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プラトニクス  作者: coach
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第37話:人は運命を選ぶことができる

 太陽が一日の勤めを終えようと、地平線に向かってゆるやかに下降していた。ただ、退社時刻にはまだ時間があるようで、彼女の眼下には、夕暮れの色に染まりきらない町が見えた。

「今日はさ、加藤くんの家経由ルートで帰らない?」

 新聞作りの役割を決めて、部活動を終え、いつものように帰り道を歩き出した時だった。

 横から流れてくる鈴音の声に、怜は即座に、

「だめだ」

 と、にべもなく答えた。

「どうしてさ?」

 不満混じりの声に、今度は答えなかった。どうしたもこうしたもない。遠回りになるからに決まっている。

「加藤くんの家で別れるからさ」

 怜は首を横に振った。話にならない。それでは、怜は自分に課した義務を全うできないことになる。

「お願い」

 このとーり、とわざとらしく両手で拝むような振りをする彼女に、怜は、もう一度はっきりとNOと答えた。

「たまには別の道を通って帰りたいっていうこの気持ち、分かんないかなあ」

 ため息混じりの声に、特にそんな気持ちになったことのない怜は、分からない、と正直に答えた。

「面白くない人」

「それは自覚してる」

「ね、お願い」

 少女はなおもしつこさを見せた。普段なら――といっても付き合いはここ最近のことなのだが――ここまで彼女が我を通そうとすることはないのだが、と怪訝に思った怜に、思いついたことが一つ。

「じゃあ、交換条件だな」

 お、と思わぬ成り行きに軽い戸惑いの表情を表した彼女が先を促すと、

「お前の変身ぶりについて説明してくれたらな」

 と怜は条件を出した。昼休みの時といい、部活の時といい、鈴音の変貌振りは気になっていた。他人がどう変わろうが何の関心も無いが、鈴音が、他人と言うには抵抗がある程度には親しい関係にあることは認めなければならないし、また、こちらの方が深刻なのだが、変身した彼女の攻撃対象にどうやら怜が含まれているらしいということに気づき、無視できない事態であったからである。

「変身?」

「ああ」

「何のことを言ってるのか分からないな」

 少女は、素知らぬ風を装うと、通学路をそのまま軽やかに歩いた。同学年の女子としては高い背筋が立っている。その上にある繊細な首筋、花のような形になった芸術的なハーフアップの彩る顔容には、落ち着いた色があって、同年代の少女より一つ二つ年上のような印象を与える。

 しばらく前を向いていた鈴音の整った顔立ちが怜の方に向けられたのは、あるY字路でのことだった。一方を通れば鈴音の家、もう一方を行けば怜の家へと続いている。決断の場である。鈴音は立ち止まると、つられて足を止める怜に、先の交換条件を呑むことを告げた。ただ、その前に、

「女の子の頼みってのはさ、何でも受け容れてあげるのがイイ男なんじゃないかな」

 と最後の一撃を怜に加えることを忘れなかった。

 打たれた怜は、しかし何らの痛痒も感じなかった。もし彼女の言う通りだとすれば、イイ男になるということは苦行以外の何ものでもない。そんなことをして得られるものが、鈴音のような少女の歓心だとすれば全く割りに合わない話である。

「そんな……わたしのこと好きじゃないの?」

 両手を胸の前で組み合わせて上目遣いで訊いてくる鈴音に、

「それで?」

 と平静に促すと、詰まらなそう顔をした少女は、静かに、

「この前の金曜日にね、あなたの頬に触れたときにわたしの中の何かが変わったの」

 とだけ告げて、それで察しろとでもいうかのように口を閉じた。

 それだけではさっぱり分からなかった怜だったが、一つだけ分かったことがある。目前の少女が急に小憎たらしくなったことに、自分が一役買っているということである。

「これが今のわたしみたい、どうかな?」

 鈴音は両手を広げて、新しい自分をお披露目した。彼女の顔には、晴れ着姿を見せるときのような恥じらいと、初めて着た新品の服を見せるときの怖れの色があった。

「オレがどう思うかとは関係ないだろ」

 怜のぞんざいな答えが何を意味しているか、鈴音にはよく理解できた。理解はできたが、彼の想いに従う必要がない、と考えることができるのも今の彼女だった。

「そうでもないよ。いつかみたいに、『可愛い』って言ってもらえると嬉しい」

 そんなことをこれまで言ったことがあったかどうか、覚えてないが、何にしても今の鈴音を可愛いと評価するには、そういう言葉を同年代の少女にかける気恥ずかしさ以上の抵抗があった。

