第31話:皐月の下旬、職員室までの往復路
校内放送が怜の名前を呼んでいた。職員室まで来いと言う。ちょうど食べ終わったところである。怜は席を立った。なぜ校内全域に渡る放送で自分の名前が呼ばれるという不名誉をこうむらなければならないのか。その理由。それは、愛ゆえに、というヤツである。怜は自分に酔ってみた。クラス中の注意が向けられているのだ。多少酔わなければやっていられない。
「加藤くん」
教室から廊下に出たところで、怜は呼び止められた。すぐ横に少女が現れる。
「わたしも行く」
鈴音は強い口調で言った。
「どこに?」と怜。
「職員室の前まで」
「呼ばれてるのはオレだけだ」
「そうよ。だから、前までって言ったの」
ついてきてどうするつもりなのか。考えられることは幾つもない。
「スズ。この前みたいなことは必要ない」
「あれはめったにしないって言ったでしょ」
「じゃあ、何で?」
「別にいいでしょ。それとも、わたしがついてくの、イヤなの?」
怜は正直にうなずいた。過保護な親ではあるまいし、ちょっとそこまで行くだけで付き添うなどお節介もはなはだしい。
鈴音はあからさまにショックを受けた顔を作った。そのあと、
「ひ、ひどい。加藤くんがそんな人だとは思わなかった」
そう言って、両手で顔を隠すようにした。傍から見れば泣いているように見えるだろう。そして、彼女の目の前にいる少年が泣かしているようにも。怜はため息をついた。教室で集めた分で好奇の視線は十分だった。この上、廊下でも集めたくない。
「分かったよ、好きにしてくれ」
怜が言うと、やった、とけろりとした表情で鈴音は言った。
並んで歩く少女の横顔を怜は疑わしげに見た。一体、どういうつもりなのか。彼女のことは多少分かっていたつもりだったが、よく分からなくなった。
「どうしたの? 横顔に見惚れてるの?」
いたずらっぽい笑顔を向ける鈴音に、怜は軽くムッとした表情を作った。
「何のつもりか、教えてくれ」
「何だと思う?」
「女の子の気まぐれとしか思えないな」
怜は容赦なく言ってみたが、鈴音の笑顔は崩れなかった。
「それを許すのが男の子の度量でしょ」
「じゃあ、度量が狭いんだよ」
「いま、まさに広がってるよ。そのきっかけをあげたわたしに感謝してね」
いつもの鈴音とどこか違っていた。職員室までついてくるというこの行為自体には好感がもてないが、彼女の言葉にも態度にも柔らかなものがあり、これまで感じていたどこか張り詰めていたものがなくなっていた。
「もし宮田くんに会ったら、今度はわたしがあなたの代わりになるからね」
怜は足を止めた。冗談でも言って良いものと悪いものがある。しかも、今の鈴音の言葉は全く冗談に聞こえなかった。
「誰がそんなこと頼んだ?」
怒気を含んだ怜の声に、
「誰も。わたしが決めたの」
と鈴音は静かに答えた。
「決めた?」
「そうよ」
「じゃあ、今度は撤回を決意してくれ」
「そういうことを加藤くんが言うとは思わなかったな」
怜は強い目を少女に向けた。彼女がうなずくまでは、この場を一歩たりとも動く気はなかった。
「分かったわ」
あまりにあっさりとした答えに拍子抜けした怜。再び歩き出すと、隣から鈴音が覗き込むような格好で訊いてきた。
「怒った?」
「そう思うのか?」
「やっぱり怒ってるね。どうしたら許してもらえる?」
「どういうことか聞かせてくれたらだな」
鈴音の様子は明らかに変わっていた。彼女は今まで怜を振り回すような言葉を使うことはなかった。しかもそれでいて悪意は感じないのだから、一層おかしかった。
「どういうことって、何を?」
「スズの変貌ぶりだよ」
怜ははっきりと言ってやった。
「変貌? 何のこと?」
「気立ての良かった子が、突然に憎たらしくなることだよ」
鈴音は大げさに喜んだ顔を見せ、
「気立てが良くて可愛いだなんて、そんな風に思ってくれてたんだ」
幸せそうな声で言ったあと、
「あ……でも、タマちゃんに悪いな」
眉の辺りを曇らせた。
