第29話:『五郎庵』で軽食を
まだ明るい日差しの中を、自転車を引いて歩く少女。彼女から少し離れる格好であとに続く少年。自転車の車輪が回転を止める。七海は立ち止まると、振り返り、後ろに声をかけた。
「ねえ、何で離れて歩くの?」
問われた怜は、返って困惑した。いかにも不思議そうな顔を作っている少女であるが、彼女にも分かっているはずである。
「小さい町だからだろ」
言わずもがなのことを怜は答えた。七海と一緒に歩いているところに誰か見知った人間と出くわしたら面倒なことになる。特にある少女には万が一にも見られたくない。
「あのさ、自分の隣に並んで歩いてくれないってことが女の子にとってどのくらいショックか分かる?」
分かるかというのは疑問ではなく、分かれという命令である。怜はしぶしぶ、七海が歩くその横に並んだ。努力はした。あとは運を天に任せるのみである。天上にいます幸運の女神は怜を憫笑してくれたようだ。『五郎庵』と幟が立っている小ぢんまりとした和菓子店につくまで、知り合いには会わなかった。店の脇に自転車を止めてからのれんをくぐる七海。その後に続く怜。店内には数人の客がいたが、みな買い物客で、店内で食べられるようになっているテーブルについている客はいなかった。二人は、ゆるやかな光の入る窓際のテーブルに着いた。顔なじみらしきうら若い店員の女性が、注文を取りに来て、七海に声をかけたあと、ちらりと怜を見て、
「ナナちゃん、カレシ?」
と興味津々な顔で少女に訊いた。七海がいたずらっぽい笑みを浮かべて、ハイ、と適当なことを答える。
「ごゆっくりね」
中学生カップルに人の好い笑みを浮かべながら店員の女性が去ると、しばらくして、注文した抹茶と串にさした三色団子が二人分運ばれてきた。普段抹茶など飲まない怜はその渋さに顔をしかめた。三色団子はほのかに甘かったが中に餡が入っているわけでもなく抹茶の渋さに対抗できる力はなかった。
「おいしいでしょ?」
テーブルの向かい側から満面に喜色を表して朗らかに訊いてくる七海に、怜は礼儀正しくうなずいておいた。
「図書館はよく行くの?」
七海の問いに、怜は、家から追い出された経緯を話した。七海は笑って、
「大変だね、お兄ちゃんは」
親身な振りで言った。
今まで七海とじっくり相対したことはなかったが、なるほど彼女には人気があるはずである。ちょっと目が合うといつも屈託なく笑いかけてくるのである。その微笑が、あなたとコミュニケーションを取りたい、と言っているようで、ついつまらないことでも何でもいいから話しかけたくなってしまう。七海の場合は、外見がどうこうというよりも、この言外のコミュニケーション能力が人気の秘訣なのだろうと怜は思った。もちろん、この怜の意見に反対する三年生男子はいくらでもいる。
ふと少しだけできた間に、
「宮田って分かる?」
怜の口から滑り出た言葉に、七海は物問いたげな顔で、
「サッカー部の?」
と返してきた。サッカー部かどうかは分からない。去年同じクラスだったことを付け足すと、
「じゃあ、やっぱり、あの宮田くんだね。宮田くんがどうしたの?」
と逆に訊かれて軽くとまどってしまった。つい口にしてしまっただけで、何か意図があったわけではない。意図しない発言というのは怜にしては珍しいことだった。それだけ七海に話しかけやすい雰囲気があるのだろうか。
――あるいは……
と怜は考えた。すっかり決着がついたと思っていた宮田少年への気持ちにまだ鬱屈したものが残っているのだろうか。
七海は会話に間を作らなかった。怜が答えないので、
「やっと気がついたんだ、加藤くん。宮田くんがタマキのこと好きだったって。ていうか、今でも好きなこと」
と自分から話し出した。七海の口ぶりからすると、それは周知の事実であったのだろうか。
「周知とまでは……もっぱらの噂よ。加藤くんはそういうのに関心なさすぎ」
「いつから?」
「宮田くんがタマキのこと好きだったかってこと?」
怜がうなずくと、一年生のときからかな、と七海は首を傾げながら答えた。
「一年生のときも同じクラスだったから。タマキを見たらさあ、好きになる人は一目で好きになるんじゃない?」
そこで彼女はにんまりと笑みを作ると、
「加藤くんでもやきもち焼いたりすんのね」
と意地の悪い口調で言った。怜は七海の推量の埒外にいた。怜が考えていたのは自分の気持ちではなかった。宮田くんのことである。七海の話通りだとすると、彼は二年間、環に片想いをしていたことになる。もしかしたら、環が怜に告白せずフリーだったら、今頃彼は環に告白していただろうか。仮に環が彼の告白を断ったとしても、少なくとも彼はトライはできたわけだ。そのチャンスがなくなったことに対する苛立ちが爆発したのが、二日前の暴行であったのだろうか。
「ある意味さ、宮田くんと加藤くんって似てるよね」
怜の想念を破ったのは七海の思いがけない一言だった。
「どこが?」
自分でも驚くほど冷えた声が出て、怜は、二日前の件が全然自分の中で片付いてなどいないことを理解した。忘却の彼方に消え去ったのではなく、単に見ようとしていなかっただけなのだ。見ようとしていないというよりは、見たくなかったと言える。わざわざ彼のことを考えるのは自身を貶めるような行為だと思っていたのだろう。
怜の常ならぬ気勢に、七海は眉を顰めたが、それだけだった。怜の問いに、
「どちらも隠しているものがないところ」
簡単に答えると、更なる追求を待たずに、続けて、
