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プラトニクス  作者: coach
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第28話:休日は図書館へ行こう

 休日の家というのは必ずしも安息の場所ではない。むしろ、その逆であることが多い。この日もそうであった。まず、朝早くにたたき起こされる。町内会の掃除である。なぜだか、この町内ではやたらと地区の掃除がある。それが終わり、家で朝食を取り終わると、今度は風呂の掃除が待っている。ごしごしと浴室の汚れを落とし、水を張ると、やっと起きてきた妹が朝から風呂に入るという。洗い終わったばかりのものを使われて、詮無いことではあれ、ちょっとやりきれない思いでいると、次の指令が待っている。今度は自分の部屋の掃除である。それほど乱雑になっているわけではない。軽く抵抗すると、

「母さんが勝手にやってもいいのよ、怜」

 涼やかな顔で脅される。何もやましいことがあるわけでもないが、中学三年生にもなってプライベートを侵されてはたまらない。しぶしぶ自分の部屋で、不要なプリント類と小さな戦闘を繰り広げると、この時点で十時を回る。起床が六時であることを考えると、実に四時間働いているわけである。やれやれと一息つこうと、紅茶でも淹れようかと思い湯を沸かしていると、次なる指令。庭の草むしりをせよ、という平板な声。草をむしる前に、頭をかきむしりたくなったが、むしるだけ無駄であるので、素直にそれに従うことにする。

「あ、紅茶は淹れてってね」

 母と父の分のティーカップを琥珀色で満たしたあと、庭に回り、雑草を抜く。地の上に作られた名も知らぬ草の小山をビニール袋の中にまとめ終わり家に戻ると、もう自棄(やけ)である。自分から車を洗うことを申し出てみる。ところが、車は父が洗うらしい。雑用終了。水で喉をうるおしたのち、すっかり汗だくになった体にシャワーを浴びると、時計は十一時を告げるころになる。先ほど飲み損なった紅茶を淹れて、片付けられた自分の部屋に戻り、清々とした気持ちで机に向かう。まったく勉強とは素晴らしい。問題を解くという作業が、掃除という単純作業に比してこれほど面白いとは。母は偉大である。きっとこれを子に教えたくて、いろいろと働かせたのであろう。しかし、この素晴らしい時間も、一時間半で終わりを告げた。

「今日、友達来るから」

 昼食の席につくと、妹が高らかに宣言する。彼女が友達を呼んだということは、家に喧騒が満ちるということだ。それだけではない。家の中をちょっと移動するのにも、彼女の友人と出くわさないか用心しなければならず、気を張らなければいけないということでもある。どうやらこの年頃の少女たちは、兄というものに過大な期待を寄せる傾向があり、しきりに兄を見たがる。用心して避けているが、運悪く出会うと気分の悪いことになる。妹が紹介してくれるわけだが、そこであからさまにがっかりした顔を作られるのである。その礼の無さに、親の顔を見てやりたいと思わないでもないが、見たければ自分の親の顔を見ればよい。類は友を呼ぶとしたら、親同士の顔も同じようなものだろう。

「図書館に行ってくるよ」

 家で勉強することは潔く諦めて、勉強用具を手提げタイプのプラスチック製の鞄に入れると、外に出た。

 快晴の初夏である。

 そよそよと吹く風が頬に触れ、澄んだ空気も心地よい。視線を少し上に向けると、鮮やかな青。思わず吸い込まれそうな色。ふわりと体が浮くような感覚を覚えて、歩く足取りも軽やかである。

 心も軽やかになったのだろうか、ふと、この場にいない少女のもとに想いが飛んだ。もしここに彼女がいたらと思うと、それは楽しい想像だった。多分、何も言わず、隣を歩くだけであろうが、言わないことで言えることがある。この頃、当然のように思っていたところがあるが、そういうことを理解してくれる人がすぐ側にいるというのは、実は非常な幸運であるのではなかろうか。

 おさまったはずの頬の痛みがうずき出した。付き合っているカノジョを想う男子に殴られたのが二日前のことである。殴られた当日は胸がむかついたが、どうやら心性に粘着質なものがないようで、一晩寝ると気分も治まった。頬は少し張れたが、その張れも引き、二日にしてすっかり忘却の彼方に追いやったことが、今カノジョのことを考えたことをきっかけにして再び戻ってきた。

――何でお前なんだ?

 と言ったときの無念な声が耳に蘇る。そんなことはあっちに訊いてくれ、と言って済ませられないものがあることを、二日経て冷静になった今なら多少理解できる。そう言わざるを得ないほど彼女のことを想って来たのだろうか。その彼の気持ちを考えると何とも言いようのない感情を覚えるが、おそらくそう解釈するのは好意的に過ぎよう。しかし、好意的に解釈することによって分かることもあり許せることもあるのなら、そうした方が健全である。

 からりとした空の下では、ぐずぐずとした想いもすぐに消える。目に映る青葉が微風に鳴るのも聞こえるほど、行く道は優しい静寂に満ちていた。車道から一本中に入った街路である。ときどきどこからか子どものはしゃぐ声が流れてきて返って静けさを際立たせた。