「ちゃんと聞いてたのか? いつ可愛いなんて言った?」
「じゃあ、可愛くないの?」
女の子からそう問われたときに、仮に可愛くないと思っている時でも、それを言わないだけの礼儀が怜には備わっていた。そうして、怜にとっていまいましいことに、横を歩く少女にはそれが分かっているのだった。
「ねえ、どうなの?」
楽しげな口調で迫る鈴音の問いには答えずに済んだ。
二人は職員室についた。
「ちぇ、タイムアップだね」
そういかにも悔しそうに言って歩を止めた鈴音を置いて、一人職員室に入ろうとした怜の足がふと止まる。鈴音の豹変ぶりが気になって、職員室で待ち受けていることに対して全く緊張や不安を感じていないのだった。教室に感じていたときの酔いは醒め、すっきりとした気分だった。怜は自分の鈍感さに呆れた。鈴音がここまでついてきた理由がようやく理解できた。
「いつかの借りを返してくれたのか?」
戻ってきた怜が確認するように訊いてきたのに対して、鈴音は静かに首を横に振った。
「もう借りがどうこうっていう話じゃないわ。自分が納得できることをやりたいだけ」
「礼を言っとく」
どういたしまして、と小さく歯を見せる少女の元から離れ、職員室の戸の前で怜が振り向くと、彼女は手を振ってよこした。ここまでの彼女の言動は理解できたが、それでもやはり三日前までの彼女とは何かが違っていた。それを考える時間は今はなかった。怜は引き戸を開け、職員室の中に入った。
誰のところに行けば良いのかまでは指示されていなかったが、されてないということはおそらくは担任のところに行けば良いということである。どうやら当たりだった。その証拠に担任の机の近くに、一方当事者である少年が立っていたのである。
さて、怜としては、この件については終わりにしたい所であるが、宮田が先に着いていることがどういうことを意味しているのかを考えなければならない。もし、担任が宮田に先に事情を訊いていたとしたら、対応が面倒になる。彼が怜を殴ったことを認めでもしていたら、こちらも認めざるを得ない。それに続くのは、詳しい事情聴取、反省文の提出、場合によれば親への連絡であろう。小煩いことこの上ない。
「お前達二人に聞きたいことがある」
この担任のセリフが怜をほっとさせた。彼は公平を期すために、二人に一緒に事情を聞くというわけだ。本当に真実を調べたいのであれば、関係者は個別に調べるべきである。一方がもう一方に脅されているかもしれないからだ。このあたり、担任には事なかれ主義というか、あまりこの件を正視したくないという気持ちがあるのかもしれない。まだ十ヶ月ほど残っている学校生活を預けるにははなはだ心もとないが、こと今回の件に関する限りは、怜にとって都合のいいことであった。
「噂になってることがあるから、それが本当かどうかなんだが」
そう言って、怜が宮田に殴られたという話が伝わってきたことを告げ、事の真偽を確かめたい旨を続けた。
「それは誤解です」
静かだがはっきりとした声がその場に現れた。宮田が驚いた顔をまともに向けてくるのにも構わず、怜は、
「宮田くんが転んだ拍子に、手がぼくの顔に当たっただけです」
平然とした調子で続けた。担任が軽く疑いを含んだ目を向けてくるが、それは形式だけのものだった。教師はもう一度だけ、本当か、と念を押して、怜が、はい、とうなずくのを見ると満足した様子だった。そのあと、彼はもう一人の少年に向かって、事情を訊いた。怜は、彼がつまらない自尊心や、正義感を持っていないことを願った。宮田は、多少どもりながらも、怜と同じ説明をしてくれた。願いはかなったようだった。
当事者が両方とも事件性を否定していれば、それ以上、事件として取り上げるわけにも行かない。解放された怜は職員室を出た。廊下で窓際の壁によっかかりながら所在なげにしている鈴音に声をかける。
「どうだった?」
少女の心配そうな顔に向かって、問題ないことを告げると、
「良かった」
鈴音はほっとしたように小さく息をついた。
