第280話:人が恋をする理由
体育祭が近づきつつあった。
宏人の学校では、春先にクラスの親睦を図るための球技大会があるけれど、秋にもそれとは別に体育祭が準備されていた。
球技大会では球技を行うけれど、体育祭の場合は一部球技も行うが、陸上競技がメインになる。
と言っても、ガチ目なものはリレーくらいであって、その他には、玉入れやムカデ競争など、エンタメ性が高いものがほとんどだった。
来る体育祭の話し合いを行う「総合」の時間、この時、宏人は、いよいよ、クラスの風向きが完全に変わったことを悟った。
というのも、体育祭に関する細々としたことの何一つも、かつてのメジャーグループの意見が通らなかったのだ。誰がどの競技に出るべきなのか、応援パフォーマンスの振り付け、など、その一つひとつに、かつてのクラスヒエラルキートップ組の意見は一切採用されなかったのだ。
それには、やはり瑛子の離脱が大きかったと言える。
瑛子はメジャーグループのトップを担当していたわけではなかったが、その精神的支柱だった。ただ派手な人間の集まりというだけではなくて、こんな優等生も入っているのだということが、彼らのグループに正当性を与えていたのだった。
それが、今は無くなってしまった。
さらには、一哉が宏人のグループに入ってきたことも大きかっただろう。どこにも属さない男が、そうして本来ならばメジャーグループに属してもいい男が、宏人のグループに属したわけである。
そうして、志保の変貌ぶりもある。これまでただの陰キャだと思っていた女子が、いきなり華麗な変身を遂げ、しかも、それは外面だけのものではなくて、外面にふさわしい内面も備えているようだったのだ。
宏人は、彼らに同情する者では全く無かったけれど、クラスのあれこれなど、彼らに決めてもらったところで、何とも無いと思ってはいたのだった。体育祭の件もその一つである。なので、何度か意見を問われた時に、大したことを言えず、閉口した。
このまま二年生を過ごしていくことに、メジャーグループは危機感を覚えたのだろう。宏人は元グループの子たちに、二、三度、すり寄られた。戻らないかと誘われたのである。
もちろん、「クラスグループ」というのは、別に形式的な組織ではないので、再登録を求められたわけではない。ただ、「また前みたいに遊びに行こうぜ」的なことを言われたのだった。そのたび、宏人は、婉曲に断っていた。はっきり言って、前のグループに戻りたいとはみじんも思っていなかった。なにせ、給食当番だった志保から、給食をよそってもらいたくないなどということを行ったヤツバラなのである。そんな醜い集団に属する気は二度と無かった。
「二瓶は戻るように言われてないのか?」
「言われているよ」
「それで?」
「まあ、あいまいに濁しているよ」
「大丈夫か?」
「何が?」
「いや、何か嫌がらせ的なことをされてないか?」
瑛子はじっと黙り込んだ。
休日のカフェである。
宏人が彼女を誘った格好だった。
瑛子は考えるそぶりを見せると、
「そう言えば、この前、上履きに画びょうが……」
と言った。
「えっ、マジか!?」
「入っていた……なんてことはないかな」
「なんだよ!」
「驚いた?」
「当たり前だろ」
「心配してくれてありがとう、倉木くん。でも、大丈夫。あの人たち、そんなことはしないと思う。というか、できないと言うべきかな」
「できない?」
「そうだよ。いやがらせできるのは、強者だけ。いま、彼らはマイノリティなわけだから、いやがらせはされても、することはできない」
宏人は、ふうっと息をついた。
「こういうの苦手なんだね、倉木くんは」
「二瓶は得意なの?」
「得意ってわけじゃないけど……でも、しょうがないんじゃないかな、とは思うよ。みんな仲良くなんて、そんなの幻想でしょ」
「まあ、それはそうだけどさ」
「気が合う人同士で集まって、合わない人は無視したり、いじめたりする。人間ってそんなもんでしょ」
宏人は、そう言う瑛子の目の中に、暗い炎が立ったような気がした。
しかし、それをすぐに消すようにして微笑んだ彼女に宏人は訊いてみた。
「クラスが変わっても、それは変わらない?」
「多分ね」
「なんか、絶望的な気分になってきたよ。少なくとも、あと4年間はこうしてクラスに入らないといけないわけだからさ。まあ、高校に行けたらだけど」
「来年も同じクラスになれるといいね」
瑛子は屈託のない笑みを浮かべた。
宏人はうなずいた。
クラスがグループ同士のせめぎあいの場なのだとしたら、知った人が多ければ多いほどいい。
唐突に宏人は、人が恋をする理由が分かった気がした。
こうして、学校なり職場なりで息苦しい思いをしていると、そこに清涼剤がどうしても欲しくなる。
それが恋なのではないだろうか。
恋をしていると、そういう一切合切がどうでもよくなって、対象のことしか考えられなくなる。
息苦しい社会から逃避するために、人は恋をする。
「どうかした、倉木くん?」
瑛子がいぶかしそうな顔をしている。
宏人は瑛子の髪に目を留めた。
「ん……あ、いや、オレ、その髪留め、『可愛い』って言ったっけ、と思って」
