第281話:値ダイヤモンドのプレゼント
鈴音の「修学旅行」に行ったあくる日曜日、怜は朝からリビングで勉強をしていた。朝と言っても、早朝である。午前5時30分。晩秋の外はまだ薄暗い。こんなに早くから勉強を始めたのは、もちろん、受験生としての本分を全うするため、ということもあるけれど、それよりも、受験生としての本分を忘れてませんよ、ということを親にアピールするためだった。
アピールも何も、親はまだ起きて来ないわけなのだけれど、もしかしたらトイレに起きてきて、その後、二度寝するかもしれない。その時に、我が息子が、早朝からリビングの電気代を浪費して勉強しているのを見たら、きっと感動を覚えてくれるだろう。そうでなくては困る。そういうことを考えていたのである。もちろん、早くから勉強すれば、それだけはかどるわけだから、これは一石二鳥の作戦だった。我ながら冴え渡っている。
入試本番もこのくらい冴えればいいと以前にも考えたようなことを思いながら、勉強を続けること90分、いったん小休止を取ることにする。空腹も覚えた。いつもは、この時間にはまだお腹が空かないのだが、朝早く起きて長時間勉強していれば、腹も減る道理だった。トーストを焼いてバターを塗り、紅茶を淹れる。まだ、家族は誰一人起きて来ない。一人で摂る朝食は実にすがすがしく、今日一日がいい日になることを予感させた。まあ、ほとんど、勉強で終わるとしても。
食べてから、さらに30分ほど勉強していると、
「早いな、怜」
と父が起きてきた。怜は父に挨拶した。父とまともな話をすることは、この頃、ほとんど無い。怜はたまに不思議に思う。父は妹と話すこともほとんど無く、母ともそんなに大した会話をしているようにも思われない。怜自身は別段、人とのコミュニケーションを求めないけれども、普通は、ある程度、自分以外の他人との関りを求めるものである。それを父が家族としないということは、よほど、仕事上で関りがあるのか、あるいは、剣呑な想像ではあるけれど、家庭外で、かつ仕事以外の領域で、関りがあるのか。
父に限ってそんなことは……と思えるほど、怜は父のことを知らないのだった。しかし、父も、おそらく自分のことを知らないだろう。互いに知らない父子とは一体何なのだろうか……そういう問題など出題されないのが、高校入試である。怜は、勉強へと戻った。
父は二度寝だか三度寝だかしたようであるが、それからしばらくして、母は起きてきた。母はそのまま活動するようである。怜の想像とは違って、我が子が早朝から勉強に勤しんでいるのを見ても、特に感嘆したようでもない。しかし、よくよく考えるまでもなく、それはそうかもしれなかった。昨日たっぷり遊んできたわけだから。母からしてみれば、寝ずにやってもいいくらいの気持ちでいるのかもしれない。
「オレ、朝ごはん食べたから」
「分かったわ」
母は何やら朝食だか昼食だかの準備を始めた。
午前中もずっと勉強をしていたわけだが、改めて、怜は、この学校の勉強というものの虚しさを感じた。これをやることが何をすることなのかがさっぱり分からないのである。その意義が分からなくても、ただただむやみと楽しいということだったらいい。子どもが砂遊びをするのは、そうすることで運動能力を発達させたり、免疫を向上させたりするためという目的があるわけではなく、ただただ楽しいからやっているのである。また、楽しくなくてもその意義が分かるものであればいい。風呂掃除は楽しくないが、やれば風呂は綺麗になる。だから、やる意味がある。
しかるに、中学の勉強というのは一体何の役に立つのか。いや、もちろん役には立つ。高校に入るための。しかし、綺麗な風呂に入ったことは何度もあるが、高校に入ったことなど一度も無いわけだから、果たして高校に入ることが喜ばしいことなのかどうか分からず、どうしても勉強の意義が分からないのだった。
あらゆることが分かるはずだ、と考えることが傲慢であるということくらいは分かっている怜は、昼まで黙々と、勉強を続けた。母は何も反応はしなかったが、妹は、兄が勉強している姿を見て、とても見ていられない、こんな未来は嫌だとばかりに、目を背けた。もしかしたら、妹は兄よりも過酷な運命をたどるのではないかと怜は思ったが、彼女に対しては何をしてやることもできないし、そもそもする気も無かった。
昼食を取ってさらに勉強を続ける。勉強し続けて死んだ人はいないというもっぱらの噂だが。それは本当だろうか。あることを否定するのに反証は一つで足りる。怜が、自分こそがその噂をかき消す最初の一例になるのではないかと恐れたところで、時計の針が3時30分を回った。
一区切りついたことにして、怜は、屈託した体をリラックスさせるという、いつもの名目で、母に断ったうえで家を出た。自転車で飛ばして公園に行くと、日は傾き始めてはいるけれど、空はまだ明るかった。屈託した体を云々というのは多分に口実ではあったけれど、一日中座りっぱなしだった体に、自転車乗りはちょうどいいエクササイズには違いなかった。
