第275話:鈴音の修学旅行1
前夜、念のためにとかけておいた目覚ましの出番は無かった。
怜は、自然と早く起きた。
世界はまだ薄暗い。
近くに置いてあったスマホの電源を入れて、今日の天気予報をチェックする。
どうやら晴れるようである。
幸先よし。
今日はこれから、自分史上において、それなりに大きなお節介を焼くことになっている。
今さらではあるけれど、本当にこんなことをするべきだったのか、と思わないでもなかった。
とはいえ、今さらそれを言っても詮無いことではあるし、するべきだったのか、そうじゃなかったのかは、向こうに決めてもらえればいいとも思っていた。こちらは何であれ力を尽くすほかなく、その結果が、よくないものであっても、それは究極的にはどうすることもできないのだった。
今さら考えても詮無いことをそれでも考えてしまうのは、やはり、今回の一挙を重要なものとしてとらえているということだろう。
怜は、シャワーを浴びることにした。
秋も大分深まりを見せてきたので、浴室に入る時に、冷やっこい思いをすることになったが、確か、こういう寒暖差でヒートショックなる現象が起きて、高齢者にとっては致命傷になることもあるということを聞いたことがある。
うちの両親は大丈夫なのだろうか、と思いはするが、かといって、高齢者に起こる現象を中年の両親に話題として提供するのは気が引けた。とはいえ、もしかしたら、高齢者だけに起こる現象ではないかもしれず、中年の彼らも気を付けた方がいいかもしれないので、とりあえず、この現象についてはよくよく調べることにしておいた。
シャワーを浴びた後は、軽く朝食を取ることにする。
世の中には、朝からパクパク食べられる人もいるし、現に、妹はその類なのだけれど、怜は違っていた。にも関わらず、父母は「朝からモリモリ食べろ教」のシンパであって、幼稚園や小学校低学年の時は、朝っぱらからかなり嫌な思いをさせられたことを、怜は思い出す。
もちろん、それで親を恨みはしていない。この件に限らず、彼らにしても親になるのは初めての経験だったのだから、間違いがあっても多めに見てやらねばならないし、そもそもが、間違いだったのかどうかもよく分からない。曲がりなりにも、今、怜は心身健康なわけだから、食べにくい量を食べていて良かったのかもしれなかった。
サンドイッチとコーヒーで軽食を取っていると、まことにもって運がいいことに、妹が起きてこなかった。朝っぱらから鬼女の相手をせずに助かったと思った怜は、他の家族とも出くわさず、非常に美味しい朝食を取ることができた。昨今、一人きりで食事を摂る「孤食」が問題になっているということを聞いたことがあるが、問題は問題として認めるとしても、だからといって、家族で囲む食卓というのが無条件でいいものなのかと言えば、それは大いに怪しかった。
家族で食卓を囲んでいれば、嫌でも多少は家族と話をしないといけないし、話を聞かないといけないのだ。これがなかなか億劫である上に、自分のペースで食べられないのも問題である。早くテーブルから離れたいと気がせいて、勢い、早く食べてしまう。食卓に上っているのが好物だとしても、味わって食べる暇がない。これは、大いに体と心に悪いのではないか、と怜は常々疑っていた。
食事を終えた怜は、自室に戻った。時刻はまだ早く、約束の時間までは大分ある。とすれば、やることは一つしかなかった。受験生としての本分を全うする。そうするのにやぶさかではないけれど、そもそも受験生になったのは自分の意志だったのだろうか。しかし、それを言えば、生まれてきたこと自体が自分の意志ではなかったわけだから、もうやむを得ないともいえる。なにゆえ、こんなことになっているのだろうか、と思いにふけるのは、別の機会に――おそらくは、受験が終わった3月以後に――譲るとして、怜は、開いた英語のテキストに向かい合った。
少しすると、スマホに着信があった。
「今日はよろしくお願いします」
本日のゲスト、橋田鈴音である。
「こちらこそ」
「今日は最高の一日になったわ」
「まだ始まってもいないだろ」
「自分のために人が何かをしてくれる。そういう日なんだから、最高の日に決まっているでしょ」
「満員電車に乗って、観光地で観光客にもみくちゃにされて、昼飯の席の予約が取れていなくても、同じように思えるかな」
「なに、そのシナリオ」
「オレは悲観主義者なんだ」
「大丈夫。多分、他のみんなは楽観主義だから。加藤くんの悲観主義がどれほど大きくても、みんなが相殺してくれるよ」
「そうかい」
鈴音は声を上げて笑った。
その笑声は、窓から見える今日の秋空のように、澄んでいるようだった。
「じゃあ、またあとでね」
「ああ」
スマホを置いた怜は勉強を再開した。
1時間ほど勉強していたところで、そろそろ、家を出る時間になった。この前、母が買ってくれたおろしたての上下を身に着けた怜はボディバッグを身に着けて、部屋を出た。すると、
「出かけるの?」
と折あしく、母と出会ってしまった。
