第30話:瀬良太一の人となり
七海と別れ、家に帰る道すがら、怜は環のことを考えていた。今回の七海との件もやはり謝罪を要することである。微笑する彼女に向かって、また謝らなければならない。気のせいだろうか。何だか、この頃彼女には謝ってばかりのような気がする。許しを請わなければならないような悪行を働いた覚えはないのだが、なぜだか謝る結果になるのはどういうことだろう。きっと、それだけ自分が誠実な人間になったということだろう、と怜はやや強引に結論づけた。その他の可能性はあまり考慮したくない。
玄関をくぐるときに、置いてある靴の数を確認して、怜はほっと胸を撫で下ろした。すでに妹の友人たちは帰ったらしい。夕飯どきになる前に帰るくらいの分別はあるようである。妹の友人にしては常識がある。そう意地の悪いことを考えていた怜が、リビングに入って、母に帰宅を告げようとすると、
「あ、お帰り、お兄ちゃん」
と、横から妹の声。ただいま、と何の気なしに彼女に答えようとした声が止まる。怜は心中でため息をついた。言おうか言うまいか、一瞬躊躇したが、言うことに決めた。ことは彼女だけの問題ではないのである。
「お前の辞書にはさ、恥じらい、とかそういうのないのか?」
ソファに座りジュースを飲んでいる一つ違いの妹は、裸に大きめのバスタオルを巻きつけているという格好だった。風呂上りなのであろう。
「何が?」
分からない顔を作る妹に、説明するのも面倒だったが、彼女のはしたなさに言及すると、
「別にいいじゃん。兄妹なんだし」
妹は、平気な顔で言ったあと、何かに気がついたような様子を見せ、
「もしかして、お兄ちゃん……」
と信じられないような顔を作って、キッチンに向かって声を張り上げた。
「お母さーん、お兄ちゃんが妹を変な目で見てるぅ。ヘンターイ」
オレが変態ならお前は変質者だ、と怜は思ったが、もちろんそんなことは言わなかった。そもそも注意などしなければ良かったと、自分の迂闊さを後悔する。妹には何を言っても無駄であると分かっているはずなのに言ってしまうのは、どういう力学が働いているのだろうか。
「お帰り、怜。あなたもお風呂に入ってきたら」
晩御飯の下ごしらえをしていた母が姿を現した。怜は夕食の後で入ることを告げた。
「ねえ、お母さん。お兄ちゃんがね、わたしのこと変な風に見てるのよ」
「その格好じゃ見られても仕方がないでしょう。早く着替えなさい、都」
目の毒になっている妹から離れるためと、荷物を置きに行くために自分の部屋に戻ろうとすると、後ろから妹が追いかけてきた。
「お兄ちゃん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど。部屋に行っていい?」
怜は服を着ることを条件に出した。自分の部屋の中でだけは、精神の平穏を保ちたいものである。
部屋に入り、電気を点け、鞄を机の上に置いていると、すぐにTシャツと短パン姿の妹が現れた。ベッドの上に座ってあぐらをかく。
「聞きたいことって何だよ?」
椅子に座って訊いた怜には、あらかじめ断っておきたいことがある。
「環との話だったら、話すことはない」
「それじゃないよ」
妹の聞きたいことというのは兄とそのカノジョの仲ではなかったらしい。怜が促すと、
「あのさ、お兄ちゃんって瀬良先輩と仲いーんだよね」
都が訊いてきた。瀬良先輩というのが、五組の瀬良太一のことであれば、と確認を取った上で、怜は仕方なく肯定した。一年の時に同じクラスで話すようになり、今も交流があるのであるから、仲が良いと言われても否定できないものがある。
「瀬良先輩ってさ、どういう人なの?」
問いが全体的すぎてどうにも答えようがない。強いて答えるとすれば、悪いヤツじゃない、としか言えなかった。あとは、実際に付き合ってみればよいことである。と、そこまで考えて、怜に思いついたことがある。まさかとは思うが……
「おまえ、太一に気があるのか?」
「あったら?」
都が面白そうな顔で聞き返してきた。怜は小さく息を吸い込んで間を取ったあと、太一はやめておいた方がいいということを静かに告げた。
「どうして?」
と問い返されると、はっきりとは言えない。妹と太一がいかにも不釣合いであるという、直感でしかないからである。
「それをお兄ちゃんに言われるとはね〜」
皮肉っぽい口調で都が言う。兄が学校一の才媛と付き合っていることに触れて、
「お兄ちゃんと川名先輩は不釣合いじゃないわけ?」
いった。怜は、はっとした。妹と話すこともたまには役に立つらしい。確かに、人と人の釣り合い云々など考えるだけ馬鹿馬鹿しい。そんなものは当人同士で考えればよく、余人の関与するところではない。
「それで、太一を紹介してもらいたいのか?」
気を取り直した怜が訊くと妹は首を横に振った。
「わたしはどうでもいいの。瀬良先輩のこと何とも思ってないから」
では、全体、どうして太一の話をし始めたのか。怜が尋ねると、
