第268話:妹のいない清らかな数日
都がいない。
修学旅行中である。
怜は非常に清々とした気持ちで帰路を取っていた。
こんなに気持ちよく家に帰れるのはいつ以来のことか、ちょっと覚えが無いほどだった。
しかし、考えてみれば、答えは出る。
中一の秋のはずだ。
というのは、そのときも、当時小学六年生の妹がいなかったからである。
やはり修学旅行だった。
こうしてみると、修学旅行というのはなかなかステキなシステムではないだろうか。
年に二、三回、あってくれてもいい。
何だったら、毎月あってもいいのではなかろうか。
別に、旅行なんていう大げさなものでなくても、宿泊学習的なものでもいいのだ。
月に一回妹がいなくなってくれたら、どれくらい清々することだろう。
そんなことを考えても、怜は妹に悪いとは思わなかった。
というのも、彼女の方でも自分に対してそう思っているだろうことは、想像に難くないからだ。
互いに憎み合う兄妹とは一体何なのだろうかと、今日だけは、そんなことを考える気はまるで無かった。
楽しむべき時に楽しまなければならない。
人生は短く、妹がいない時間はもっと短い。
その日は学校が終わってから塾があったのだが、担当の講師に、
「何かいいことでもあったんですか、加藤くん?」
とツッコまれた。
講師は勉強に関係しない限りは、プライベートに口をはさむ人ではない。それにも関わらず訊いてきたということは、それだけ怜が、例ならず、はしゃいで見えたということだろう。師に訊かれたからには答えないのは非礼である。とはいえ、まさか、
「妹がいないので、それが嬉しいんです」
などとは答えられない怜は、今晩のおかずがハンバーグであることでテンションが高い理由としておいた。今時夕飯がハンバーグ程度で我を忘れるほど喜ぶ中三男子がいるのだろうかという疑いに、そもそも当の生徒がそういうたちでもないことに気がついているのだろう、講師は納得しなかったようであるが、
「美味しいですよね、ハンバーグ」
とあまり踏み込まないようにしてくれたようだった。
塾を終えて家に帰る。
やはり妹はいない。
夕飯の時間になった。
妹がいない食卓は実に素晴らしく、ハンバーグは実に美味しかった。
妹がいないおかげで美味しいのだから、講師に言ったことも満更嘘ではないということになる。
気持ちよく満腹になった怜は歌でも歌いたい気分である。
そうして、ちょっと待てよ、と思った。
こんなに妹がいないことが嬉しいとしたら、是が非でも、大学は県外にしなければいけないだろう。県外に行くなら、家を出ることができる。そうすれば、今日のような天国が続くことになるのである。
そのためには、できるだけレベルの高い高校に行くのがよいのではなかろうか。大学への選択肢が増える。選択肢が増えれば、県外の大学に行ける可能性も高まる。
怜は、勉強へのモチベーションがみるみる高まるのを感じた。
まさか、妹のおかげで、勉強へのやる気が出るとは思わなかった。
翌日、怜は通学路上で、環に告げた。
二年生が修学旅行中でも、一年と三年は普通に学校がある。
「妹のおかげで、タマキと一緒の学校に行ける可能性が上がったよ」
「そういう言い方感心しないな、レイくん」
「オレは聖人君子じゃない」
「それにしたってひどいんじゃないかな」
「ひどいかもしれない。でも、ひどすぎはしないよな」
「すぎなければオーケーっていう話でもないと思うけど」
「オレを責めてKOしようとしても無駄だぞ。今日は気持ちにゆとりがある」
「ミヤコちゃんは悪い子じゃないよ」
「もちろん、そうだ。オレも何も、彼女が稀代の悪女だとは言っていない」
「『彼女』って言い方」
「そのくらいはいいだろ?」
「どうかな」
「悪い子ではない。ねじくれたところはないよ、確かに。ただ、自分の好き嫌いにまっすぐなんだな。そうして、オレのことを『嫌い』の範疇に入れているだけだ」
「嫌われる理由は?」
「それ、前も訊いたぞ」
「前はちゃんと答えてくれなかったじゃない」
「グリーンピースに訊いてくれ」
「えっ、なに?」
「オレから意味もなく嫌われている。その理由をグリーンピースが話してくれたら、オレだって、多分ミヤコに嫌われる理由を考え出せるだろうよ」
「そんなに思い当たらないの?」
「何も無い。オレの方で対応を変えたということは無いと思う、多分」
「難事件だね」
「迷宮入りでいい。名探偵は必要ない」
「でも、この前、わざわざお昼休みの時間にわたしのところに来てくれて、『お兄ちゃんをよろしくお願いします』って言ってくれたのよ」
「そりゃ言うだろ。タマキがオレのことをよろしくしてくれれば、その延長線上で、目をかけてもらえるんだから」
「レイくん」
「時間切れだ。オレの薄情を叱りたかったら、放課後まで待ってくれ」
二人は校門前に来ていた。怜は、今日の門番の教師に溌溂とした声で挨拶して、生徒用玄関で上履きに履き替えて、カノジョと別れ、我がクラスへと入った。
「おはよう、スズ!」
怜は橋田鈴音に声をかけた。