公園に着くと、ブランコのある広場の方に、すでに待ち合わせの相手の姿が見えた。遠目に見ても、二人の姿はすぐにわかった。環と、彼女の幼い妹である旭である。環はベンチに腰かけており、旭はブランコに立ち乗りしてワンピースの裾を翻していた。
怜の姿を最初に発見したのは、環のほうだった。彼女が少しだけ身を乗り出すようにして、こちらに小さく手を振る。すると、それに気づいた旭が、ブランコからジャンプして降りると、まるで弾かれたようにこちらに駆け寄ってきた。
「レイ!」
小さな体で、思い切り抱き着いてくる。その衝撃に、怜は一瞬バランスを崩しそうになった。旭の体からは、石鹸と、子ども特有の甘い匂いがした。
「こんにちは、アサちゃん」
怜は、少女の小柄を軽くだけ抱きしめ返すようにした。頭の中にこびりついていた、母親へのアピールだとか、勉強のノルマだとか、そういった煩わしいものが、旭の温かい体温に触れることで、一瞬にして溶けていくような気がする。
――ああ、報われた……。
怜は、心の中で静かにそう呟いた。今日一日、自分が苦手な勉強を頑張り、親の目を気にして真面目な顔をして過ごしてきたのは、きっとこの時のためだったのだ。その顔を見とがめられたような気がして、そちらに視線を向けると、当然に環である。ベンチから立ち上がっていつの間にかこちらに来ていた彼女は、そのバッチリとしたアーモンドアイズに微笑を灯していた。
もっとも彼女はいつも微笑んでいるような顔をしているので、他意は無いのかもしれないけれど、怜は何かしらの底意があるような気がした。しかし、何も言ってこないので、後でお小言を頂戴することにした怜は、先に用事を済ませることにした。この件で朝の勉強の合間を縫って環に連絡しておいたのだった。ボディバッグの中に手を入れて、硬いプラスチックの手触りを得ると、それを取り出して、旭に見せる。
「これ、もらってくれる、アサちゃん?」
昨日、ショッピングモールのアミューズメントコーナーで、気まぐれにやってみたガチャガチャを、見知らぬガチャマスターの少年とトレードしたものである。
旭は、その小さな手の平に載せられたカプセルを見て、目を丸くした。
「わたしへのプレゼント!?」
「そうだよ」
「ありがとう、レイ!」
旭は、まるで10カラットのダイヤモンドでも貰ったかのような喜びようを見せた。こんなに喜んでもらえるのなら、昨日きちんと彼女用に選べばよかったと思わないでもないけれど、今喜んでくれているのだから、これはこれでいいのかもしれない。
「かなりのレアもの……らしいよ」
怜は、カプセルコレクターの少年の受け売りをした。
「開けていい? レイ」
「もちろん。自分で開けられる?」
「うん!」
旭は、少しの間、その小さな手に力を込めて、プラスチックのカプセルと格闘したのち見事勝利を収めた。中から現れたのは、おそらくは何かしらの植物がモチーフにされた鮮やかな緑色をしたゆるキャラのキーホルダーである。
旭は、名前通り、その顔を朝日のように輝かせた。
「わー! すごい! かわいいー!」
キラキラとした瞳で、怜を見ると、
「これ、わたしの一生のたからものにするね! レイ、ありがとう!」
とまっすぐに言った。そのあと、
「タマキお姉ちゃん、これ、レイからもらった!」
と姉に見せびらかす。
環は、「よかったわね」と微笑んで、我がカレシを見てきた。
「ありがとう、レイくん」
「こちらこそ。このために呼び出して悪いな。昨夜はどうだった?」
「楽しかったよ。三人で夜遅くまで話していたから、ちょっと寝不足気味なの」
はわはわとあくびをした環は、
「レイくんは疲れてない?」
と尋ねてきた。
「昨日は疲れてない。今日は疲れてたけど、アサちゃんとタマキに会えて、元気になったよ」
「わたしのことまで言ってくれるなんて光栄です」
そう愛想よく答えてくれる様子がなにやら怖い気もするが、怜はすぐに、旭に自分のブランコさばきを見ているように頼まれた。
「立ちこぎするから!」
旭は勢いよくブランコを揺らして、まるで、そこからムーンサルトでも決めようとするかのように、高くまで漕いで行くので、怜はハラハラした。これは心臓によくない。よっぽど座って漕いだ方がいいし、何だったら、背を押してあげたいくらいのものだったが、それが子どもにとって有難迷惑であることくらいは、さすがに分かっていた。子どもの安全を考えて切れないハサミを持たせれば逆に危ないことになる。
とはいえ、だからと言って、心配の念が消えるわけではなく、世のお母さんお父さんがたは、どうやってこのストレスに耐えているのだろうかと尊敬の念を持ったが、
「単に見ていないだけかもしれません」
と環はあっさりと言った。
「見ない方がいいかもしれないな」
「アサヒは大丈夫」
と言った途端に、少女は、ある程度揺れがおさまったときを見計らって、ジャンプして地面に降りた。
「見てた、レイ?」
怜はうなずいた。そうして、よっぽど、ブランコから降りる時はもっと平和的に降りた方がいいのではないか、とアドバイスしたくなったけれど、なんとかまた、その気持ちを抑え込んだのだった。