第262話:紬、怜のあとをつける
現実は、少女マンガのようにうまくはいかないものだ、と紬はしみじみ考えた。
晩秋の公園である。
休日の午前中勉強して屈託した体をほぐすために散歩に出たのだった。
友達には遊びに行くことも誘われていたのだけれど、そんな気にはなれなかった。
彼女の胸には一人の男の子の姿がある。
そうして、その子のことを考えると、
――何とかタイムリープできないかなあ……。
と道端に季節外れのラベンダーでも咲いていないか探してみるのだった。
5年前に戻りたい。
小学4年生の時に。
そうして、その頃の彼とまた語り合いたかった。
その頃は、彼と語り合うチャンスがふんだんにあった。
なんなら、もしかしてもしかしたら、付き合うことだってできたかもしれなかった。
しかし、4年生のときは、彼の価値が分からなかったのである。
その時の自分のことを紬はひっぱたいてやりたかった。
――でもなあ……。
仮に今タイムリープして、その頃の自分に会って引っぱたいたとしても、彼女は彼の価値を理解しないだろう。そればかりか、なんで叩いたりするのかと、こちらに敵愾心を持つに違いない。そういう分からずやなのである。そうして、とりもなおさずその分からんちんは自分自身なわけで。
――なんて、バカだった、わたし……。
紬は、銀杏の木の前に立った。
見事に黄葉したその木の美しさは、しかし、紬の心を慰めなかった。美しいものを見ても心が動かないということは、美しく生きていないということではないだろうか。あるいは、そうかもしれない。過去にとらわれてぐずぐずとする心が美しいとは思われない。
――でもなあ……。
とらわれてしまうのである。どうしても。これをどうにかしないといけない。彼に対するこの気持ちを何とか処理しなくては、一歩も先に進めないような気がしていた。そもそもこの気持ちが何なのか、それすら、紬にはよく分からなかった。
恋なのだろうか。でも、恋とはどんなものかしら。一度もしたことがないので、分からなかった。
紬は中学校に入ったあと、あるいは入る前から、何度か告白されたことがある。
「付き合ってほしい」
と。しかし、付き合うということが、一緒に話をしたり、一緒に行動したりということを指すのであれば、告白してきた彼らとそうしたいとはどうしても思えないのだった。
――こうなったら、突撃するしかない!
紬は覚悟を決めた。
当たって砕けろである。
しかし、ただ当たろうとしても、闘牛よろしくひらりとかわされてしまう。それではダメだ。では、どうすればいいか。そこで紬は考えた。
――家に押しかけるしかない!
直接家に行けば、門前払いを食らわせられることもないだろう。それは想像ができない。仮にそうなったら、もうそれはそこまでの話だった。いったん家に入れればしめたもので、学校より深い話ができるに違いない。
よし、と決めた紬は、しかし加藤くんの家を知らなかった。なにせ行ったことがない。小学校のときも彼の家に遊びに行ったことは無かった。そもそもそんな必要性を感じなかった。
――友達だと思っていたら家に遊びに行くくらいしなよ。
と昔の自分に突っ込んでみても、やはりどうしようもない。
加藤くんと今付き合いがある人に訊くのが筋だろうが、それは憚られた。どうして家の場所など訊くのかと不審に思われるだけだろうし、わけを訊かれたとしても、この恋心だか何だか分からない気持ちについて話すわけにもいかない。
だとしたらどうすればいいか。加藤くんの後をつけるしかない。不倫調査をする探偵よろしく、尾行するのである。学校から帰る彼を追いかけて、家を明らかにする。クラスも部活動も同じであるので、彼が一人で帰る時を見計らうのはそれほど難しいことではないだろう。後は、ストーキングがうまく行くかどうかだが、紬は、これまで何でも人並みにはやってきたので、尾行もそれ相応にはできるだろうと思いみなした。加藤くんが人並み以上に注意深かったら失敗するだろうが、その時はその時でしょうがない。
チャンスはすぐにやってきた。
尾行を決めた日から二日目の放課後である。
加藤くんは部活動を華麗にスルーして帰るようだった。しかも、今日は隣にカノジョの姿も無い。一人きりで帰るようだ。その後ろを、一定の距離を保ちながら紬は歩き始めた。慎重に。
3分ほど経ったときに、
――わたし、一体何しているんだろう……。
という思いにとらわれた。彼が現に一人でいるのだとしたら、話しかければいいではないか。速足で歩いて追いついて後ろから肩を叩いて、「加藤くん」と笑みを向ける。そこから、始まるステキな会話の時間。彼はきっと、わたしの家までわたしのことを送って行ってくれるだろう。昔、そんなことをしてくれたことがあったことを、紬は唐突に思い出した。
――いや……。
現実を見なければならない。あるいは、そんなことをして、彼が一緒に歩いてくれたとして、それは儀礼以上の意味を持たない。それでは、嫌なのである。もう少し、彼の本心に触れたい。そのためにはこうするしかないのだ。一度始めたストーキング、最後まで実施しなければならない。毒を食らわば皿まで。
紬は、戦国時代の悪党もかくやと思われるようなことを考えながら、遠目に加藤くんの背中を追い続けた。彼は寄り道をするでもなく、道沿いでとどまることもなく、まっすぐに家に帰るようだった。
10分ほど後をつけたところで、紬は足を止めた。
やはりこれはどう考えてもアウトな行為だということに気が付いたのである。
これで家を突き止めたからといって、どうするのか。
家に入れてもらって話をする?