「冗談だろ?」

 と怜が確認すると、 

「前の方が良かったの?」

 そう返した彼女の言葉に寂しげな陰影がある。とっさに自分の発言を訂正しようかと思った怜だったが、その必要はなかった。鈴音の顔に、にやにやとした人の悪い笑みが見えた。変わりすぎであった。

「そうかな?」

 鈴音は小首を傾げ、そのあと、

「でも、わたしはこれで行こうかなって思ってる。この心のままに」

 とまっすぐに言った。

 少女の声には清浄なものがあった。

 怜は自分の役割が終わりに近づいていることを理解した。だからこそ鈴音はいつもとは違う道を選んだのであろう、ということも。

 いつものY字路をいつもとは別の道に折れた二人は、仲の良い恋人同士のような風情で、ゆっくりと暮れ行く街路を歩いた。鈴音は、もとからよく話す子だったが、今日は常よりもよくおしゃべりしていた。静寂を好む怜だったが、なぜだか鈴音の声は気に障らない。穏やかに鳴るBGMのような雰囲気で、心を落ち着かせるような作用がある。

「マドカちゃんにはまたフラれちゃいましたね」

 前言撤回。鈴音の奏でる音楽には、たまに不協和音が鳴り響く。

 部活動が終わったあとに、今日の帰り際にも円に一緒に帰るように誘ったのだが、すげなく断られていたのだった。

「今日は少し話せただけでも良しとするしかない」

 怜は自分を納得させるような調子で言うと、

「話せた? あれで?」

 とからかうような口調の鈴音。

「加藤くん、数学教えてただけじゃない」

「それだって進歩だろ」

「そのスローペースだとなかなか進展しませんね。せっかく同じ部で接点があるのに、何にもないまま一年過ぎちゃうんじゃないの」

 どうにも不穏な空気を感じ取った怜は、何もするなよ、と強い口調で念を押すように言った。

「何もって、何のこと?」

 にたーっと秀麗な(おもて)を歪める鈴音に、背筋に走る悪寒。自分の頬にどんな効果があったのかしらないが、三日前と明らかに変わってしまった少女に、怜としては、

「マドカちゃんとの間を取り持とうなんていうインチキなキューピッドは必要ないってことだよ」

 とはっきりと言葉にする必要があった。

 残念そうな様子で視線を下に向ける鈴音。どこまで本気かは分からないが、怜は再度釘を刺しておいた。

「はいはい、分かりました」

 不承不承という調子で少女が答えていた。

 それから二十分ほども歩くと、怜の家に着いた。

 じゃあね、と別れを告げる鈴音に、怜は少し待つように言い、家に入っていった。一、二分ほどで、鞄を置き身軽になった怜が再び姿を現すと、その手に何かを握っていた。

「ありがとう」

 差し出された、片手にできるほどの小さな紙パックのジュースを受け取りながら鈴音。ストローをさして口をつける所で、怜が手を差し出している。何かをよこせと言っているらしいことが分かった鈴音は首を捻った。

「百円でいい?」

 少女がからかうような声で言うと、そんなわけないだろ、と怜は好意の対価の受け取りを拒否した。その代わりに、鞄をよこすように言う。鈴音の鞄が、怜の肩にかけられた。

 歩き出す少年の行く先に何があるのか、鈴音には考えるまでもなかった。

「まあ、そんな気もしてたんだけど」

 家まで送ってくれるつもりの怜の隣に並びながら鈴音はそう言うと、悪いね、と感謝の言葉を口にした。

「こっちの都合だから気にするな」

 怜が無愛想に答えるのを聞きながら、鈴音は微笑んだ。彼女を彼女のために家まで送り届けてくれるということが彼の都合になるのは、彼が自分のルールで動いているからである。そうして、不思議なことに、その彼のためのルールによって、なぜだか鈴音は優しい気持ちになれるのだった。ただ、そういう気持ちに浸り切らないでいられるほどの強さを、どうやら鈴音は獲得したようである。

