第3話:川名環と付き合うということ、教室にて
一瞬、怜は小学校にタイムスリップした感覚に襲われた。黒板に開く傘、その下に男女一対の名前。冷やかされる二人、冷やかすクラスメート。どこかしら楽しげな雰囲気。遠い過去の話。その穏やかな過去がまさか中学三年生の時に顔を出し、しかも自分が対象になるなどとは思ってもみなかった。さらには、傘に込められているのはいたずら心などではない。嫉妬である。そのことは理解していた。川名環と付き合うということはそういう悪意を向けられるということを意味していた。怜が付き合うようになるまで、ひそかに環に憧れていた男子が多かったことは想像に難くない。また今でも多いだろう。何しろ、あの容姿と人当たりの良さである。人気がない方がおかしい。環に興味がなかった数少ない男子の一人である怜でも、そのくらいは客観視できる。この傘はおそらく環に思いを寄せる男子の屈折した心理のなせるわざであろう、と怜は推測した。
怜はとりあえず黒板の傘を消すことにした。そろそろ新しい担任が来るであろう。見つかっても面倒である。消す時にもくすくすという笑いが起こった。これが新学年のクラスの第一日目の始まりか、と思うと怜は軽くうんざりした。
四十代前半の男性教師が現れ、簡単に六組の担任であることを自己紹介した後、校長の在り難いお言葉をいただくために、体育館に移動するように命じてきた。体育館で、中学最後の一年を中学生らしく楽しむことや、受験生としての心構えやなんやかや、即効性の睡眠薬のように強力に眠気を誘う退屈な話を一時間ほど聞いたあと、教室に戻る。戻ったとき、怜の眉が顰められた。消したはずの傘がまた出現している。怜は今度は何もせずに席についた。二度目である。消す方が面倒になった。描いた者が消せば良いのだ。教壇に立った担任が、特に気にも留めなかったせいで、傘はずっと残ることになった。
誰が描いたのかはすぐに分かった。新しいクラスになったということで、一人ずつ自己紹介をする段になったとき、一人の男子生徒が名前を告げたあとに、
「趣味は落書きで〜す」
と、ちゃらけた声で言ったからである。それに続いて、彼の仲間であろう生徒の笑い声が起こる。怜は彼を一顧だにしなかった。およそ覚えておくべき価値のない顔である。
クラス内で、クラスの委員長や、またそれぞれが所属する委員会などを決めると、昼になった。今日は給食は出ない。怜は机の上に弁当を広げ、食べ始めた。これを食べたあと、新しく決まった委員会に出向し一時間を過ごせば、今日は終わりである。
「レイ」
怜が顔を上げると、少年と少女が一人ずつ、お弁当の包みであろうものを持って、教室の戸から入って怜の机に近づいてきた。知っている顔である。何をしに来たのであろう。
「何しにって、お前と弁当を食べにきたんだよ。一人じゃ寂しいだろうと思ってさ」
少年が人懐っこい笑みを浮かべながら言った。
「そんなことで来たのか、賢」
「そんなことってないだろ。お前がこのクラスに誰も知ってる奴がいないんじゃないかと思って、わざわざ来てやったのにさ」
怜は少女の方に目を向けた。
「倉木は?」
「わたしは賢の監視。賢が加藤くんと過ちを犯すのを止める役」
鎖骨にかかるくらいのセミロングの髪を少し内側にカールさせた彼女は不機嫌そうに答えた。
「過ちって何のことだよ、日向?」と賢。
「ケンって、加藤くんのこと好きみたいだからさ。関係が発展しないようにね」
「何言ってんだよ」
「事実でしょ。今朝から、加藤くん、加藤くんってさ」
「言ってたか?」
「言ってました。『レイと同じクラスになりたい』って」
「別にレイに限定した話じゃないよ」
「どうだか」
「まあ確かに。レイはいい奴だからな。オレが女だったら惚れてるね」
それを訊くと、少女はますます不機嫌になった。怜はその辺にしておいてもらいたかった。賢とは二年の時に同じクラスで、話すようになった。彼は底抜けにいい奴である。開けっぴろげで悪意というものがない。が、少し鈍感なところがあり――もちろん、鈍感さというのは一種の美徳であるが――自分の言動が隣の少女にどういう影響をもたらすかということをあまり考えていなかった。彼女の目が慍色を含んで、自分に向けられているのに怜は気がついていた。まるで、恋敵でも見ているかのような目である。
賢と日向の二人は、幼馴染みで、親同士が友だちだということもあり、ほとんど生まれたときから一緒だったらしい。付き合っているかどうかは知らないが、傍から見ていても日向は賢に気がある。賢の方は……。これはよく分からない。あるようなないような。怜としては別にそんなことに興味はないのだが、賢が自分に好意を向けてくれる分だけ、近くの少女から悪意が向けられるのである。これには少々辟易する。
