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プラトニクス  作者: coach
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第26話:追憶の夜、再生の闇

 夕食と入浴を済ませ、学校と通っている塾の宿題を終えると、鈴音はその身をベッドに横たえた。近くにあった目覚まし時計を手に取ると、もう十一時である。ここから一時間は彼女のリラックスタイム。音楽を聞いたり、本を読んだり、携帯でメールしたりして時を過ごす。しかし、今日は違った。それよりも彼女の心を占めるものがある。鈴音は自分の手をじっと見つめた。その手に触れた頬の感触がまだ残っているような気がした。

 別れ際に、怜に、どうしてあんなことをしたのか、自分でも分からない。その傷ついた背を見たときに、なぜだか無性に頭を撫でてやりたくなった。あなたは何も悪くない、ということをはっきりと教えてやりたかったのだ。さすがに頭は撫でられなかったので、言葉をかけるプラスアルファにとどめたが。

 今日、怜に会いに来た男子には見覚えがあった。実の所、彼のことを知らない女子は学校にいないだろう。宮田翼。校内の有名人リストのトップクラスに位置する男子である。甘いルックスを持ちサッカー部のレギュラーとして活躍している彼はかなりの人気者だった。彼が怜を殴った理由として考えられることは一つしかない。環がらみである。環のことが好きだというのはもっぱらの噂だった。昨年学校に行っていた期間にも聞いたことがあったし、学校に再び行き始めたここ二週間でも聞くことができていた。彼が怜に環の件で会いに来て、そして暴力的な行為に出たとしたら、それはすなわち鈴音の責任であるということだ。

――責任を感じて、あんなことしたのかな?

 何かが違う気がした。確かに責任は感じていた。それに対して謝罪できないことにも。謝ることはできなかった。今回の件を自分の責任だとして謝る行為は容易いが、それはこれまで怜がしてくれたことを否定することを意味しているからである。謝罪の気持ちの代わりに、別れ際の行為に及んだのか。

 鈴音は首を捻った。借りを返したかったのかもしれない。怜には借りがある。不登校期間を終焉に導いたのは紛れもない、怜の力だった。彼は絶対に認めないだろうが、間違い無い。あるいは、あの時彼が来なくても、いつかは行くようになっていたのかもしれない。しかし、そんな「もしも」は存在しないのだ。起こったことが全てであり、鈴音はそれを認められるほどには現実的だった。怜には大きな借りを作ってしまった。その借りを返したかったのだろうか。

 それも違う気がした。確かに借りは返すつもりだが、そういう気持ちがあったわけではない。では、一体なぜだろう。さっぱり分からない。何の目的も打算もなく、純粋に人に何かをしてあげたいという気持ちになったのは初めてだった。この気持ちを何と呼ぼう。鈴音は考えるのをやめた。既存の言葉で、この気持ちに名前をつけたくない。これは彼女だけの気持ち。神聖な何かである。

 鈴音は喉の奥を鳴らした。押さえきれない笑いが少女の口元から漏れる。

 こちらの話はそれでいいが、おそらく怜にとっては余計なお節介だっただろう。強い人である。他人の干渉など、彼には邪魔でしかないのかもしれない。しかし、その邪魔でさえ、彼なら上手に取り扱いそうな気がした。

――でも、タマキに悪かったかな。

 友人のカレシに対して少しなれなれしかったかもしれない、と鈴音は反省した。環はいつものように笑って許してくれるだろうか。他のことならともかく、こと怜のことになれば、それはどうだか怪しい。今日のことは胸に秘めておいた方が良さそうである。思わず鈴音は、にが笑いを浮かべた。これでは本当に隠れて付き合ってるみたいだ。

 鈴音は、自分の手から目を離し、窓外に視線を移した。夜に浮かぶ星が点々と光を発していた。

――何を考えてるの?

