第27話:旅の始まり、旅の終わり
ドアにノックの音が響き、母が入って来た。鈴音はベッドから身を起こすと、フローリングに降りて、小さな丸テーブルに向かった。母の手から、紅茶と切り分けられたりんごが載せられたトレイが、テーブルの上に移動する。夜食だった。もっとも勉強はもう終わっていたので、本来の用は成さないが。
「今日の分はもう終わったのよ、お母さん」
決してサボっていたわけではないことを告げる鈴音だったが、母はそんなことは気にしていないようだった。
「学校はどう?」
鈴音が幾つかのりんごの小片をおいしく食べたあと、母はおそるおそる声をかけてきた。
「楽しいよ」
鈴音は心からの笑みを見せた。年頃の娘を刺激しないようにと気を遣ってくれる母に、そのくらいのサービスはしなければなるまい。さらに、母が空の器を載せたトレイを持って部屋を出ようとしたときに、お母さん、と声をかけ、振り向かせたあと、
「もう大丈夫だから。心配しないで」
と母に安心させるように言った。母は微笑むと、お休み、と言って戸を閉じた。泣き出しそうなのをこらえているような笑みだった。
母には心配をかけた。もちろん父にもだが、家にいて始終娘と対面しなければならない分、母のほうがストレスであったろうと思う。むろん、辛いのは鈴音自身も同じだったが、悲劇のヒロインを気取らないようにする程度の分別はあるつもりだった。この八ヶ月は、母にとって長い、それこそ長すぎる時間であったろう。母の心労に報いるには、親孝行をするほかない。とはいえ、今は何ができるわけでもない身であるので、せめて元気に学校に通っている姿を見せて安心してもらうことくらいはしたい。
そもそも不登校になった理由はつまらないことだった。しかし、それをつまらないと割り切ることができるのは、同じ立場に立ったことがない者だ。そうして、そういう人間とは語り合う必要はないと鈴音は思う。慰めが得られないからではない。端的に、分かり合うことができないからである。
二年の初夏、鈴音は一人の男子から告白された。告白されるのは珍しいことではなかった。それまでにも何度かある。自分に異性に対しての魅力があるということは分かっていた。自惚れではない。十三年そういう扱いをされれば気がつかない方がおかしいというものである。別段、それを誇りに思ったことはないし、それを武器に使った覚えもない。告白は丁重に断った。他に好きな子がいたわけでも、理想が高かったわけでもない。単に男の子と付き合うということに興味がなかったのである。
その男子は男らしく聞き分けてくれたが、おさまらないのは彼のカノジョの方だった。いや、正確には元カノジョである。彼はカノジョと別れてから、鈴音に告白したのだが、カノジョの方はそういう気はなかったらしい。カノジョは、他人のカレシを誘惑した、と鈴音のことを糾弾し始めた。悪いことに彼女はクラスメートであり、もっと悪いことに、クラス内のメジャー・グループのリーダーでもあった。嫉妬から、鈴音に対する、悪口、無視、嘲笑、など嫌がらせが始まった。くだらない、と初めは気にかけていなかったし、気にしないことが無理なほど露骨になると、彼女に直談判に行ったりした。もちろん、彼女は鈴音の言葉を聞いたりしなかった。話がさらにややこしくなったのは、例の鈴音に告白した男子が、どこから聞きつけたのか鈴音の窮状を知り、義心を持ち、元カノジョに抗議したのである。これを鈴音がやらせたと邪推した彼女は、さらなる嫌がらせに労力を使うようになった。
彼女の嫌がらせなど大してこたえなかったが、鈴音がショックを受けたのは、これまで仲が良かったクラスの子が彼女を避け始めたことである。話しかけようとすると、そそくさと鈴音の視界の外に出ようとするのである。鈴音と一緒にいたら自分もターゲットになると思ったのだろう。今、冷静な頭で考えれば正しい行為であると判断できるが、当時はそれほど寛容にはなれなかった。友達だと思っていた子たちの裏切りとも言いたい行為に、鈴音はショックを受けた。そうして、そういう醜い心性の持ち主と平気で友達付き合いをしていた自分自身にも衝撃を受けていた。
