第279話:鈴音の修学旅行5
カラオケ店を出ると、時刻は午後6時を回っていた。モールの外に出ると、11月上旬の冷たい風が頬を撫でた。日中の賑やかさとは打って変わり、空はすでに漆黒に染まり、街の明かりが瞬き始めている。
「あー、まだ歌いたかったなぁ!」
日向が名残惜しそうに言った。
「みんなより余計に歌ってたじゃないか」と賢。
「余計って言ったって、5曲も10曲も多く歌ったわけじゃないでしょ。せいぜい、1曲くらいだよ」
「それだって、多いことには変わりないだろ」
「そんなに歌いたかったの?」
「お前なあ……」
賢は今日の主賓のことを考えているのだろう、と怜は思った。しかし、おそらく、そういう気づかいは、鈴音には無用だろうと思った。もちろん、そういう気づかい自体はありがたく受け取るだろうが、対応としては、何にも気にしない日向の方が正しい。
「カラオケもたまにはいいかも」
巧が言った。
「久しぶりなのか?」
「半年くらい行ってないかな」
「そうか」
「レイは?」
「以前に行った時のことを思い出せない」
「自分から行こうとは思わないからなあ」
「オレも」
近くで、鈴音が綾に話しかけていた。
「アヤちゃん、すごいマイクさばきだったね」
「えっ、なに?」
「マイクくるくる回すヤツ。何回行けば、あんなことができるようになるの?」
「今日で三回目だけど」
「えっ!? 本当に? 歌もめちゃくちゃうまかったよ。ねえ、加藤くん?」
問われた怜は、うなずくと、
「毎週土日は必ず通っているみたいな雰囲気だったけど」
と答えた。
「加藤くんが歌ってたバンドなんて言うの?」
怜が名前を教えると、
「いいバンドだね」
「従妹に教わったんだ」
「どうりで」
綾はスマホでバンド名をメモしたようである。
怜は、環が目をパチパチさせているのを認めた。何も言うなという意図を込めて、怜はうなずいた。そのうち、機会を作って、彼女をカラオケボックスに招待しなければなるまい。あっ、そうだ、その時に、彼女の妹も招待するのはどうだろうか。これは一石二鳥ではなかろうか! 怜は用心深く我がカノジョから離れながら、策略を練った。
「そろそろバス停に向かうか」
怜が言うと、みんなは頷いた。モールから最寄りの駅までのシャトルバス乗り場は、少し離れた場所にある。
バス停に着くと、すでに何人かの利用客が並んでいた。待つこと数分で、オレンジ色のバスが到着する。乗り込むと、暖房の効いた車内が心地よかった。窓の外は、あっという間に暗闇に包まれ、街灯の光が流れるように消えていく。
果たして今日は成功したのだろうか。そうだといいと思いながら、怜は、鈴音の方を見なかった。仮に、それほど成功していなかったとしても、彼女がどういう風を装うのかは分かるような気がしたからだ。
最寄り駅に着き、そこから我が町の駅まで、電車に揺られることになる。乗り込むと、車内は混雑していた。怜たちと同じ行楽帰りなのだろうか、家族連れや、友だち同士が、ひしめき合っている。怜たちはそれでも運よく、空いているボックス席を見つけ、なんとか座ることができた。
車内は暖かく、心地よい揺れが睡気を誘う。みな、物静かになって、目を閉じている子もちらほら見えた。怜は、もちろん、幹事としてしっかりと起きていたけれど、出そうになったあくびを噛み殺そうとして失敗したところを、鈴音に見られた。
鈴音は微笑みながら、何事かを口パクで伝えてきた。怜は、分からないという意を込めて、手を横に振った。すると、鈴音は満足したようにうなずいたので、何が何やら怜にはさらに分からなくなった。その後、鈴音は七海と話を始めたので、怜は、窓の外を眺めた。漆黒の闇の中を、電車はただひたすらに走り続けている。時折、遠くにポツポツと民家の灯りが見えたり、工場地帯の明かりが帯のように流れていくのが見えたりする。
「ああ、楽しかったあ。日ごろのストレス発散されたよ」
七海が言った。
「あんまりストレスありそうに見えないけどな」と士朗。
「キミはわたしの何を知っているのかな?」
「何にも知らない。イメージ」
「これでも色々考えているのだよ」
「大変だな」
「岡本くんは、悩みなさそうだね」
「オレの何を知っているんだよ」
「何にも。でも、イメージ」
「それは多分当たりだ。ちゃんと考えれば、悩みなんかなくなる。悩むのは考えが足りないからだ」
「えー、じゃあ、環境問題なんてどうなる? みんな悩んでいるけど」
「環境問題なんていうのは、地球環境が汚染されると人間の生活が困るっていうだけのことだろ。自分たちで汚したんだから自分たちが困るのは当たり前。それをただ受け入れればいいだけで、何も悩むことは無い」
「おー! みなさん、ただ今、地球環境問題は解決されました!」
七海がみんなに言うと、みな疲れているように、「おー」と応えた。
しばらく経ち、電車がガタンと揺れて速度を落とし始めた。目的地の駅に到着。自分たちの町に戻ってきたことに、怜は少しばかり安堵したが、気を引き締めた。確か、兼好法師は、「きちんと地面に足をつける時までが木登りじゃ! 分かったか!」とおっしゃっていた。ここから家に帰り、みんなの安否を確認するまでは、気を緩めてはいけない。
ホームに降り立つと、ひんやりとした夜の空気が肌を刺した。
構内で、怜は、最後の点呼を行った。
みな、きちんと揃っているようである。
「じゃあ、みんな、気を付けて帰ってくれ」
と怜が言うと、鈴音が綺麗に手を挙げて、発言の許可を求めた。
