苛立ちに取って代わられた。円は奥歯を噛み締めることによって、聞き分けのない妹の頭をはたきたい欲求にどうにか打ち勝った。川名家のしつけ条項の中で、罰はお尻たたきということに決まっているのである。さらに悪いことに、条項の中に、姉の命に従わないことが罪であるという一文はないのだった。
お尻をたたくこともできない円は、深呼吸して気持ちを落ち着けてから、
「じゃあ、どうするの? 一人で入るの?」
そんなことできないくせに、という悪意を言外に込めて言ってやると、
「だから、ゆってんじゃん。今日は入んないって。お姉ちゃん、もっとアサヒのお話、ちゃんと聞いてよ!」
口応えして、ふん、とそっぽを向いた。
誓って言えることであるが、円には妹と同じくらいの時期に、姉に対してこんな乱暴な口の利き方をしたことはなかった。自分が姉にしたことがないことを、妹からされるとは、理不尽な話である。それは姉と自分の、妹に対する影響力の差なのか、それとも自分と妹の分別の差なのか。後者だと思いたい円だったが、彼女の希望はもろくも打ち砕かれることとなった。
とんとん、とリズミカルに階段を降りてくる音がして、静かにダイニングに現れる一人の少女。均整の取れた体つきにしとやかな容貌の彼女は、まるで殺風景な教室に置かれた一輪の花のように、ひとの目を引かずにはいられない清楚な輝きに溢れていた。
「上までアサちゃんの声が聞こえてたけど、どうかした?」
姉がいつもの微笑を浮かべながら、その音楽的な声を出すと、旭は椅子からうんしょと下りて駆け、姉にしがみついた。
「あら、どうしたの、アサちゃん?」
優しく妹の体を放したあと、膝を床につけて妹と視線の高さを合わせた姉が訊くと、
「タマキお姉ちゃん。お母さんと円お姉ちゃんが、あたしに嫌なこと言うの」
同情を誘う哀れな声で、母と二番目の姉の非情を訴えた。
「嫌なこと?」
「うん」
「どんな?」
「お風呂に入れって言うの。入りたくないのに……」
「アサちゃん。お風呂に入りたくないの?」
「うん。入りたくない」
旭はきっぱりと言い切った。
少し離れた所から、円は興味深く姉を見ていた。妹の我がままに対するいらいらは、今度は姉の対応に対する関心へと代わる。この難物をどうやり込めるのだろうか。後生のために道を示してもらいたいものである。そんな円の耳に聞こえてきたのは、
「そっか入りたくないんだ。じゃあ、入るのやめようか」
旭の自分勝手を許すかのような発言だった。まるで幼児を甘やかすような態度であったが、姉の行動を正確に評価できる自信のある円としては、その態度に失望はしなかった。必ず続きがあるはずである。そう期待をかけていると、やはり案の定であった。
「入らなくていいの?」と旭。
「いいよ。アサちゃんが、どうしても、どうしても、どうしても嫌だって言うなら」
「……どうしてもってわけじゃないけど……」
「どうしてもってわけじゃないの?」
「うん」
「そっか。それじゃあ、お姉ちゃんのために入ってくれると、お姉ちゃん嬉しいな」
「お姉ちゃんのため?」
「そう。お姉ちゃん、アサちゃんとお風呂で遊びたいんだ」
「遊ぶ?」
「うん。あとね、すっごくいい匂いの石鹸があるんだよ。ハチミツの匂いがするやつ。それで体を洗いっこしたいの」
旭の大きな瞳がきらきらと光っている。すでに勝敗は決していた。それは、姉と旭の勝負でもあり、姉と円の勝負でもある。意固地になっていた旭の気持ちを瞬く間に解きほぐしてしまった姉に、円の心は軽く打ちのめされていた。改めて、姉との差をひしひしと感じていた。今しがたなされたことは、幼い妹の機嫌を直したというだけのことであるが、姉は、一事が万事、この調子で物事をスムーズに処理していくのである。二歳という人生経験の差が、この年代には絶対的な意味を持っていると信じられれば気も楽であるが、姉は自分と同じ年だったときから現在と同じような様子であった。
「お母さん、頂き物の石鹸、使わせてもらうね」
姉が、上機嫌になってかえって彼女の手を引っ張るようにしている旭とともに、バスルームの方角に消えると、円の口元からため息が漏れた。