教室は鈴音への悪意で満ちているようだった。その悪意を防ぐ術が鈴音には見つからなかった。鈴音は恐怖した。汚らわしいその悪意に触れているうちに、彼女の精神は徐々に蝕まれた。腐臭を撒き散らす人型の化け物が自分を仲間に引き入れようと手を伸ばしている。教室に入るとそんな想像に身が震えるようになった。鈴音は学校を休みがちになった。どうして、毎朝、好き好んで汚濁の中に向かわなければいけないのか。理由がなかった。それでも一学期はどうにか切り抜けたが、夏休みを終えたときには、学校に行く気は全くなくなっていた。
――しばらく学校を休むわ。
このセリフを告げたときの母と父の落胆振りは見るも哀れであった。娘が、人生の一般的なコースをずれたことが信じられないのだ。レールが敷かれていない所にも道があることは頭では分かっていても、その道を歩くのが我が娘となれば納得が行かないのが親心である。娘をなだめすかせて学校に行かせようと躍起になる父母に気落ちしながらも、彼らに心配をかける自分を省みる余裕を持っていられることだけが、鈴音の慰めだった。
――許さない。
両親に言ったのと同じセリフを告げたとき、眼底にぞっとする光を溜めてそうつぶやいたのは、環だった。
――タマキ、何考えてるの?
鈴音は訝しげな目を小学校来の友人に向けた。環は周囲から常にクールだと思われがちであるし、事実普段はその通りなのだが、それだけではないことを鈴音は知っていた。彼女には内に秘める熱情がある。いつもはそれをヴェールで隠しているから外には分からないだけなのである。
――わたしが何を考えてるのか、説明しなきゃいけない仲でもないでしょ。
環の静かな声に、鈴音は体の奥にひやりとするものを感じた。彼女の想像した通りだとするとうまくない。鈴音は彼女の手を取ると、瞳を合わせ、ゆっくりと首を横に振った。
――わたしに何もするなって言うの?
搾り出すような悲痛な友の声に、鈴音はうなずいた。
――どうして?
――説明しなきゃいけない仲でもないでしょ。
納得の行かない顔をする環を、鈴音はなだめたが、
――分からない。
と、環は聞き分けのないことを言った。
――環にああいうものに触れて欲しくないのよ。
鈴音は静かに言った。
――スズちゃん、わたしがそんなものを恐れると思ってるの?
――そうは思わない。でも、お願い。わたしのためにね。
環は唇を噛み締めて悲愴な面持ちだった。そういう友の顔を見るのは辛かった。
――今はどうしていいのか分からない。でも、このまま戻れないわ。先がどうなるか……やってみるしかない。
鈴音は覚悟を決めて言った。
――スズちゃんは分かってない。ひとりなのよ。あなたは、ひとりで……
それ以上は言葉にならないようだった。俯く少女のなめらかな頬に手を触れて、鈴音は彼女の顔を上げさせた。
――知ってるよ……そんな顔しないでよ、タマキ。似合わないわ、あなたには。
環は弱々しく微笑んだ。
――……わたしに似合う顔ってどんななの?
――我がままで傲慢で強靭な勝者の顔。
冗談のように軽く言った言葉に、環は真面目に答えた。
――スズちゃん、わたしはもう負けてるのよ。敗者なの。勝者なんかじゃない。
三年付き合っているが初耳だった。驚きに胸を打たれた鈴音は、思わず己の状況も忘れ、何と戦ったのか、環に訊いてみると、
――……世界と。
呆れた答えが返ってきた。そんなものと戦えば負けるに決まっている。
――その時のわたしは勝利を信じてたわ。でも、負けた。だから、ひっそりと生きていくことにしたのよ。
――ひっそりと……ね。
友人の学校内での評判を考えると、とてもそうは思えなかったが、環の言いたいことは分かった。彼女の人生に対する態度が少し分かった瞬間だった。
――負けて何か失った?