 ゆるやかな時の流れに導かれるままに市民図書館につく。ここまでは二十分くらいの道のりで、自転車を使えば五分程度になるが、歩く方が好きである。青天の下、自転車で風を切るのも楽しいには違いないが、代わりに風景が楽しめない。また、ゆっくりと何かに思いを馳せることもできない。

 市民図書館には、勉強に利用できるスペースが少なからずある。怜は、日曜日に熱心に勉強する幾人かに混じって、席を一つ取った。それから数時間は非常に有意義な時間を過ごした。塾や学校の宿題が随分と片付いた。勉強を始めるようになって、もちろん休み休みではあるが、ようやく数時間まとめて勉強できるほどの体力がついてきた。教わっている塾の講師の言葉を借りると、『勉強体力』が身についてきたらしい。

 空いていた隣の席に人が座ったのに気がついたのは、四時半を過ぎた頃だった。そろそろ帰ろうと思っていたときのことである。視線を感じて横を向くと、少女が微笑を浮かべてこちらを見ていた。ジーンズのホットパンツから伸びた足を組んで、組んだ足の上で頬杖をついている。上半身は、ビビッド・オレンジのキャミソールという格好で、黒髪のベリーショートとあいまって、全体にスポーティな雰囲気がある。

「ども」

 平井七海(ナナミ)が小さな声を出した。図書館の静寂を崩さないように遠慮したのである。

 怜は挨拶を返して、席から立ち上がった。

「帰るの?」

 と七海。怜がうなずくと、彼女も立ち上がり、たすきにかけられるタイプのリュックを背負った。何か用があるのだろうか。七海が怜の後ろからついてくる。

「よく来るのか?」

 図書館を出たところで、怜は七海に訊いた。

「ときどきね。勉強しに。家だと集中できないから」

「何か用か?」

「用がないと声かけちゃいけないの?」

 そういうわけではないが、親交を温めあう仲でもない。図書館内で見かけたとしても、放っておけばよいくらいの仲である。

「こっち来て」

 そう言うと、七海はさっさと歩き出した。彼女には少々強引な所がある。いや、と怜は思い直した。強引さは、彼女だけではなく、女の子に共通する基本性質にすぎない。事実、怜は控えめな女の子というのをついぞ見たことがなかった。七海の意図が分からないながら、不承不承、怜が後をついていくと、着いたのは図書館付属の自転車置き場である。ぎゅうぎゅうに詰め込まれている自転車の中から、七海はスポーツタイプの自転車を引っ張り出すと、乗らずに引き出した。

「加藤くんって集中力あるね。よっぽど帰ろうかと思ったわ」

 その口ぶりからすると、自分の勉強が終わってから、怜が終わるのを待っていたのだろう。何となくそうしなければいけないような空気だったので、怜は、自転車を引く七海の横に並んだ。

「それで?」

 怜は用件を訊いた。まさか、こうやって一緒に歩くために待っていたわけでもあるまい。

「せっかく図書館で見かけたから、借りを返してもらおうかなってね」

 七海が思いがけないことを言ってきた。

「借り?」

 七海とはあまり接点がない。借りなどあっただろうか。

「覚えてないの?」

 軽く非難の目を向けられても、ちょっと思い出せなかった。七海は仕方なさそうな口ぶりで、

「よく聞いてよ」

 と前置きしてから、

「ある所に男の子がいました。彼にはカノジョがいました。二人はラブラブでしたが、ある時、男の子にある疑惑が起こります。彼が二股をかけているというのです。彼を信じているカノジョは笑って取り合いませんでしたが、治まらなかったのはカノジョの親友です。『そういう疑惑をかけられること自体がすでに許せない』と、拳を固く握り締めました。彼のところに行って真相を確かめようとしました。このままでは血の雨を見ることは必至でした。それを止めたのがその子の友人です。『お待ちなさい。きっと何かわけがあるのでしょう。わたしが確かめてきましょう。ことはそれからでも遅くはないでしょう』」

 そこまで物語を進めてから、怜の顔を確かめるように見た。怜はうなずいた。その喜劇の主人公が自分であることを思い出したのである。そして、主人公に起こるはずだった災厄を防いでくれた少女にお礼をする約束をしたことも。

「コンビニで売ってる抹茶ミルクだったか?」

 七海は立てた人差し指を揺らすと、

「貸したものには利子がつく。そうでしょ?」

 と言って、近くに和菓子屋がある、と遠まわしな言い方をした。

「今度はオレと平井が噂になる」

 そう言って怜は翻意させようとしたが、

「加藤くんはもう橋田さんと噂になってるんだから、この上もうひとつ増えても同じでしょ。わたしはそーいう色気のある話ってないから、ちょうどいいわ」

 七海は取り合わなかった。

「この前と言ってることが違うぞ」

「そうだっけ? 男の子なんだから細かいこと気にしないでよ」 

 『男の子なんだから』というのは男に対して魔法の力を持つフレーズである。これを言われた男子は、続く命令に従わなければならなくなる。逆はない。『女の子なんだから』と女子に言っても、『差別しないでよ』と逆襲されるのがおちである。

 魔法にかけられた怜は、大人しく魔法使いの少女の供を務めることにした。 

 初夏の日はまだ落ちず、日差しは明るかった。

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