第263話:宏人の修学旅行1
修学旅行当日の朝、宏人はすっきりとした気持ちで目が覚めた。遠足前に眠れぬ夜を過ごす幼さはすでに拭い去っていたので、昨夜は早めに就寝して今朝は早めに起きられたということである。時計を見ると、朝の5時だった。ちょっと早く起きすぎたかもしれないが、なに、寝坊するよりはマシだろう。
せっかく早起きしたので、宏人はシャワーでも浴びることにした。入浴してすっきりとすると、腹が減ってきた。母が起きてくる前にパンでも焼いて食べようかと短気を起こしかけたが、それをぐっとこらえて、お腹をぐうと鳴らしていると、その音が聞こえたのか母が目を覚ましたようで、
「早いわね、宏人。眠れなかったの?」
と訊いてきた。
「よく眠れたよ」
と答えた宏人はダイニングテーブルに座って、朝食を待った。母が朝食を用意してくれている間に、姉が起きてきた。随分と早い。いつも通り、髪の毛を爆発させた姉は二人に挨拶すると、顔を洗ってきたあとに、宏人に向かって差し出してきたものがある。小さな紙袋だった。
「何だよ?」
「開けてみなさい」
おっかなびっくり中を開いてみると、入っていたのはお守り、旅の道中の安全祈願のものである。
「こ、これをオレに?」
「当たり前でしょ」
「あ、ありがとう」
「どういたしまして」
宏人は、姉のことを見直した。なんだかんだ言っても、彼女は自分の姉なのだ。たった一人の弟のことを思いやってくれているのである。日ごろひどい仕打ちを受けていたが、いざとなるとこうして優しい面をチラ見せてくれるのだ。毎日の虐待も、一日の善行でチャラになる……ん? なんかおかしいぞと思った宏人だったが、深く考えをめぐらす前に、朝食が整えられたようだった。
朝食を美味しくいただいていると父が起きてきた。挨拶を交わして父より先に食べ終えると、出発の時刻である。そうしていざ玄関へと廊下を歩くと、家族総出で見送りに来てくれたわけだけれど、そんなに丁寧にしてくれるとなんだか、
「それが彼の顔を見た最後の瞬間でした」
というようなナレーションがかかりそうであって、嫌な気分になった。
――オレは必ずここに帰ってくる!
楽しいイベントの前であるにもかかわらず、なぜだか悲壮な決意を胸に抱いて、宏人は家を出た。バス停に向かって歩く。集合は駅である。修学旅行の時くらい、親が出発地まで送っていって当たり前という甘っちょろい考え方は倉木家にはない。自分でできることは自分でやれ、自分でできないことはあきらめろ、というのが倉木家の黄金律の一つなのだった。ちなみに家訓はあといくつかあるが、思い出したくない。
駅に着くと、2年生6クラス総勢200人余りのろくでなしどもが、ちょろちょろ集まっていた。なぜ「ろくでなし」と言うのか、これは親友のせいである。親友の理論によると、この世の中には構造的に、善人よりも悪人の方が多いのだという。ということは、ここに集まっている同窓生たちもおおよそ悪人、すなわち「ろくでなし」と言っていいわけだった。善人の子に対しては申し訳ないが、苦情があるなら友人の富永一哉に言ってもらいたい。
その友人が話しかけてきた。
「よお、ヒロト」
「よお、親友」
「気分は?」
「悲壮な気分だよ。もう二度とここに戻ってこられないかもしれないんだから」
「なんでまた?」
「旅先で事故に遭うんだよ。そうなったらどうする?」
「何も旅に出なくても事故には遭える。大したことはないな」
「ありがとう。気が楽になったよ。みんなは?」
「まだ見てないけど、休むっていう連絡は無かった。おいおい来るだろ」
その言葉通り、すばらしき班メンバーの数々が、ちょこちょこと集まってきた。
二瓶瑛子はいつも通りの華やかな微笑みをまとい、花山さんは頬を紅潮させていた。田沢くんは仏頂面であるが機嫌は悪くなさそうだった。
志保は、眠そうな顔をしていた。
「今日が楽しみで眠れなかったのか?」
「違うわよ。弟が昨日の夜熱を出して、看病してたの」
「大丈夫なのか?」
「熱は引いたけど、でも大事を取って今日は学校を休ませたわ。気分は良くなったみたいで、一日ずっとアニメ見てるって張り切ってた」
「大変だったな。眠くなったら肩を貸すよ」
「隣の席でもないのに、どうやって?」
「席を代わってもらうさ。『藤沢の看病をしたいから代わってくれないか』って頼むよ。どう?」
「どう思っていると思う?」
「嬉しい」
「惜しい。正解は『嬉しくない』」
駅構内で、他の乗客の迷惑になりながら点呼を行う。
それが終わった後は新幹線に乗って、京都まで行くことになっていた。
「新幹線なんて久しぶりだなあ」
宏人は、はしゃいだ声を上げた。
「席の上に靴のまま乗っちゃダメだよ、倉木くん」
瑛子はからかうように言ったあと、
「田沢くんも」
と宏人の隣に声をかけた。
「し、しねーし」
田沢くんは、どもりながら答えた。
新幹線に乗り込むと、座席を向かい合わせにして、ゲームが始まった。
「藤沢はなんか花札とかやりそうだよなあ」
トランプを手にした宏人が言うと、志保は、
「やるよ、花札。やらないの?」
と答えた。
「やんないだろ、花札なんて。なあ?」