「どうかしたの、マドカ?」
耳ざとく娘の憂いを聞き取った母が、エプロンで手を拭きながら訊いてきた。
自分の心中を素直に表現するには少々大人になりすぎた円としては、
「お姉ちゃんって、いつからあんな感じだったの?」
と間接的な質問で母への問いに答えるのが妥当な線であった。
「あんなって、どんな?」
「あんな可愛げない感じってこと。時々、お母さんより大人に見えることがあるわ」
母はくすりと口元を綻ばせると、確かに、と言って首肯した。
「そーなのよね。わたしも、ときどきね、自分のお腹から何が生まれたんだろうって思うことがあるわ」
「お母さんが教育したんでしょ」
母は、うーん、と首を捻ると、
「タマキは昔からあんな感じだったからな。あんまり教育した覚えも無いんだけれど。親が無くとも子は育つっていうからね、親がいても子は育つように育つのよ」
無責任な発言をした。
「それだって生まれたときからあんなんじゃなかったわけでしょ」
「もちろん、タマキにも可愛いときはあったわよ」
「いつ頃からなの、お姉ちゃんがスレちゃったのは」
姉が非行に走っているかのようなことを言う娘に苦笑する母。いつ頃からかな、と記憶を探るような顔をして、
「小学校の一年生くらいかな」
と検索結果を発表した。
「その頃は本当に手に負えなくてね、今のアサヒなんか全然比べ物にならないくらい。始終怒ってるし、何かっていうと反抗するしでね。ひどいものだったわ」
言葉とは裏腹になつかしむ色を見せる母が意外なことを言っていた。しっかりした、しすぎているあの姉にも母を困らせる時期があったとはちょっと想像できなかった。
「でも、そのうち収まってね。ああいう時期のことを分別がつく時期って言うのかな。急に今みたいな感じのいい子になっちゃって」
少し寂しげな色を見せた母に、円は、
「親から見ると、しっかりした子どもって、あんまり可愛くないの?」
と、危うい質問をした。
母は、失言を恥じるように決まり悪い顔を作ったが、すぐに気を取り直すように首を振ると、
「わたしにとってはね、娘っていうのは可愛がるものじゃないんだな」
と円をちょっと驚かせる発言をした。愛の対象でないとしたら、子とはどういう存在になるのか。
「それはね、感謝の対象よ」
「感謝?」
「そう。あなたたち三人はね、わたしを母親にしてくれるために、生まれて来てくれた。あなたたちによって、わたしは母親になれたのよ。そういう意味で感謝の対象なの。ありがとうね」
優しい目で、率直な声で、そう語りかけてくる母の、その娘であることをこれほど幸運に感じたことはなかった。子に感謝を示す奇特な母に、こちらこそ、と素直に返礼したい所であるが、照れくさくてとてもそんなことは言えず、代わりに、
「不肖の娘ですが、今後ともよろしくお願いします」
と冗談ぽく答えるのが精一杯だった。
母の顔がにこりと笑みを作っていた。
「マドカ。『不肖』っていう言葉のもともとの意味、知ってる?」
「もともとの意味?」
「そうよ」
愚かであるという意味しか知らない円は、大人しく母の教えを待った。
「それはね、似てないってことなの。親に似てないってことよ。親に似ない子、すなわち愚かな子ということになるわけ。でもね、わたしはあなたたちに、わたしに似て欲しいなんて全然思わない。わたしのお腹を通って出てきたあなたたちは、でもね、わたしとは別の人なんだもの。その意味ではね、どんどん不肖であって構わないわ」
母の言葉は、姉に対して対抗心を持つ円へ一つの道を示すものだった。親子が似ずともよい存在ならば、姉妹は尚更であろう。逆に、似ていないということが個性を表すことであり、個性に価値があるとするなら、似ないほど良いということになる。しかし、そういう方向へ思考を進ませていくのは今の円にとって難しいことであった。円の目には、他へ視線を逸らせないほど、姉が輝いて見えていたのである。
「着替えてくるね」
とはいえ、一つの可能性を与えてくれた母に心中で感謝しつつリビングを出た円の耳に、バスルームの方から、水音ときゃっきゃっという楽しげな笑声が聞こえてきた。