第33話:新文化研究部の一場
――ごめんなさい。
そう言って、少女は頭を下げた。放課後の、校舎と校舎をつなぐ渡り廊下だった。夕暮れにはまだ遠く、午後の日がコンクリートの床を白色に照らしていた。
瀬良太一にとって、その言葉は少なからずショックだった。久しく聞いてなかった類の言葉なのである。
顔を上げた少女は、つい二カ月前まで小学生だったこともあり、中学校の中では、まだまだ幼さを多分に残していた。体つきが小柄であること、前髪を左右に分けることによって露になった額も子どもらしさを助長していた。
――お姉ちゃんに聞いたんです。先輩はたくさんの女の子と付き合ってるって……
その声音には責める様な色はない。
――わたし、先輩はステキだと思います。告白してくれたのも嬉しかったです。でも、数ヶ月で終わるお付き合いはやっぱり嫌です。
少女の円らな瞳には一生懸命な光があって、彼女が精一杯自分の力で対処しようとしているのが見て取れた。自分の思いをできるだけ正確に伝えようとするような調子のその言葉に、太一はがっくりと肩を落とした。よくよく考えてのことなのだということが分かったのである。
――よく分かったよ。ありがとう、理奈ちゃん。
諦めよくそう言ってとぼとぼと歩き出す太一の横に、理奈は並ぶと、訝しげな顔をして立ち止まる先輩に向かって、
――あの……先輩をずっと好きなままでいさせてくれる人がきっといると思います。
まっすぐな声で言った。
太一の目と見つめ合う格好になって恥ずかしくなった彼女は頬を染めると、タッタッとその場を足早に離れていった。太一が理奈の小さな背を目で追うと、おそらく彼女の友達だろう、何人かの少女たち、と合流しているようだった。女の子たちの笑い声を聞きながら、太一の耳に、理奈の声が何度もこだましていた。
ずっと好きなままでいさせてくれる人が……
太一はふっと微笑むと、
「それはお前しかいない、怜」
勢い込んで目前の少年に告げた。
怜は、太一のいつもの冗談をいつものように無視しながらも、多少の憐れみを覚えていた。
毎日の習慣として、部室であるこの視聴覚教室に来たのが十五分前のことである。それから五分ほどして、太一が現れ身も世もない振りでフラレた話をし出して、現在に至っている。怜が日頃太一には全く感じない同情の念を今回に限って感じたのは、妹を経由して太一の美点を、彼の告白相手に伝えられなかった罪悪感が一つ、もう一つは太一が宮田事件を聞いたときに今朝取ろうとしてくれた行動に対する感謝である。
「初めてだな。お前が断られたの」
怜の言葉に、太一はその整った顔立ちをくもらせて、
「いや、初めてじゃない、二度目だ」
いった。初耳である。しかし、興味のある話ではない。しばらく怜が無言でいると、
「おい! 突っ込めよ、レイ。今、聞いてもらいたいオーラを出してただろ」
自分勝手なことを言い出す太一。怜は耐えた。今日は太一の良い面を見せてもらった。このくらいは我慢すべきだろう。
「それで? 最初に断られた相手ってのは誰なんだよ?」
怜がしぶしぶ訊くと、
「それは言えねーな。いくらお前でもな、レイ」
遠い目をして美しい過去に思いを馳せるような調子の太一。
義理を果たした怜は、別世界に飛んでいった太一をうちやっておいて、隣の席に着いて勉強している少女の方を向いた。勉強は、現在、文化研究部の活動の一環になっている。そして、下級生の勉強を見ることは上級生の役割だった。
「どう? 円ちゃん。何か分からないところ、ある?」
女の子に話しかけるときに特に緊張したことのない怜だったが――そも女子に話しかける機会もあまりないのだが――彼女に話かけるときは例外である。胸の鼓動が速くなり、かすかに声が震えるような気さえする。傍目から見ている分には、まるきり恋する少年である。マドンナ役の少女は声に応じて、ふと顔を向けた。くせのない綺麗なストレートラインの黒髪、爽やかな目元。涼風が流れてくるような趣のある少女である。
「いや……別に無いならいいんだけど」
怜は先回りするようにして言った。何だか阿るような所作でみっともない、と思うのはいつもあとのことである。彼女に相対しているときは、嫌われないようにコミュニケーションを取ろうとするだけで一杯一杯なのだった。
「これを教えてください」
少女の澄んだ声に、怜は信じられない思いで彼女を見た。見つめすぎたようである。円は怪訝な面持ちを作ると、
「あの、この問題なんですけど」
と言って、怜の注意を自分の顔から、机の上に広げてある数学の教科書に向けさせた。
怜は慌ててうなずくと、椅子を円の机に寄せて、教科書を見た。
「えっと、一次関数だね……この問題は……」
問題を確かめた怜は違和感を感じた。その正体はすぐに分かった。円の勉強が進みすぎているのである。まだ五月下旬であるにも関わらず、円は既に秋口に取り掛かるはずの分野の問題を解いていた。
「塾でやってるんです」
言葉少なに説明する円に、怜は丁寧に問題の解き方を教えた。数学だけはメジャー教科の中で得意で成績も一定して良かったのである。
「ありがとうございます、レイ先輩」
キレイに問題が解け喜びに少し表情を崩した円のその言葉に、怜ははっとした顔を作った。