「今日、家に来た友達のね、妹さんが瀬良先輩から告白されたんだって。妹さんは、まだ返事をしてない状態なの。友だちがさ、妹さんのこと心配してるんだ。ほら、瀬良先輩って、確かにかっこいいけど、付き合っている女がすぐ変わるでしょ。妹さんは、まだ誰とも付き合ったことないから、初めての付き合う男として、瀬良先輩が相応しいのかなって。それで、瀬良先輩と仲がいいお兄ちゃんに、先輩のことを詳しく聞いて、友だちに教えてあげようかなってね」
都は事情を説明した。そう言えば、数日前に、太一が誰かに告白したということを聞いた気がする。
「それでさあ、瀬良先輩ってさ、どうしてすぐにカノジョ替えるの?」
都の問いに、怜はふと盲点をつかれた気がした。そんなことは考えたこともなかった。一年生の時から太一はそんな風であったし、それが彼の特質で自然なことであると思いなしていた。改めて問われてみると、確かになぜそう頻繁に付き合う人間を替えるのだろうか。一般的に考えれば、相手に飽きたからであるという答えが得られるが、
「もしかしてさ、瀬良先輩って、誰か本命がいるの? その人に相手してもらえないからさ、適当な女の子と付き合ってるんじゃないの?」
妹の想像は、怜の思考の幅を大きくはみ出していた。そもそも太一のことをじっくり考えることがなかったので仕方ないところがあるが、都が思い描いているようなことは、怜には全く思いも寄らないことであった。
「……本命か」
「お兄ちゃんの目から見て、いる?」
ぱっと脳裏に閃いた少女の顔があるが、さすがに当て推量でそんなことを言うわけにもいかない。それでなくてもその方面には疎いのである。全くの誤解である可能性もある。
「さあ、分からないな」
怜が言葉を濁すと、
「じゃあさ、瀬良先輩って、お兄ちゃんから見てお勧めできる人?」
と都は続けて訊いてきた。一年生からの誼みである。もちろん、とうなずいてやりたかったが、それはためらわれた。自信を持っていいヤツだと勧められる人間など、怜にはいない。いや、一人だけいたが、彼は既に彼の幼馴染みのものなので、実質的にはいないことになる。しかも、やはり、二、三ヶ月で付き合う相手を替えるというのは、普通に考えればマイナス要素であろう。
「まあ、悪いヤツじゃない。付き合ってて嫌な気分になったことはない」
これが怜の精一杯の好意であった。
その好意を水増ししておいてやれば良かったと悔やんだのは、翌日の学校の始業前の時間のことだった。
教室でいつものようにプリント学習をしていると、太一が常とは違い、やけに真剣な顔で入ってきた。彼は、周囲をちらりと見て、まだ教室内にあまり人がいないことを確認すると、怜に向かって、
「レイ、お前、宮田に殴られたって本当か?」
心持ち小さな声で訊いてきた。驚いた怜が、どこでそれを知ったのかを訊くと、ついさっき五組で噂されているのを聞いたばかりだと言う。殴られるのを誰かが見ていたのだろうと、怜は思った。校庭の隅ではあったが、運動部は活動中だったし、また校門で鈴音の介抱を受けた時にそばを数人の生徒が通り過ぎていた。可能性は十分にある。
「本当なのか?」
太一が苛立ったように重ねて訊いてきた。興奮した口調の友人に対して、仕方なくうなずくと、太一の瞳にまごうことない怒りの色が現れていた。
「ちょっと待て」
思わず太一の制服の裾を取る怜。今すぐその場を離れようとしていた太一は、うっとうしそうに自分を止めた少年を見ると、何だよ、と強めの声を出した。
「どこに行く気だ?」
「宮田のとこに決まってるだろ」
「何でオレが殴られたか、まず理由を訊けよ」
「必要ない。どうせタマキがらみだ」
こういうことに関してだけは、太一の勘はいい。怜は感心するとともに、太一が意外に友人思いだということに心を動かされていた。こんなことなら、昨夜もう少し太一のアピールをしておいてやっても良かった、と思ったりする。
「気持ちだけでいい。オレにも悪いところがあったから」と怜。
「お前に悪いところがあった?」
「多分な」
「殴られるほどか?」
怜はその問いには答えなかった。三日前の一件は怜の中では終わりにしたいことだった。間違っても、これ以上発展させたくない話である。
「胸が悪くなるから、この話はしないでくれ、頼む」
怜が抑えた声でゆっくりと言うと、気持ちは伝わったようだ。太一は渋い顔をしながらもうなずいた。そのあと、
「じゃあ代わりに賢の所に行ってきてやるよ」
と語を継いだ。怜は苦笑するしかなかった。この噂が、太一が名を挙げた友人の元に伝われば、有り難いことに、彼はおそらく太一と同じ行動を取ろうとするだろう。太一はそれを止めに行ってくれるというのである。昨日、もう少し太一の人となりを魅力的に伝えておいてやれば良かった、とますます後悔の念が湧く怜。まあいい。次に機会があれば、そうしてやることにしよう。
さて、宮田少年との一件は、友人からは発展することはなかったが、その代わりに思わぬ所から発展の可能性をみせた。
校内放送で怜の名前が呼ばれたのは、その日の昼休みのことであった。