今日一日友だちと遊んでくることはすでに母に通知済みである。昨夜、それを聞いた母は、何事か言いたげに息を吸ったけれど、吸っただけでそれを言葉にすることはなかった。おそらくは、言っても詮無いことと思ったのだろう。この辺は親子なのだろうか。母も諦めるべきことに関しては諦めがいいようである。
「うん」
と怜が答えると、
「気を付けて行ってきなさいよ」
母はそれだけ言うと、二度寝するためだろう、寝室の方へと去っていった。
怜は家を出て、玄関に鍵をかけた。
ふうっと息をついてから、空を見上げる。
晩秋の空は、窓から覗いたのと同様に、美しく晴れ上がっている。
怜はカノジョの家に向かって歩き出した。一緒に駅まで行くことになっている。しばらくひんやりとして気持ちいい空気の中を歩いていると、瀟洒な家の門前に、我がカノジョを認めた。こちらに気がつくと、小さく手を振って来る。近づいた怜は、
「門の前で待っていてもらうのはありがたいんだけど、そんなところに突っ立っていたら、誰かに声をかけられないか?」
朝の挨拶をした。
「たまにかけられるよ、近所の人に」
「『そんなところに突っ立ってどうしたの?』的な」
「そう」
「なんて答えるんだよ」
「『運命の人を待っているんです』って」
「今度から、家の中で待っていたらいいんじゃないか?」
「どうして?」
「キミが変な子認定されるのが忍びない」
「誰にどう思われてもわたしは気になりません」
怜は環の視線を感じた。
「オレも思うことがあるって言ったら?」
「ウソ!」
「いや、本当」
「ショックです」
「でも、キミもオレのことをそう思っている、だろ?」
「ちょっとは」
「だったら、同じじゃないか」
「同じじゃないです。だって、ここはわたしの世界だから」
環は得意げに言った。
怜は、彼女の世界にいる自分が変わってはいるけれど醜くなければいいと思いながら、
「今さらなことなんだけど」
歩き出したあと、話を変えた。
「なあに?」
「今日のプランが成功するかどうか不安なんだ」
「きっと大丈夫よ……って、いう言葉がけしかできないけれど、仮に失敗したら、わたしのせいにしてくれていいから」
「計画を立てたのはオレだぞ」
「コンサルタントはわたしだからね。相談役のせいにしてください」
「そんなみっともないことをするくらいなら、自ら泥をかぶるよ」
「一緒にかぶろうか」
「いや、そうすると、ホースで水をかけてもらう役がいなくなる。キミにはそれを頼みたい」
「アイアイサー」
「水流、あんまり強くするなよ」
環と話していると、怜は不思議と心が落ち着くのを感じた。
それだけではない、今日はきっと成功するのではないか、と明るい予感を覚えたのである。
自分の唐突な、そうしていかにも安直な変心ぶりに驚いた怜が隣を見ると、いつもの微笑がある。
「キミはもしかしたら天使なのか?」
「どうしたの急に?」
「急に思ったものだから」
「もっと隣の女の子の言うことを素直に聞きなさい」
「ん?」
「レイくんへの神のお告げ」
「割と素直に聞いています、とお伝えしてくれ」
「『神に口ごたえするとは何事じゃ』」
「口ごたえではありません」
「『それを口ごたえと言うのじゃ』」
「すみません」
「分かればよろしい」
二人が駅に着くと、待ち合わせ場所にすでに、椎名巧が待っていた。
「レイ、川名さん」
まるで、10年ぶりに会ったかのような嬉しそうな顔をした友人を見た怜は、
「オレがタクミのことが何で好きなのか分かるだろ」
と隣の少女に言った。
うなずいた環は、
「こうやって、わたしのライバルは際限なく増えていくわけです」
と巧に言った。
「オレは川名さんと勝負する気は無いよ、今のところは」
「今のところ、ですか?」
「色々と探し回った挙句に誰も見つからなくて、結局は手近な人間でってことになるかもしれない」
「ただ手近ということだけで選ぶのだとしたら、わたし、絶対に負ける気はありません」
何やら対決し始めた二人のところに、賢と日向が到着した。怜が賢と挨拶を交わすと、
「何を見合っているの? 二人とも」
日向が、環と巧の方を見た。
「椎名くんに釘を刺していたところです。その釘を、西村くんにも刺しておきたいけど」
「えっ、なに?」
いきなり自分の名前が呼ばれた賢はビックリしたようである。
「何の話だよ?」
「いや、何でもない」と怜。
「気になるなあ」
ややあって、綾と七海が到着したようである。
七海はすっきりとした顔立ちをしていた。
もっとも、彼女が機嫌悪そうな様子は見たことがないが。
さらに、士朗が到着する。
「うおっ、なんかオレが遅れたみたいになっているけど、まだ時間前だよな」
「だな」
「いじめかと思った」
最後に、鈴音が到着する。
怜は、鈴音以外のみなの気持ちが分かった気がした。
鈴音は、主賓にふさわしい晴れやかな笑みを浮かべていた。
「みなさん、今日はわたしのためにありがとうございます。一日、よろしくお願いします」
そう言うと、軽く頭を下げるようにした。