「何か?」
喜色を静めた円の疑問の声に、怜は、いや、と首を横に振った。
じいっと、怜の内心を探ろうとするかのように瞳を向けてくる円の横から、
「ご説明しましょう」
と面白そうな口調で割って入ったのは鈴音だった。怜は内心に苦いものを感じたが、円の手前、それを外に表すことはできない。鈴音は、顔を向けてきた円に向かって、
「マドカちゃん。今、加藤くんのこと、名前で呼んだでしょ。だから、照れてんのよ。意外と可愛いとこあるよね」
有り難くも怜の気持ちを説明してくれた。
説明を受けた円は納得した顔を作ると、もう一度、怜の方に向き直り、
「すみません。姉が名前で先輩のことをお呼びしてるのが、うつってしまったみたいです」
と非礼を詫びた。これからは加藤先輩とお呼びします、と続けようとした円の言葉を遮る形で、
「呼びやすいほうで構わないよ」
と怜は慌てて言葉を差し入れた。
傍から見ていた太一は忍耐の限界だった。
「おーい! 人が失恋したその横で、何なんだよ、君タチは? その甘酸っぱい青春ドラマみたいなことやめろー!」
叫び声を上げると、うっとうしそうな顔をしている怜に、
「お前が羨ましいよ、レイ。お前、本当にモテるよな」
訳の分からないことを言い出した。関わりあいを避けたい怜は、円に、他に分からないところがないか訊いた。
「今のところ、大丈夫です」
再び教科書に向かう円を見ていた怜の両肩を太一ががっちりととらえた。
「おい、レイ、教えてくれ。どうやったらモテるんだ?」
「オレがいつモテてるんだよ」
煩わしげに太一の手を払う怜に、
「モテてるだろ。まず、タマキだろ。あと、ナナミとアヤも何かお前には優しいし」
指を折りながら言うと、さらに、
「それにスズだって、絶対お前のこと好きだし」
追撃した。
「それ、本人の前で言いますか、瀬良くん」
鈴音は微笑しながら平然として言った。
太一は口を開けたまま唖然とした表情を作った。
「え……本当だったのか、スズ?」
「好きか嫌いかっていったら、好きでしょ」
当然のような口調で言う鈴音を尻目に、太一は怜の机をがたがたと揺らした。
「おい、今の聞いたか、怜?」
その問いには答えず、怜は別のことを尋ねた。
「お前、バドミントン部はいいのか? 最後の大会前だろ」
「失恋したんだぞ。部活なんてやってられるか」
話題を変えようとした怜の努力を徒労にした太一が続ける。
「そんなことより、今のスズのさらりとした告白はどういうことなんだよ?」
答えるのも面倒である。それに答えるには橋田鈴音がどういう少女なのかということを説明するほかなく、彼女の性質ににわかに測りかねる部分が多くなってきたことを感じている怜からすると、一層煩瑣なことになる。無視しようかとも思った怜の気が変わったのは、横から円がシャープペンを動かす手を止めて、興味深そうにこちらを眺めていたからだった。
「冗談に決まってるだろ」
太一は引き下がらなかった。確かめるように鈴音を見ると、少女はにこりとした。
「そういうことにしといてもいいわ」
「あんなこと言ってるぞ、怜」
怜は、鈴音に、円の前であまりはしゃがないようにしてもらいたい、と目で訴えたが、返ってきたのはにやっとした人の悪い笑みだった。彼女は立ち上がると、
「わたしだけじゃないよ、加藤くんのこと好きなのは」
そう言って円の後ろから、その細い両肩にそっと自分の手をのせた。
「マドカちゃんも加藤君のこと好きだよね」
円が逡巡を見せずに、はい、と素直にうなずいたことで、一瞬、怜の胸がどきりとしたが、さすがにその言葉通りを信じるほど無思慮ではない。鈴音の悪ふざけに円が乗っただけのことである。怜に対する悪ふざけに乗るということは、それだけ円が打ち解けてくれた証拠だとも思えるが、人を惹くような人間ではないことを自覚している怜としては、
――単に鈴音と仲がいいからだな。
と解釈した。
太一が深いため息をついた。まじまじとこちらを見ているので、怜が、
「今度は何だよ?」
一応訊いてみると、太一は、
「お前が女だったらなあ」
としみじみと言った。訊いたことを後悔した怜に、
「ほんと、お前が女だったら、お前のこと本命にしてさ、絶対他の子とは付き合わないね」
続けた。自分の気分が悪くなることは度外視するとしても、せめて円の前であることを考慮して欲しいものである、と怜は心の底から思った。
「怜だったら、オレのことをずっと好きなままでいさせてくれると思うんだよなあ」
黙ったままでいようかと思ったが、怜は一言言っておくことにした。はっきりと釘を刺しておいたほうが良いだろう。これ以上、この調子で続けられたらたまったものではない。怜の口が開きかけた時に、上から別の声が先に降ってきた。
「それは違うと思うな」
太一と怜の視線が集まるところにハーフアップの少女の顔がある。
「加藤くんが本当に女の子だったら、瀬良くんはそんな気にならないんじゃないかな。加藤くんが男の子だっていう揺るがない事実があるから、安心してそういう仮定的なことが言えるのよ」
そうはっきりとした声で続けた鈴音の言葉は、太一のこれまでのふざけ半分の笑みをおさめさせ、表情を真剣なものに改めさせるのに十分な強さを持っていた。