教室に帰るため、二人で歩き出したところだった。後ろから声をかけられた怜は、軽く目をつぶり心を落ち着けたあと、目を開けて体を半回転させて、
「何だよ?」
声の主に向かって訊いた。怜から少し離れた所で、
「何でかばったんだよ、俺のこと」
と宮田は力んだ目で訊いてきた。
一瞬、怜は何を言われているのか分からなかった。『かばう』とは、誰が誰を? 少ししてようやく彼が意図するところに思い至った怜は唖然とした。どうにも好きになれそうもない男である。どこまでおめでたいのか。自分が殴った男が、自分をかばうなどと、どうしてそんな解釈ができるのだろう。世界が自分を中心にして回っているとでも思っているのだろうか。
彼の世界と関わりを持たないようにするために、どう答えれば良いだろうか。どうにも思いつかなかった怜は、最後の手段として、一人の少女の顔を頭に思い浮かべた。彼女ならどうするかと考えたときに、ピンと思いついたことがある。
「三日前のことはオレの言い方が悪かったんだ、お前の気持ちも考えないで。だからだよ」
軽いショックを受けたかのように立ち尽くす宮田を、怜は置いて歩き出した。彼の返答を待たなかったのは、対峙していることへの嫌悪感もあるが、これ以上言葉を交わすとボロが出るのではないかとおそれたからである。
「アレで良かったの?」
宮田から十分に離れたところで、鈴音が横から訊いてきた。そう改めて問われると自信はない。心の中に棲むカノジョの力を借りて適切に対処したつもりなわけだが、それはあくまで想像に過ぎない。怜の言葉に対して、彼が馬鹿にされたと思い、返って恨みを積もらせる可能性もあった。しかし、そうなったらなったである。また何らかの対応をするだけだ。彼のことで、心を悩ませる気は怜にはもうなかった。
「通じないことが分かってる片想いってどんなんだろうね?」
鈴音が前を見たままで訊いてきた。
「さあな」
怜はぞんざいに答えた。これ以上、彼のことにかかずらいたくない。しかし、
「それはきっと悲しいことだろうね」
そう続けた彼女の声に紛れもない哀愁の調子があって、怜は態度を改めざるを得なかった。そうかもしれない、と鈴音の言葉を肯定してから、
「でも、大事なのは悲しみとどう付き合うかだろ」
と語を継いだ。
「どう付き合うか?」
「ああ。受け入れるか、拒絶するか」
「受け入れれば、いつかは忘れることができる。拒絶すればいつまでも意識しなければいけない。そういうこと?」
怜がうなずくと、鈴音の唇から言葉が漏れた。
「憎しみも同じかな」
「多分な」
鈴音がじぃっと怜を見つめていた。
「オレも努力してるとこだよ」
「何とかなりそう?」
「さあ、どうかな」
宮田くんに対する憎悪――というよりは嫌悪――を受け入れることはなかなかの難事だろう。
鈴音は、あなたなら何とかするわ、と請合ったあと顔色を変えた。
「加藤くん。五組に寄ってこう」
突然なことを言い出した少女に、怜は怪訝な目を向けた。
「何で?」
「タマちゃんがヤバいかも」
「ヤバいって、何が?」
鈴音はもどかしそうな顔で説明した。
「タマちゃんが噂を聞いたら、宮田くんの所に抗議に行くかもしれない」
「いや、無いだろ」
冷静な環がそんなことをして騒ぎを大きくするとはおよそ考えられない。
「タマキは自分がされたことには疎いけど、友だちがされたことには鋭いのよ。それがカレシで、しかも自分に関係があるって知ったら、なおさらだわ」
鈴音の焦りは怜には伝わってこなかった。付き合って四カ月強になるが、彼女が激したところなど見たことがないし、そういうところを隠しているような雰囲気もなかった。風のない湖面のような穏やかさというのが彼女の特徴であると、怜は思っていた。
「それはタマちゃんの半分だな。全部じゃない」
納得が行かないながらも怜は鈴音に従うことにした。何といっても彼女のほうが付き合いが長いのである。
「タマキに会うことになっても平気なのか?」
怜は問いかけたが、それに対する答えはなかった。
足を速める鈴音の背を怜は追いかけた。