「本当は明日にしようと思ってたんだけどな」

 一つ心を決めた少女が晴れ晴れとした声を出した。

 何ごとかと注意を引かれた少年に対して、

「明日の朝からもう迎えに来なくていいよ、加藤くん」

 鈴音は穏やかに伝えた。

 少しは緊張するかと思っていたその言葉には、震えも淀みも全く無かった。

「分かった」

 と簡単に答えた少年の声にも感慨めいたものはなく、全く平板な口調だった。

「今までありがとうね」

「オレは何もしてない」

「だからよ」

「…………」

「わたしを信頼してくれた。だからこそ感謝したいの」

 鈴音がはっきりとした口調で言うと、怜はそれ以上は何も答えなかった。こちらからちょっと視線を逸らすようにしている。何だか居心地悪いような様子であるが、鈴音はしばらくそのままにして放っておいた。鈴音のためという意識の薄い怜は、彼女の謝辞を受けても、不相応な謝礼を受けているような決まり悪さでも感じているのだろう。だが、この謝意だけは、どうしても受け取ってもらわなければならない。

 しばらく無言で歩き、隣の彼が戸惑う様子をちょっと意地悪い気持ちで見守っていた鈴音の頭に閃いたことがあった。

「加藤くん」

 やっと気恥ずかしい思いから立ち直った所なのにまた何かショックを与える気でいるらしいと邪推した怜が、鈴音の言葉を待つと、

「ちょっと言いにくいんだけど……」

 と、珍しく歯切れの悪い口調で言葉が継がれた。

「一つ頼みたいことがあるんだ」

「頼み?」  

「うん。無理だったら、断ってくれて全然構わないんだけど」

 怜は先を促した。そこまで言いにくい話だと、返って興味を誘われるというものである。

「あの……お母さんがね、送り迎えしてくれてるお礼に、次の土・日に加藤くんにご馳走したいって言ってるの。もちろん、加藤くんがお暇ならだけど」

 考える素振りを見せた怜の心中が、鈴音にはよく理解できた。彼としては、鈴音の登下校に同行することはわざわざ礼をされる筋のことではないという意識があるのだろう。だからこそ言い出しにくかったのである。ただ、それでも言わざるを得なかったのは、母の気持ちをおもんぱかったからであった。不登校で心配をかけた母への孝行のために、できる限り母がしたいことをさせてあげたいという気持ちが鈴音にはある。そして――

「特に今週は予定がないから構わないよ」 

 その彼女の気持ちを酌んでくれるのが、怜という少年だった。

「ありがとう」

 心からの感謝の言葉に、土曜日でいいか、と怜は事務的に尋ね、鈴音を微笑ませた。

 いつものように鈴音を彼女の家に送り届け、娘を待っていた母親に少し遅くなったことを詫び、招待の礼を述べて、家に帰ると、夕飯の用意をしていた母から、今週末に彼女の姪、すなわち怜にとっては従妹に当たる少女が来ることを告げられた。

「由希が? 何しに?」

「何って……従兄妹のところに来るのに理由がいるの? 遊びに来るのよ。何か、来週の月曜日が学校の創立記念日ってことで休みらしいのよ。だから、土・日は泊まってくから」

 怜は、それはそれで構わないが、土曜日は予定が入っていることを告げた。

「デートならいつでもできるでしょ」

 いつも思うことだが、少しでよい、子に何か言う前に、同じセリフを二十数年前の自分自身が聞いたらどう思うかということを考えてもらいたいものである。誰から躾けられたのか知らないが、親にそんな不躾なことを言える無礼さを抑えることができる怜としては、代わりに、大事な用であることを辛抱強く告げるという手段を執った。

 息子の断固とした態度に、母は不満そうな顔を作りながら、それでもしぶしぶ了承してくれた。

「由希ちゃん、来るんだ。会うの、お正月以来だな」

 妹がはしゃいだ声を上げていた。

 従妹が一人来るということは、妹が一人増えるのと同義である。それは、すなわち、そもそもが良くなかった家の居心地が悪化することを意味している。怜は、予定を入れてくれた鈴音に感謝するとともに、他に、ひょっとしたら日曜日に前から約束していた予定がなかったかどうか、注意して記憶をたどってみることにした。

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