「どうしたの? やけに機嫌いいけど?」
「そうか? いつもこんな感じだろ」
「昨日徹夜してナチュラルハイなの?」
「徹夜なんて一度もしたことない」
「じゃあ、どうして?」
「百万円当たったら、誰だってこうなる」
「それで?」
「実はさ…………今、妹が修学旅行中で家にいないんだよ!」
怜が披露した百万円並みの情報は、鈴音の気を全く引かなかったようである。
「わたし一人っ子だからなあ」
「オレの夢の一つだな。絶対にかなわない」
「隣の芝生は青く見えるものだよね」
「実際に青いことだってあるんじゃないかと思っている。というか、そもそも、こっちの芝生と隣の芝生が同じなわけない。土だって違うし、日の当たり具合だって違う」
「加藤くんが妹さんに不満があるように、妹さんの方だって同じような思いを抱いているかもしれないって考えるのが、フェアなんじゃない?」
「もちろんそうだ。でも、彼女は、不満を行動に表している。これはアンフェアじゃないか」
「加藤くんだって、今あらわしているじゃないの」
「スズはオレの味方じゃないのか?」
「だから、間違いを正してあげてるんじゃない」
「納得したよ」
「それはよかった。加藤くんは一度、妹さんと話し合った方がいいんじゃないの?」
「何を?」
「それはわたしには分からない。何だっていいから、思いのたけをぶつけ合うのよ」
「そんなことをして仲が深まるのはマンガの中だけの話だ」
「マンガで起こることなら、現実でも起こるんじゃないかな」
「じゃあ、手からエネルギー波的なものも撃てるようになる?」
「可能性はあるわ。何にでもね。今日から練習してみたらいいんじゃない? できたら教えて」
鈴音は笑って言うと、自分の席に戻った。
その日の六時限は実に気持ちよく過ごすことができた。
こんなに学校というのは素敵なところだったのだろうか。
なにせ、家に帰っても妹がいないのである。妹がいない空間に帰れることを思えば、どこにいても耐えられるような気がした。いつも思っていることだが、怜は、家というのがその人にとってのハイドアウトにならなければならないということを再確認した。
首尾よく部活動をサボって、ガールフレンドと帰路を取る。
こういうことができるのも、妹のおかげのような気がしてきた怜は、かなたにいる彼女に感謝の意をささげた。
かなたにいるというところが素晴らしかった。
木々は装いを新たにし始めている。
秋が深まりつつあるのだ。
「なんだか夢の中にいるような気がする」
隣から環が言った。
「オレもだよ。まあ、明日の晩、その夢は醒めるけどな」
「もう、そういうのじゃなくて」
環は怒った振りをした。
彼女が言いたいことが分かる気はした。
空は高く済んで、そこから心地よい微風が吹き、周囲があでやかに色づいているのである。
確かに夢のようだった。
「ここでこうしてわたしがわたしっていう人間をやっていることがね、こういう日にすごく、おかしな風に感じられることがあるの。これは、何か間違っているんじゃないかって」
「生まれたこと自体が?」
「そう」
「でも、生まれないことはできなかった」
「そうなんだけど、でも、どうしてかこう感じてしまうこの感じが存在することは確かなことだよ」
「もしも全能の神がわたしをだまそうとしても、わたしが今こう感じていること自体はだましようがないってことか」
「そんな大げさなことじゃないけどね」
「人は夢と同じ物質でできている」
「いい言葉だね」
「オレが言ったわけじゃないけどな」
「ある人が言った言葉に納得できるとき、その言葉は自分のものになるんじゃないかな」
「その通りだ」
「こうなると、はじめに言葉ありき、っていう言葉もかなり納得できる気がする」
「言葉が無いと始まらないからな。ただ、言葉っていうのは、袋小路の行き止まりだっていう気もするけど」
「言葉では語れないことがある?」
「ある、どころか、全部がそうだな、本当は」
環に対する気持ちが何なのかということを語ろうとしたら、それは語ることができない。
語りえぬものについては沈黙しなければならない、というのは誰の言葉だっただろうか。
環によると、そう考えることに意味はない。
その言葉に深く同意できるのであれば、それは自分の言葉なのである。
「だから、オレは沈黙を守って何も語らない、キミの美点を」
「それはまた別のお話のような気がしますけど」
確かに夢のようだと怜も思った。
言葉で語れないことがあるとしても、言葉があること自体が夢なのではないかと思う。
もしも、言葉が無かったらどうだろう。
何を意味することもできずに、ただ生きているだけということになってしまう。
そうして、ただ生きているということさえ分からないのだろう。
なぜなら、生きているとかいないとか表現できるのも、また言葉だからだ。
「ちょっと傲慢なことを言ってもいい?」
「どうぞ」
「わたしね、美しい言葉を話す人とだけ言葉が通じるっていう気がするの」
環が歌うように言った。
それには、怜も全く同意だった。