こんなストーキング女に話してもらうことなど何もないではないか。
それに気が付いた紬は加藤くんの背が遠ざかるのを見た。
その影が曲がり角へと消えたときに、紬は踵を返した。
帰路を取りながら、もう一度加藤くんに対する思いを考えてみる。
すると、やはりただ心を開いて話がしたいという気持ちしかない。
これが恋なのか愛なのか、そんなことは、どうでもいいことだった。
自分以外の誰かが好きに呼べばいい。
加藤くんともう一度親しく語り合うことができたら、一年分のお小遣いをストップされても構わない。
それくらいの気持ちである。
――うーん……それくらいの気持ちでしかないのか。
「命を捨ててもいい」とは言えないところに、紬の想いの限界があった。いや、でも、命までは無理である。それこそ、真面目に惚れている場合ではないと。しかし、だとしたら、そのくらいの気持ちでしかないとしたら、別に話す必要も無いのではないか。そんな気もしてくるのだった。話して得られたものが、一年分のお小遣い分の真理的なものだとしたら、それはそれでもちろん嬉しいけれど、それだけのことだとも言える。
家に帰ると、
「本当の本当に、波多野くんと会う気ないの、ツムギ?」
友達からメッセージが来た。
「無いよ。好かれているって聞かれたら、よっぽど会ってもしょうがないじゃん」
「本当の本当の本当に? めちゃくちゃイケメンになってるんだよ?」
「イケメンよりフツメン好きだって、言わなかったっけ?」
「フツメン好きなんて、そんな子いるわけないでしょ」
それがいるんだな、ここに。
「とにかく、わたしは会う気は無いから」
「すごく会いたいって言ってきてるんだよ」
「逆効果だよ」
ん?
そこで紬は自分のことを省みた。加藤くんへの対し方は逆効果を生むのか。あるいは、そうかもしれない。しかし、そもそもアプローチしなければ、逆効果にさえならないわけである。自分は加藤くんにアピールしているのだろうか。微妙にしているけれど、はっきりとはしていないと思う。いずれにしても効果が無いことに変わりはない。強くすれば逆効果、しなければ効果が無いとしたら、どうなるのか。がんじがらめである。一体、世の人々はどうやってカップルになっているのだろうか。好きな人同士がくっつく。これは、ほとんど奇跡的な確率ではなかろうか。
「じゃあさ、わたしが波多野くんに会ってもいい?」
「え?」
「わたし、波多野くんのこと好きになったかも」
なるほど、紬は、彼女のことを見直した。彼女は、波多野くんの恋を応援している立場などではなく、波多野くんに恋している立ち位置だったのだ。傍観者ではなくゲームに参戦したいと思っていたのだ。それで、紬に探りを入れていたのだった。
なんだこいつ、と思うとともに、紬の頭に、
「恋と戦争においてはあらゆる方策が許される」
という言葉が素早く浮かんできた。恋が戦争と同じなのだとしたら、ライバルになりうるかもしれない者に対して探りを入れるなどというのは、初歩中の初歩の戦略であって、なんら責められるものではない。なんだったら、それをしないことの方が責められてしかるべきというくらいのものである。
「わたしに遠慮しなくていいよ。わたし、本当に波多野くんには興味ないから」
「じゃあ、応援してくれる?」
「心の中だけでいいならね。何かすることは期待しないで。わたしも自分のことで手いっぱいだから」
「冷たくない?」
「いい人ぶる余裕が無いの」
友人との心温まるメッセージのやり取りを終えた紬は、リビングのソファにごろんと横になった。行儀が悪いわよ、と叱る母の言葉を聞き流して、やはり加藤くんへのストーキングを完遂するべきだったかと考えてみる。しかし、すぐに心の中で首を横に振った。恋と戦争が同じだとしたら、この気持ちは恋でなくていい。そんな殺伐とした気持ちであってほしくない。
もしも昔の自分が加藤くんに対して、今の思いを抱いていたとしたら、後先考えずに突っ走っていたかもしれない。いや、かもしれないどころか、確実にしていただろう。それは、やはりどこか醜い。その上、喜劇的だった。それが分かるくらいには自分は成長したのだろうか。そうであってほしい。もしも成長したのだとしたら、この報われない気持ちを抱く意味が少しはあろうというものである。