「みなさん、今日はありがとうございました。みなさんのおかげで、素晴らしい『修学旅行』になりました。心の底から感謝します。今日という日を忘れることは絶対に無いと思います。スズネは幸せです」
彼女は満面の笑顔で言った。
メンバーの誰からともなく拍手が上がって、周囲の通行人たちを驚かせていたが、怜も拍手に加わった。その音に心が緩みかけるのを、心の中の法師がまた締め付けてくれる。
構内を出ると、女の子たちはみな、迎えを呼んでいるようだった。
「レイくんも、一緒に乗って行かない?」
環に誘われたが、確か、彼女の親の車は、セダンタイプである。彼女は今日自分の家に二人の女の子を泊めると言っていた。当然、その二人も乗っていく。そんなところに、男一人乗り込む勇気は怜には無かった。
賢は日向の親の車で帰るようである。
「じゃあな、レイ」
「ああ、また」
「楽しかったよ。また、こういう機会があったら是非参加させてもらいたい」
「そう言ってくれると思った」
隣から日向が、口を出した。
「加藤くんにしては、なかなか上出来なプランだったけど、参道でアイスを食べさせないようにした恨みは忘れないから」
「アイス?」
「そう」
「いや、でも、結局、食べたじゃないか」
「だから?」
怜は賢に助けを求めた。
「それ、どうにかならないの? 加藤くん。今は、わたしが話しているのよ」
「見やすい位置にケンがいるんだ。いくら、倉木でも、オレの視界にケンが入らないようにするわけにはいかないだろ」
「どうかな、試してみてもいいけど」
ぐいっと手を引かれた日向は、そのまま幼馴染みに半ば引きずられる格好で、駐停車スペースまで歩いて行った。「またな、レイ!」と日向の手を取りながら、賢が顔だけ向けて言ってくるのに対して、怜も手を振り返した。
「じゃあ、オレも帰るわ」
士朗が言う。
「今日はありがとう。おかげで助かったよ」
「別にオレは何もしてないだろ。ただ受験勉強の息抜きを楽しんだだけだ」
「それでも岡本がいなかったら、女子5に対して、男子3だったんだ。それがいてくれたおかげで、女子5男子4になった。二人差か一人差かっていうのは、かなり大きい」
「試合するんじゃないんだから」
「似たようなもんだ」
「お前がどういう人間か多少分かった気がする」
「多分、それは正解だ」
「どっちでもいいけどな」
そう言うと、士朗は立ち去った。
皆を見送った後、
「そこまで一緒に帰らないか、レイ」
ただ一人そう誘ってくる巧に、怜は喜んで応じた。
巧は駐輪場から自転車を引いてきたあと、徒歩の怜に並んだ。
「いい『旅行』だったな」
「だと思ってもらえてたらいい」
「みんなの顔見てなかったのか? みんな楽しそうだったよ」
「上品なメンバーを集めたつもりだから」
「少なくともオレは楽しかった。心からね」
「じゃあよかった」
巧は前から歩いてくる人を避けるために、怜の後ろについたあと、彼女をやり過ごして、また例の隣に並んだ。
「なんだかんだで、中学校生活も、もうあと少しで終わりだな」
「そうだな」
「去年、レイに会えてからこっちいいことばかりなような気がする」
「全く同じだ……と言いたいところだけれど、オレは多少は嫌な目にも遭ってきたな」
「運が悪かったね」
「それを言えば、生まれてきたこと自体がそうだとも言える」
「そこまで大きな話になる?」
「そうしておけば、大体物事は解決する」
「結局は何も解決にはならないっていう解決の仕方だろ」
「その通り」
「またこういう機会があったら誘ってくれないか?」
「一番に誘うよ。ただ、もう無いかもしれないな」
「この素晴らしい時よ、もう一度、って願うのは下品なんだろうな」
「そう願える時を持ったことそれ自体が、すでにしてかけがえのないことだと思う。分かってるだろ」
「そうだな」
分かれ道で、巧は自転車にまたがった。彼の後姿を見送って、街灯に照らされた夜の下を家まで帰り、受験生のくせに遅くまで外出していたことを責めるような母親の冷眼に耐えたあと、参加メンバーに無事帰宅できたかどうかメッセージを送ると、みな、大丈夫だったようだ。
夕食後、鈴音から電話が来た。
「改めてお礼を言っておきたいと思って」
「いいさ。タマキのところにいるんだろ? 枕投げの調子はどうだ?」
「わたしにちゃんとしたお礼を言わせないつもりね」
「駅で別れ際に聞いたよ」
「お礼を言われると背中がかゆくなるっていう病気とかじゃないんでしょ?」
「近いものはあるな。なんだか体を揺らしたくなるんだ」
「存分に揺さぶりなさい。今日は本当にありがとうございました」
「どういたしまして」
その時、「スズちゃん! 誰と話しているのー!?」と幼い声がした。「加藤くんだよ」と鈴音が答えると、「レイ!?」と応じる声が聞こえて、すぐに、
「もしもし、レイ? アサヒだよ!」
と明るい声がした。
「今ね! スズちゃんとアヤちゃんが来て、みんなでトランプしてるの! レイも来て!」
怜が丁重に断ると、旭は残念そうにしたが、
「アサちゃんにプレゼントがあるんだ」
と話したら、すぐに機嫌が直ったようである。
「大人気ね、加藤くん」
電話を返してもらったらしき鈴音が言った。
「純真な子にはオレの良さが分かるんだ」
「みんな分かっているよ」
「そうか?」
「うん、もちろん、わたしもね」
「タマキには代わらなくていいからな」
「えっ? なんで、タマちゃんが、そばにいるって分かったの?」
「なんとなくだよ」
「じゃあ、なんで電話代わらなくていいの?」
「なんとなくだよ」