「え……えっと、聞いてないと思う」
「じゃあ、可愛いよ。二瓶によく似合っている」
「あ、ありがとう」
瑛子は頬を染めるようにした。
なんかこれはすごくデートっぽいなあ、と宏人はふと思った。そうして、休日に二人で出かけているのだから、デートだと言ってもいいのではないかと思ってもみた。でも、なんだろうか、仮にデートだとして、いや普通に楽しいのだけれど、なぜだか心に浮き立つものがない。ドキドキしないのである。
もしも、1年前の自分だったら、学年でも五本の指に入る美少女と二人きりでいたとしたら、動悸がひどくてどうしようもできないだろう。まともにしゃべることさえできなかったかもしれない。1年前から何かが変わってしまったのだろうか。もちろん、変わってしまったに違いなかった。しかし、変わった自分は別に嫌いではなかった。むしろ、こちらの方が気に入っている。
瑛子とはその後カラオケをしてから別れた。
家に帰った後、宏人はビデオ通話にして、志保にかけた。
「なんで、わざわざ、ビデオ通話にするのよ」
「いや、お前の顔見てなかったなと思って、今日」
「見忘れてくれて結構なんだけど」
「人が恋をする理由が分かったって言ったら、お前どうする?」
「どうもしない。どうせ、バカみたいなこと言うにきまってるから」
「オレにしては、結構まっとうなことだと思うんだけどな」
「自分でもバカってことに自覚あるんだ」
「この世の中の大半はバカだろ。その一員であったとしても、別に大したことないじゃん」
「それで?」
宏人は自らの理論を話した。
「なにそれ、救われない話だね」
「そうか? 恋をするのが子孫を残すため、とかいうよりはよくないか?」
「その理論で言うと、社会的なルーティンにうんざりしていない人は恋をしないってことになるよね」
「そうなるな。楽しく学校に行ったり仕事をしたりしている人は逃避する必要が無いから恋をしない」
「売れっ子芸能人の結婚とかはどう説明するの?」
「結婚は恋とは関係ない」
「倉木くんにしてはドライだね」
「どーだい? この理論を学会に発表して、ノーベル賞をもらおうかな」
「一つ確認しておくけど、この話、わたし以外にもしたの?」
「してない」
「なら、他の誰にもしないことをお勧めするわ」
「どうして?」
「人には口に出して言わなくてもいいこと、言ってはいけないことっていうのがあるのよ」
「じゃあ、学会への発表も諦めた方がいいと」
「そうね。残念だけど」
「二人だけの秘密ってわけだな」
「しゃべったら、針千本飲ますからね」
「まだ約束はしていない」
「じゃあ、今して」
「了解。ところで、お前、クラスのヤツラに嫌がらせされてないか」
「なによ、いきなり」
「上履きに画びょう入れられるとか」
「それ、嫌がらせっていうより、普通に傷害事件なんだけど。もしも、そんなことされたら、警察に相談するよ」
「並行して、オレにも言えよ」
「気が向いたらね」
「約束してくれ」
「了解」
そこで、志保がムッとした顔をした。「なによ?」
「えっ、なにが?」
「『了解』って答えたら、変な顔したから、倉木くん」
「いや、やけにあっさりしているなあ、と思ってさ。お前って、人に約束させても、自分はしないキャラじゃん」
「どんなキャラ!? ただのクズでしょ、そんなの! あっさりしてちゃ、ダメなの?」
「ダメじゃないけどさ、もうちょっとこう、オレの説得ターンを充実させてくれてもいいんじゃないか?」
「説得ターン?」
「オレがお前を説得する機会のこと」
「知らないわよ、そんなの。なんで、倉木くんの自己満足にわたしが付き合わないといけないわけ?」
「友だちだろ、オレたち」
志保は露骨に嫌な顔をした。
「友だちだったら、なに? 友だちだから何かをしないといけないんだとしたら、友情関係っていうのは、契約関係の一種だってことになるけど、それでオーケー?」
「うーん……それは、面白くないな」
「でしょ。だったら、二度と『友だち』って言わないで。ていうか、わたし、その言葉の存在は認めるけど、その言葉を軽々しく使う人が心底嫌いなの、わたしに嫌われたい?」
「嫌われたくはない」
「じゃあ、その言葉を簡単に使わないで」
「よかったよ」
「なにがいいのよ、こっちは気分悪いって言っているのに」
「いや、お前がオレのことを嫌ってないっていうのが分かってさ」
「そんなこと言ったっけ?」
「嫌われたいか聞いてきたってことは、今はまだ愛しているってことだろ?」
「愛もいずれ冷めるもの」
「いずれな。100年くらい経ったら」
「10分経ったから切るわよ」
「弟くんは?」
「もう寝てる」
「今度、オレ、弟くんのところに遊びに行くよ」
「シッターは間に合ってるわ」
「いや、弟くんにオレという存在をきちんと認めてもらいたいんだよ。ヒロトお兄ちゃんを!」
「なんで?」
「いずれオレたち、恋に落ちるだろ。その時、紹介の手間が省けるわけだ」
「恋に落ちる?」
「そう」
「そんなことにはならない」
「なんで言い切れる?」
「倉木くんの理論通りよ」