――何も。逆に手に入れたものがある。
――じゃあ、悪くないじゃない。
――負け方によるのよ。
――次につながる負け方?
――負けるときに、そんなこと考えられると思う?
環は、彼女が手に入れたものは、たまさかの結果にすぎないということを続けた。そうして、悲しげに目を伏せた。彼女の気持ちは痛いほど分かった。しかし、もう引き返せないところに来ていた。
――もう決めたのね。
環が目を上げた。鈴音がうなずくと、彼女は抑えた声で言った。
――それじゃあ、わたしにできることは、もうないわ、何も。
――ひとつだけあるよ。
鈴音はわざと顔を明るくしてみせた。
――なに?
――わたしを待つこと。待っててくれる、わたしを?
――バカ。同じこと、もう一回言ったら、ひっぱたく。
――出会ったときみたいに?
――あの時は、叩かなかったでしょ。
――そうだっけ?
環は笑顔を作った。花が開くような最高の笑みだった。それが彼女からのはなむけだった。
――あなたを待っています、未来で。
それからも、環とは付き合いを続けたが、彼女からついぞ学校の話が出たことはない――怜の話は別だが。鈴音の戦いに干渉しないようにするためである。それは絶大な信頼の証だった。彼女の信頼を得られる自分が鈴音には誇らしかった。
長い旅だったような気がする。孤独の中で鈴音はのたうちまわっていた。受け入れてしまえば楽になるものがある。少なくとも受け入れる振りをすれば。しかし、それは自分を裏切る行為だった。そうして自分を裏切るということは、自分を信頼してくれる友を裏切る行為でもある。それだけはできなかった。
旅を続けるうちに、自分が求めているものが分からなくなっていた。何を求めて始めた旅だったのだろうか。いや、そもそも求めるものなどあったのか。何も分からなくなったそんな時。彼女は一人の少年に出会った。彼は鈴音の行く道を示してくれた。ただし、行く先に求めるものがあるのではなく、行くことを決心すること自体が求めているものそのものなのだと言って。それを聞いたときに、鈴音の旅は終わりを告げた。始まりの地から一歩も動いていなかったが、そここそがゴールだったのだ。
彼女は勝利した。自分ひとりの力で得た勝利ではなかったが、そも自分以外の人の言葉を認め受け入れることができたということが彼女の勝利の内容の一部であるのなら、誰からも非難はされまい。
今から考えれば、待ちきれなくなった環がよこした援軍が怜なのだろうか、とも思う。どうもそんな気がしてならない。むろん、環に聞いても、否定するか、あるいは答えないかだろう。また、怜も人の命に諾々と従うような人間でもない。ただ、それが環の指示であるにしても、怜の意志であるにしても、彼がこの上ない援軍であるという事実に変わりはなかった。彼女に勝利をもたらしたあとも、朝夕の送り迎えで学校への鈴音の心理的な障害を軽くし、鈴音の勝利を確固としたものにしてくれている。そうして実のところ、彼の送り迎えに鈴音はそれ以上の価値を認めていた。怜と同じ道を歩き、同じ風景を見て話すのが楽しくてたまらないのである。ここまで短い付き合いで気の置けない状態になった人は初めてだった。しかし、この楽しみもそろそろ終わりに近づいている。
鈴音の中で何かが確実に変わった。その変わった自分で会いに行かなければならない人がいる。もしかしたらあちらから会いに来てくれるかもしれないが、それは礼に反するだろう。長い間待たせたのだ。こちらから出向かなければなるまい。再会の時。それが確実に近づいていることを鈴音は感じていた。