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プラトニクス  作者: coach
32/276

第32話:切り札の切り時は突然にやってくる

 それは、怜の名前が校内放送で呼ばれた、少しあとのこと。

 三年五組の教室にある机の一つから、一人の少女が立ち上がった。彼女は、給食を食べ終わり空になった食器を片付けると、そのまま教室を出た。誰もそれを不審に思うことはなかった。お昼休みである。教室に留まっている必要はない。廊下で佇むも良し、図書室で読書するも良し、中庭で光を浴びるも良し。何にせよ、自由時間を満喫するために彼女も教室を出るのであろう。五組のクラスメートで彼女の姿に目を留めた者は誰もがそう思うはずであり、そう思ってもらえるように彼女自身も特に自然な動作を心がけた。

 ところが、

「タマキ」

 廊下に出てほんの二、三歩あるいただけの所で、後ろから声がかけられた。一瞬、聞こえなかった振りをして歩き続けようかとも思ったが、やめた。そんなことをしても、もう一度声をかけられるだけであるし、逃げるのは彼女の性分ではない。

 環は、立ち止まって振り向いた。目前に見知った顔がある。整然とした、という形容がぴったりの顔容である。眉と顎のラインで切り揃えられた黒髪が縁取る白い(おもて)に、切れ長の瞳とすっと通った鼻筋、薄紅色の小振りな唇が麗しく配置されている。彼女を見ていると、完成された一枚の絵画や一体の彫刻を見ているような気分になる。

「なあに、アヤちゃん?」

 いつまでも芸術を鑑賞している時間がない環は用件を訊いた。こちらのほうが少し背が高いので、気持ち見下ろす格好となる。

「どこ行くの?」

 伊田(アヤ)は静かに尋ねた。

 環は、じっと綾の目を見たが、綾は平然とその視線を受け止めた。

「お手洗いよ」と環。

「じゃあ、一緒に行く」

「アヤちゃん、そんなことしてくれなくても、わたしたちの友情は不滅だよ」

 環は心持ち強い口調で言ってみた。綾が自分を呼び止めたのはなぜか。考えるまでもないことだった。この鋭敏な友人の目を引かないようにするために忍んで出たのである。ところが見つかってしまった。こうなった以上、しっかりと意思表示をしておく必要がある。もちろん友人に対してぶしつけなことはしたくないので、婉曲に言ってみたのだった。

 綾は、ふと歩を進めると、環の進路上に回り込んだ。

 婉曲すぎて分からなかったのだろうか。環はもう少しはっきりと自分の気持ちを表すことにした。

「ねえ、アヤちゃん。あなたはわたしの大事なお友達だけど……邪魔はしないでね」

「友達だから(・・・)よ」

 綾は相手を落ち着かせるために、ことさらにゆっくりと言葉を出した。他のクラスメート同様、綾も五組に流れるある噂を聞いていた。そこに噂になっている当人を職員室へと促す校内放送ときた。噂が真実味を帯びたのである。そうしてもしそれが真実だとしたら、環がどういう対応をする気でいるのか、綾には分かるのだった。それを止めに彼女は来たのである。

 廊下で何やら見つめ合う格好になっている二人の少女に、何人かの生徒が視線を送っていた。

「分からないな」

 環は微笑むと不思議そうな振りで言った。

「分からない?」と綾。

「ええ、全然ね」

 その口調の強さが、分からないというよりは、分かるつもりがないという彼女の意志を明確に表していた。しかし、綾はひるまなかった。

「間違った行為をしようとしているときに正すのが友だちでしょう」

「間違いを正す? わたしは友人を、そんな作文の添削者みたいに思ったことはないけど」

「じゃあ、どういうのが友だちなの?」

「アヤちゃん、友人論はまた今度ね。急ぐから」 

 すり抜けようとした環の腕が取られる。

 環は笑みを消した。

「聞かせて。アヤちゃんだったらどうする? 大切な人が自分の所為で傷ついたら」

「傷つかせた相手のところに行って、頬を張って、『どうしてわたしのところに直接来ないの、この卑怯者!』って罵るわ」

「あら、よかった。意見が一致して。じゃあ、そういうことで」

 環は、放すようにとの意図を込めて、自分の腕を握っている綾の白い手に触れたが、綾は首を横に振った。

 いつも明るく柔らかな光を湛えている環の目に硬質な光が溜まった。

 綾はあくまで静かに言葉を継いだ。

「でも、もしわたしがそれをしようとしたら、わたしを止めてくれる人がいる。そうでしょ?」 

「とは限らない。一緒に引っ叩きに行くかもしれない」

 譲らない環に、綾は少しの思案ののち、

「あなたがこれからしようとしていることは、決して加藤くんを喜ばせないわ」

 側面を衝くことにした。そのくらいのことを断言できる程度には、綾は怜のことを分かっているつもりであった。綾が分かっているということは、当然、環にも分かっているはずであるが、おそらく環は怒りで我を失っているのであろう、と綾は推測した。これで正気を取り戻してくれるかもしれない。しかし、