「どっちも自身をさらけ出してる。違うのは、一方はそれを誇りに思って見せつけてるのに対して、もう一方はどうでもいいと思ってるから見られてることにも気がついてないことだね」
言った。後者が自分だろうと怜は推測した。何しろ怜には誇りに思っているものなどないからだ。それにしても、自身をさらけ出してると言われるとは意外なことだった。確かに怜には人前で何かを隠している気はないが、といってさらけ出すようなものが特別あるとも思われない。
「だから気がついてないって言ったのよ」
一体何を見せているというのだろうか。
「それはわたしには分からない。でもタマキには分かった。だから、あなたと付き合ってる」
「その見せてるものに価値を認めたってことか?」
分からない話である。誇りに思っているものと、どうでもいいと思っているものだったら、普通は前者の方に価値があるのではなかろうか。
「誇りを持つのはいいけどね、誇っているものがつまらないものだったら滑稽なだけ。子どもがさ、拾ってきた石を得意げに見せてるようなものよ。環は、その子を傷つけないために感心する振りはするかもしれないけど、心から価値があるとは思わない。宮田くんはそういう子どもと何ら変わらないな」
そう七海は一刀の下に切り捨てた。別に彼に同情はしないが、
「なかなか厳しい人物評だな」
怜が言うと、
「わたし一人が厳しいことを言ったって、宮田くんにとってはどうでもいいんじゃないかな。女子には凄く人気あるんだから」
と七海は気楽な声を出した。
「だから安心していいよ。タマキの心の中に彼はいない」
七海が事実を告げるかのような口調で言った。そう言われて、怜にはその類の不安が全くなかったことに気がついた。環が他の男の子に興味を持つということがどうもピンと来ない。それは怜が自分に絶対の自信を持っているというのではなく、そもそも環と付き合っているという事実自体をいまだ飲み込めていないからだった。もし、環が他の子を好きになったとしたら、と想像してみて怜は苦笑せざるをえなかった。その想像上の彼に嫉妬するどころか、彼女が選んだ相手ならきっといいヤツだろう、などと考えてしまったのである。
「どしたの?」
うっすらと笑みを浮かべている怜に、訝しげに七海が訊いていた。
「いや、環と付き合えてるオレはいいヤツだってことだよ」
「いいヤツ……ね。いいヤツかもしれないけど、それだけじゃ環とは付き合えない。あの子も相当変わってるからね。単なるいいヤツじゃあの子にはついてけない」
環が変わっていると感じたことは怜にはなかった。
「だからでしょ。加藤くんも相当変わってるってことよ」
「じゃあ、タマキと友人でいられる人間も変わってるってことにならないか?」
怜がやり返そうとすると、
「そうなのよ。事実、アヤは変な子だしね」
七海は澄ました顔でかわした。
それから三十分ほど、互いの家族や友人、部活のことなどとりとめないことを話してから、二人は店を出た。
日は傾き、街路は暮色に染まっていた。
「ごちそうさまでした」
店外で、七海が怜に軽く、ショートカットの頭を下げた。
「目的は達成できたか?」
怜はいきなり言った。七海の目が訝しげに細められる。
「目的? 借りは返してもらったけど」
「そっちじゃない」
七海は不審な顔を作った。
「それ以外の目的なんかないけどな」
彼女の否定の言葉を聞いても、怜にはなお確信していることがあった。なぜ、彼女が怜を誘ったのかが、気になっていた。借りがどうこうという話は口実に過ぎまい。自分の貸しのためだけに、友人のカレシとお茶をするような子だとは思われない。とすれば、その目的は別な所にある。何か。早い話、彼女は自分という人間を見定めに来たのではないかと怜は推測した。七海が自分に興味を持ったとは考えられない怜は、おそらく友人が付き合っている人間がどういう者なのか心配したのだろう、と考えた。
「それは誤解。ていうか、買い被り。わたしはそこまで環とあなたの仲に興味はない」
「積極的な興味がなくても、友だちのことを気にかけるくらいの気持ちはある。そういう気持ちを持っているときに、たまたま機会を捉えた。そういうことだろ?」
「さっきの言葉訂正するわ。加藤くんって、嫌なヤツだな」
言葉とは裏腹に気分を害したようでもなく言うと、七海は携帯を取り出して、なにやら操作をし始めた。
「よし、送信完了っと」
機嫌の良い声を出して、メールを何者かに送信したことを誰にともなく告げる。
不穏な空気を感じた怜は、メール先を訊いてみた。プライベートなことだから、と断ってくれることを内心願っていた怜だったが、
「もちろん、タマキによ」
あっけらかんとした声で予想通りの答えが返ってきた。女の子に対する言葉遣いにはいくら気をつけても気をつけすぎるということはない。先の自分の発言に対する反撃だろうか。そう思った怜だったが、それは目の前の少女を見損なっていたと言える。
七海にはそんな気はないらしい。
「さすがに友だちのカレシにご馳走してもらって、それを友だちに隠せないよ」
堂々と言った。
正論である。では正論に怯える自分は何者だろうか。
「あ、タマキからだ」
すぐに返ってきたメールを、七海は怜に見せてくれた。
おそるおそる携帯の画面を見た怜だったが、
「『般若の面はナナちゃんに向けることにします』って、どういうことだよ?」
打たれた文字を見ても、意味が分からず、七海に訊いてみたが、彼女は笑いながら、さあ、とはぐらかして答えなかった。