「あの……わたし、好きです。花札」
花山さんがおそるおそる手を挙げたので、宏人はバツが悪くなった。
「チャンスがあったらみんなでやりたいなあって思って、持って来てます」
「やろうよ、花山さん。倉木くんから、修旅のお小遣い全部巻き上げよう」と志保。
「えっ、花札って、お金賭けるの!?」
「お金が嫌なら、魂でもいいけど」
「お前、どこの悪魔だよ」
「か、賭け事はダメです」
花山さんが言うと、
「賭博罪」
ぼそり、と田沢くんが付け加える。
「パチンコや競馬がよくて、個人的に賭けるのが何で悪いのか分からない」と一哉。
「オレには分かる。藤沢からオレを守るために、その法律はある」
瑛子がみんなにポッキーを差し出した。
宏人はやれやれと首を横に振った。
「朝食べてきたばかりだぞ、二瓶。今からポッキーなんて、5本くらいしか食べられないよ」
「ごめんね。2本だけだよ、はい」
「ありがとう。紅茶もあると嬉しいけど」
「倉木くんって、富永くんの親友なんだよね?」
「基本いいヤツなんだけど、食い意地が張っているところが、玉に瑕なんだ」
「二人でオレの悪口を言い合えばいいさ。でも、ポッキーに紅茶が合うという真実は変わらない。真実はいつも一つ!」
「コーヒーも合うと思うけど……」と田沢くん。
「真実は時に二つ!」
京都駅までゲームをしたりお菓子を食べたり、支給された弁当を食べたりして楽しく過ごしたあと、駅に到着してからは、バスに乗って全体行動を取る。宏人は、地元の観光地に来るツアー客のことを思い出した。バスから吐き出された人々が、黒山となって押し寄せて、食堂や土産物屋やトイレを占領する。そのシーンはまさに圧巻と言ってよく、「ツアー客最低!」という思いを持ったが、今度は自分たちがそうなるのである。
「この修旅中は、地元の人からオレたちがそう思われるんだよなあ。感慨深いなあ」
宏人はしみじみと隣の少女に言ったが、彼女から答えは無かった。
「お前、具合大丈夫か?」
「はわーわ、どうして?」
「そのあくび」
「人間誰でもあくびくらいするでしょ」
「何でオレの前でするんだよ」
「他にどこでしろっていうのよ。そっちがわたしの方ばかり見ているから悪いんでしょ」
「別に見てねーし」
「見てた」
「なあ、藤沢、このやり取りってさ、互いに意識しているけれど素直になれないカップルっぽくない?」
「わたし、素直だけどなあ。素直に、倉木くんのことウザいって思っているんだけど」
「それも照れ隠し的な?」
「照れは隠していない。別の気持ちを隠している。知りたい?」
「いや、興味ない」
京都駅からはバスでの移動となった。
若々しくすっきりとした面持ちの美貌のバスガイドさんが同乗していたので、男子たちははしゃいでいた。
「今日から3日間、みなさんの旅をサポートさせていただきます。よろしくお願いいたします」
そう言って、彼女が頭を下げると、
「ガイドさん、カレシいるのー?」
早速、セクハラ質問が飛んだ。
「残念ながら今はおりませんので、どなたか立候補していただけると助かるんですが」
さすがに大人な対応をした彼女に、宏人も好感を持った。
「ああいう女性が、倉木くんのタイプなの?」
バスを降りたときに瑛子が言った。
「感じいい人だと思うよ。プロだね」
「そういうのじゃなくて」
「オレは女性には何も期待していない。文句があるなら、姉貴に言ってもらいたい」
「お姉さんに?」
「今日もお守りを渡してくれたんだ」
「どうして、それで女性に失望するの?」
「いつも通り憎まれ口を叩いてくれた方がいい気分でいられるんだ。そういう弟の心情を理解してくれていないってことだろ?」
「すごい理論」
「こういう理論を持つようになったのも、姉貴のせいなんだよ」
「そうやって、何でも他人のせいにするのはよくないと思う」
「何でも他人のせいにすること自体も姉貴の真似をしているんだ。無くなったアイスは弟のせい」
「じゃあ、倉木くんのいいところはどうなる? それはお姉さんから譲られたんじゃないの? それとも、悪いところは全部お姉さんのせいで、いいところは自分で身につけたって言うの?」
「オレのいいところ?」
「うん」
「たとえば、どんなところ?」
「ええっと……」
「なぜ言葉に詰まる?」
「これは、そういうのじゃなくて……」
「そういうのってどういうのだよ。いいよ、無理しなくて」
「無理なんてしてないけど、ほら、人目があるから」
「いいところが人目があるから言えないってどういうことだよ、ますます意味分からないよ」
「まあまあ、そう怒らないで」
「別に怒ってはいないけど」
「じゃあ、よかった。ほら、笑って、倉木くん。倉木くんは笑った方が可愛いよ」
宏人はにやりとしてみた。
瑛子は笑った。
その微笑みは、宏人に在りし日の記憶を思い出させた。
まだ素直に瑛子のことが好きだったときのことである。
しかし、あれから時は経ったのだった。
随分遠くまで来てしまった。
後ろを振り返ろうとしたら、隣に志保の姿がある。
やれやれと首を振った宏人は、しかし、この状態がそれほど嫌なものではないことは認めざるを得ないのだった。