第260話:歴史とは何か
部長の茶番を堪能したあとに、怜は視聴覚教室を出た。
「実りある部活動だったな。ああ、アホらしい」
と言って足早に先を進んだ岡本くんの意見に深く同意した怜は、窓外に夕闇が降りつつあるのを認めた。
今日が終わるのである。
ブルーマンデーはそれなりの一日になっただろうか。
朝、家を出るときは憂鬱だったけれど、一日中そうだったわけでもないので、「なった」ということにしておいてもよかった。
それに結局は、自分の意志次第というところがあるのではないか。
生まれてきたことに感謝を捧げれば、どんな日だっていい日になる理屈である。
怜は試みに、生まれてきたことに感謝しようとしてみた。
何ごとも挑戦である。
ボクを生んでくれてありがとうお母さん、と母に感謝してみる。
すると、やはり生まれてこなかった方がよかったような気がするのだった。
まあ、やむを得ない。
挑戦したことは必ずしも成功するわけではないのである。
そんなことを考えるでもなく思いつつ生徒用玄関に着くと、怜は目を疑った。
下駄箱の先に、環がいるではないか。
靴を履き替えてから、彼女の元に寄ると、
「キグウですね」
いつもの微笑が怜に与えられた。
偶然のわけが無い。
彼女はすでに部活を引退しているのだから、部活動をしてきた怜とかちあうわけがないのである。
「こんな時間まで何をしていたんだ?」
「特に何をしていたというわけでもないかな。教室で、教科書とたわむれていました」
「うらやましいな。オレなら、格闘する相手だ」
「レイくんの隣を歩く許可をいただけますか?」
「やらなかったらどうなる?」
「悲しい気持ちになる。そうして、『隣を歩かせないなら、後ろに気を付けてね』って警告するわ」
スナイパーの標的のような思いをしたくない怜は彼女に許可を与えた。
「悪かったな。部長に、『加藤くんがいないと部が立ち行かないからどうしても来てほしい!』って懇願されてさ」
「本当は?」
「数合わせ」
怜は環を隣にして歩き出した。
秋の日はすでに暮れかけていた。
一日が終わる。
先ほど考えたことだけれど、今はその考えがもう一歩推し進められた。
すなわち、一日が終わり、また一日が終わり、そうして、いつの間にか人生も終わっていくのだろうか、と思ったのである。
そんなことを前にも考えたような気がした。
しかし、一度考えたからといって、もう一度考えて悪いということもないだろう。
そうして、いつの間にか人生が終わっても、それでもいいのではないかとも思った。
もともと生まれてきたことが何かの間違いのようなものなのである。
だとしたら、それが終わったとしても、何を惜しまなくてもいい理屈だった。
「何か分かったことがあるなら、わたしにも教えてほしいんですけれど」
「オレがタマキに教えられることなんて何もないよ」
「いっぱいあると思うわ」
「たとえば?」
「歴史について」
「歴史?」
「そう」
「どういうことだよ」
「今朝テレビで見たの。どこかの遺跡で発掘調査が始まったんだって。新しい歴史的事実が分かるかもしれないってことだったんだけど、もしも、それで新しい事実が分かって、それが歴史を塗り替えたとしたら、わたしたちが今習っている歴史っていうのはどういうことになるんだろう。今習っているのは間違っていた嘘の歴史だったってことになるのかな。でも、その場合、歴史が間違っているっていうのはどういうことなんだろうって。だって、歴史を歴史だと認識したのって人間なわけでしょう?」
「朝からそんなこと考えてたのか?」
「ちょっと思っただけ」
「歴史が人間が作った物語なんだとしたら、正しいも間違っているもないよなあ」
「歴史って、科学的な事実とはちょっと違う気がする。天動説が間違っていて実は地動説だったんだということとは違う気がするのよ。その場合は、『あっ、本当は太陽じゃなくて地球が動いていたんだ』って納得することができるけど、歴史が間違っていたっていうのはどういうことなんだろう。そもそも、わたしたちは何を信じていたんだろう」
「歴史っていうのは、死んだ子を思う母親の悲しみだって言った人がいたな」
環は一瞬足を止めた。
怜も同じように足を止める。
すぐに彼女が歩き出したので、怜もその隣に続いた。
「そういうことなの?」
「そういうことなんじゃないかな。死んだ子がどうして死んだのか、その死因が調査によって明らかになったところで、その分だけ母親の悲しみが消えるわけじゃない。かつてあったものが、そうして、それとともにあることができたものが、今はもうない。そのことに向けた悲しみが歴史なんじゃないかな」
「ほら」
「ん?」
「やっぱり、知ってたでしょ」
「タマキの問いに答えられたとは思えないけどなあ」
「答えられないっていうことが答えになるってことはあると思うよ。つまり、歴史が正しいとか間違っているとかっていうことは、実はどうでもいいっていうことでしょう?」