怜は、教室の床よりも一段高くなっている教壇の床に座っている日向を自分の席に座らせ、自分は賢とともに教壇のリノリウムの床に座った。
「あ、ありがとう」
日向が意外な面持ちで礼を言う。
「な、いい奴だろ」
賢が我がことのように言った。
「ケン。もうやめてくれないと、今度はタマキの代わりにお前の名前があそこに書かれるぞ」
怜の指さす黒板の傘を見た賢は、怜と同じ感想を漏らした。
「小学生のクラスですか、ここは?」
律儀に消そうとしてくれる賢を怜は止めた。嫌がらせにまともに反応すると、その嫌がらせがさらにエスカレートする。嫌がらせには反応しないことだ。そのうち面白くなくなって止めるだろう。……などということを考えていた訳ではない。単にこの程度のことはどうでもいいと思っているだけである。歯牙にかける値打ちもない。
日向が口を出した。
「ま、タマキと付き合うっていうことは、そういうことよ。いちいち気にしても仕方ないよ」
賢は納得の行かないような顔だった。おそらく今すぐにでも犯人を見つけ出して止めさせたいのだろう、と怜は推測した。友人が不当な扱いを受けることに黙っていられない、という今どき珍しい一本気な気質なのである。
「あ、ウワサをすれば……タマキ」
日向の呼ぶ声に導かれて、少女が姿を現した。一階にあるこの教室は屋外と廊下に面しており、怜の席は廊下に近かったのだ。廊下側の窓から、環が通り過ぎるのが日向の目に止まったのである。少しクセのあるふわりとしたショートボブの少女が入ってくると、何人かの男子の目が彼女に向いた。川名だ、という低い囁きが聞こえるような気がした。
「ここ六組よ、ヒナちゃん。あれ、ケンくんも……どうしたの、二人は四組じゃなかった?」
環が訳知り顔で訊く。おおよそ事情は分かったようである。
「聞いてよ、タマキ。ケンがさ、あんたたち二人の間に割って入ろうとしてんのよ」
日向が意地悪い口調で言うと、環は笑った。
「レイくんは、男の子にモテるみたい。今朝も太一くんといい感じだったらしいし」
七海や綾から聞いたのだろう。
「じゃあ、タマキもライバルが多いってわけだ。苦労するね」
「『も』ってお前もライバルが多くて苦労してるような口ぶりだな」
あっけらかんとした様子で賢が言うと、日向はまともに彼を見て、
「ええ、もちろん、苦労してるわ」
と無理矢理に言葉を押し出すような口調で言った。
「へえ、お前、好きな奴いるのか?」
どうやら賢の方は、彼女の好意が自分だけに向けられていることに気がついていないらしい。
日向は額に手を当てて、大きくため息をついた。環がその肩を軽くとんとんと叩きなぐさめる。
「なあ、誰だよ、お前の好きな奴って」
好奇心を持った賢だったが、日向は取り合わなかった。
「ここでさ、『バカ!』とか言って、お弁当箱をこのバカの頭に打ち付けてやったりすれば目も覚めるのかもしれないけど……」
幼馴染みにそういう激情を持つのも難しい、というようなことを環に言って少女は頭を振った。そのあと、分からない顔をしている賢を放っておいて、彼女は本題に入った。黒板の相合傘に環の注意を引く。
環は、あら、と言ったきり、しばしその絵を検分していると、
「これじゃ寂しいね」
と言って、おもむろに赤のチョークを手に取ると、傘を赤く塗り、さらに傘自体を大きなハートマークで囲んでしまった。怜の席の近くがざわついた。いくつかの視線が黒板を小さく震わせた少女に集まっていた。相合傘に、頬を染めたりむきになって否定したりするところを期待していた彼らの当ては見事に外れた。彼女の大胆な振る舞いに衆目が集まる中、環は声を大きくして、
「レイくん、今日一緒に帰ろ。いつもの所で待ち合わせね」
と明るい顔で怜に向かった。その声は、まるで周りに聞かせるような調子を帯びていた。環は、怜に向かって微笑むと、くるりと踵を返し教室を出た。
怜と付き合っていることを完全に肯定する環の行動に教室内がどよめく中、
「か、川名ってときどき凄いことをさらっとするよな」
と賢が驚いたように言うと、
「カッコいいよね、さすが、タマキ」
と日向が惚れ惚れとした声を出した。
一方、怜はというと、床から立ち上がって、黒板前の席のクラスメートに許可を得てから、黒板の傘を静かに黒板消しで消し始めた。ハートマーク付きの赤の傘はちょっと、素知らぬ顔ができないほど目立っていた。
教室内は面白い見世物の余韻で、しばらくの間、ざわめいていた。