「そんなことは分かってる」

 環の苛立ったような言葉が、綾の推測を裏切った。

「でもね、アヤちゃん……」

 続く言葉が、環が我を忘れてなどいないことをはっきりと表していた。

「それはわたしには関係ない。これはわたしの話よ。レイ君の話じゃない」

 環の声には最後通告のような硬い響きがあった。その響きにはっきりとした意志を感じる。怜が嫌がるということを分かっていて、それでもなお為すべきを為すという強い意志。思わず諦めかけた綾は自身を叱咤した。ここで諦めれば、友人は見世物になるのである。彼女の声望は地に落ち、くだらないゴシップのネタになる。もちろん、タマキ自身はそんなことは歯牙にもかけていないのだろう。考えてさえいないのかもしれない。しかし、綾としては、環をみすみす嘲笑の的にするのに忍びない情がある。タマキ流に言えば、これは綾の話だった。

 綾は覚悟を据えた。考えられるうちで最後の手段に訴えることにした。

「どうしても行くっていうなら、わたしとここで絶交していきなさい」

 先の環の声と同じくらい断固とした口調だった。

 さすがに慮外のことだったのだろう。環の目が大きく見開かれた。

「アヤちゃん。今回のことと、アヤちゃんとの付き合いは関係ないでしょ」

 珍しく遁辞を構えようとした環を綾は逃がさなかった。ここで逃げられたらもはや勝機はない。

「関係あるかないかは、わたしが決める。さあ、どうする?」

 綾はいたって本気だった。絶交という言葉は文字通りの意味で使うつもりだった。そのくらいでなくては、とても環を止められないという思いがある。

「……手を放して」

 環の口元から漏れた言葉で、綾は自身の敗北を悟った。放した手が落ちるのと同時に、綾は軽く抱きしめられているのを感じた。環の黒髪から香る香気を感じながら、綾の心は沈んだ。

「別れの?」

 すぐ横にある筈の彼女の耳に向かってつぶやくと、環はふっと体を離して、綾と視線を合わせた。

「違う。感謝の抱擁よ。わたしはいい友達を持って幸せです」

 綾の体から力が抜けた。環の目にはいつものような静かな優しい光があった。敗北は綾の早合点だったらしい。この場は彼女の勝ちだった。しかし、勝利の代償に失ったものは大きかった。

「ごめんね、アヤちゃん。でも、もうこんなことさせないから」

 環が申し訳なさそうに言った。

 本心からそうしてもらいたい、と思った綾の目が、環の肩越しに、足早に近づいてくる二つの影を認めた。見知った顔である。環も二人に視線を送ると、おもむろにその場を離れようとした。

「どこ行くの?」

 綾が訊くと、

「安心して、お手洗いよ」

 言って、その場を後にした。一緒について行くかどうか、一瞬だけ躊躇した綾だったが、彼女の言葉を信じることにした。誠心で対応したことを裏切るような子ではないし、今は一つするべきことができた。

「遅かったね、加藤くん」

 綾は軽く恨みを含んだ目で遅れて現れたヒーローを見た。

 綾から軽く事情を説明された怜は耳を疑った。まさか本当に宮田の所に抗議に行こうとしていたとは思っていなかったのである。立ち直った怜は綾に礼を言ったが、彼女はそれを拒否した。綾としては、別に怜のためにやったわけではないという気持ちがある。

「そんなことより、加藤くん。わたしはもう切り札(カード)を使っちゃったから、あとはあなたがどうにかしてね」

 これだけは言っておかなければならない。絶交という言葉は、その重みゆえ何度も使える言葉ではない。

 神妙な面持ちをしている少年に、綾は続けた。

「そっちの事情は知らないけど……タマキは他の女の子の相手をしながら付き合える子じゃない。今日のことで分かったでしょう」

 確認を取るように言ったあと、怜の少し後ろに控えている少女に目を向けて、

「そう思いませんか? 橋田さん」

 と明るく作った声をかけた。それは、怜との付き合いを自重するようにとの警告のようにも聞こえたが、それ以上に本人を目の前にした嫌味にならないようにするための配慮の方が大きかった。このあたりに、伊田綾という少女の心性の繊細さが見える。鈴音が、素直に、その通りです、と答えることができたのはそれを感じることができたからだった。

 綾は意外な気持ちで鈴音を見た。彼女と怜の関係がどういうものであるのかは知らなかったが、鈴音にはあまり良い印象を持っていなかった。が、実際に会って声を聞くと、声音に澄んだものがある。それが彼女の心底から発せられるものであれば、彼女のイメージを変える必要があるだろう。

 綾は怜に顔を向けると、

「環はただ可愛いだけの子じゃない。前に言ったことをもう一度言っておきます。三度目はないようにね」

 忠告し、相手から了承の返事を受け取ると、一応満足して教室に帰った。

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