「どうでもよくはないんだろうけど、邪馬台国の位置が特定されたところで、かつてそういうような国があった、あるいはあったと思われるっていうことの不思議が解消されるわけじゃない。歴史を学ぶ意味があるとしたら、そういう不思議を感じることができるっていうそのことなんじゃないかな」
「だから、レイくんは『歴史』の勉強が苦手だっていうこと?」
「その通り。西暦何年に何が起こって、それが何かの原因になってなんていうのをひたすら覚えるっていうのは、何をやらされているのかさっぱり分からない。歴史という神秘をやっきになって殺そうとしているように見える。オレはそんな殺伐としたことには加わりたくない。だから、社会の歴史パートは点数が取れない」
「でも、取らないと社会全体のスコアが上がらない」
「なんていう非人間的なシステムなんだ。今度は、こっちからタマキに質問がある。どうして、こういう非人間的なシステムがまかり通っているのか」
「世の中がそもそも非人間的にできているからじゃないかな」
「でも、世の中は人間の集まりじゃないか。人間が集まってどうして人間じゃないものが作られるんだよ」
「人はそれぞれ違うでしょう。何を人間的というかは、究極的には個人個人によって違ってくる。それを全部取り入れるわけにはいかないから、結局は非人間的なものにならざるを得ないんだと思う」
「絶望するよ」
「早めに絶望することって重要なことじゃないかな」
「というと?」
「人間は生きていくでしょう。その生きていった果てに何がある?」
「死だな」
「普通、死の間際に人間は絶望する」
「まあ、そうかもな」
「だとしたら、あらかじめ絶望しておいた方がいいんじゃないかな」
「オレはその『あらかじめ』っていう考え方を疑っているんだ。何でもかんでも先んじればいいというものではないんじゃないか」
「うーん、それもその通りかもしれないけど、こと絶望に関しては、早ければ早いほどいいような気がする。だって、死の間近になって、『あ、わたしも死ぬんだ』って思ってゾッとするのは、やっぱりなんか滑稽な気がするもん。そう、『滑稽』っていう言葉がぴったり」
それは確かにそうかもしれなかった。生きているのに死について考えないというのは、ババ抜きをしているのにババの行方を探さないのと同じくらい間違っていることだろう。
「でも、世の中にはそういう滑稽な喜劇を描いた作品が多い。『余命〇年の△』みたいな」
「レイくんって、結構、執念深い?」
「そうでもないと思うけど」
「以前に一緒に見た映画のことを言っているんでしょう」
「それは邪推だよ」
「あれは別にわたしが推したわけじゃないからね。話題の映画だったから見ただけなんだから。そうして、話題の映画っていうものはもうこれから絶対に見ないっていうことを、わたしたちは厳かに誓った。そうだったよね?」
「厳か? なんか、そのときもこっちを見て笑っていたような気がするぞ、タマキは」
怜は今も笑っている環を見た。こちらを見るときの、そうして、こちらから見るときの彼女がいつも笑っているということは、おそらくは何か面白いものをこちらが提供できているということだろう。この絶望的な世の中にあって、価値があるものは、美しいものと面白いものである。怜は、面白担当になることにした。
やがて環の家について、二人の間に別れの時がやってきた。
「和歌を詠む時間待っていてもいいですよ」
「和歌は別れてからあとに贈るもんじゃないのか」
「じゃあ、そういうことにしましょうか」
「でも、和歌は荷が重い。ただのメッセージでいいかな」
「まけてあげます」
「ありがとう。あれ、でも確か、タマキ、今夜の11時に電話してくるって言ってなかったっけ?」
「しますよ。でも、それはそれですから」
「なるほど」
「何か問題でも?」
「ノープロブレム」
「よかった。じゃあ、これで」
「ああ」
「本当に行くよ? 門を抜けて、玄関から家に入る」
「そうだな」
「『そうだな』? ステキな別れの言葉ありがとうございます」
「じゃあ、夢で会おう」
「ちなみに昨日見た夢はどんなのだったの?」
「免許を持っていないのに車を運転していて、免許を持っていないことにひたすら焦るだけの夢」
「その夢の中で会うとしたら、わたしは助手席に乗って、ひたすら騒ぐだけってことになるけど」
「助手席ならまだマシなんじゃないか。オレの車の進行方向にいない分だけ」
「わたしに何か不満があるならきちんと聞いておきたいんですけど」
「不満なんて何もない」
「強いて言えば?」
「強いて言っても何も出てこない。キミみたいな完璧な人は見たことも無ければ、これから先見ることも無いと思う」
「とりあえず、今日のところは別れの挨拶はそれで合格にします。でも、次の合格ラインは上がるからね」
「了解」
怜は門前で環と別れてからしばらく歩き、曲がり角のところで振り返ってみた。
門の前にまだ彼女は立っていた。
夕闇の下で、環はまた微笑んだ気がした。