 友の声が耳にこだました。

 その声の響きが消えるまでの間に、鈴音は過去へと誘われていた。

 隣に少女がいる。大人びた微笑を浮かべてこちらを見ながら、

「何を考えてるの、スズちゃん?」

 その音楽的な声で訊いてきた。

「永遠」

 鈴音は短く答えたあと、

「ねえ、タマちゃん。この世に永遠のものってあると思う?」

 逆に尋ねた。

 満天の星の下だった。鈴音の家の三階にあるバルコニーに二人はいた。

 問われた彼女は答えなかった。突拍子もない問いに対して答えに窮したわけではないことは、鈴音には分かっていた。彼女は促していたのだ。

「わたしは無いんじゃないかって思うの。だって、この星々だって、何十億年なんて、そんな人間の作った言葉で滅んじゃうのよ。星でさえそうならさ……」

 鈴音が続けたが、彼女はまだ答えなかった。その沈黙は人を不安にさせるものではない。むしろ安心させるものである。言葉を受け止めて、どう答えようか考えを巡らしているのだった。

 彼女は静かに口を開いた。

「わたしはね、スズちゃん。あると思う、永遠が」

 今度は鈴音が促す番だった。

「だって、そうじゃないと悲しいじゃない。この世界が悲しいとこだなんて考えたくないな。永遠に続くものは確かにあって、でもそれはとても見つかりにくいところにあるって、そう考える方がわたしは好きだな。そうしてね、わたしがあるって思えばそれは確かにあるのよ」

 そう言って彼女は微笑んだ。その微笑みは、地上にあってなお星のように輝いていた。

「タマちゃんはさ、現実的なロマンチストだよね」

 鈴音が言うと、

「じゃあ、スズちゃんは夢を見たいと願っているリアリストね」

 そう彼女は返したあと、静かに付け加えた。

「でもね、スズちゃん。現実と夢は別のものじゃないよ」

「それは同じ一つの二つの面。決して交わらないけど、二つながら在るもの」

 鈴音は吟じるように言うと、破顔した。

「わたしさ、タマちゃんとだったら結婚してもいいな。うまくやってける自信がある」

「じゃあ、そうしましょうか?」

「本当?」

「ええ」

「可愛い彼女はウソをつく」

「あら、バレた?」

 彼女は舌を出した。

「ごめんね、好きな人がいるから、わたし」

「例の、カレ?」

「うん」

「どんな人なの?」

「変な人よ。スズちゃんと同じくらい」

「タマちゃんと同じくらい?」

 そうして二人は顔を見合わせて笑った。ひとしきりの笑いがおさまると、

「スズちゃん、今、幸せ?」

 と静かな声がした。鈴音は空を見た。

「そんな気になることもあるかな。星空が優しく瞬いている時、微風が頬をくすぐる時、雨音が心地よく耳に鳴る時……そして……」

「自分の顔を鏡で見る時?」

 冗談を言う彼女の方を見ずに、鈴音は穏やかに首を横に振った。

「友が傍にいる時よ」

 友人の少女は口を閉じた。しばらく間があって、

「……そろそろ帰るね、スズちゃん」

 と彼女は口を開いて、座っていた布張りの簡素な椅子から立ち上がった。鈴音も立ち上がりながら、母親に送らせる旨を告げた。

「ありがとう」

「それはこっちのセリフ。母子ともどもお世話になります」

「それは言わない約束よ」

 階下に下る階段で鈴音が前を歩く少女に言う。

「告白しちゃったらいいんじゃない?」

「タイミングの問題なの」

「それと勇気でしょ」

「よく分かってるね。さすが」

「タマちゃんに告られたら誰だってOKすると思うけどな」

「世界はスズちゃんが考えているよりずっと広いのよ」

「大丈夫だって、わたしの次くらいに可愛いから」

「あら、小五の時のホワイトデーで私のほうがたくさんお返しもらったこと、もう忘れたの?」

「あれはズルでしょ。タマちゃん、一組から三組までの男子全員にバレンタインチョコ渡すんだもんな」

「戦略と言ってよ。自分のクラスの男子だけにしか渡しちゃいけないってルールなんかなかったでしょ」

 リビングにいた母を呼び、友達を家まで送ってもらいたいことを告げる。二人が玄関から消え、鈴音は一人になった。おそらく彼女は、車の中で今度は不登校の娘を持つ母の相手をしてくれるだろう。上手にストレスを和らげてくれるに違いない。

 彼女は闇だった。恐怖を誘う闇ではない。全てがそこから生まれる始まりとしての闇である。彼女はいつも鈴音を包んでくれる。優しい子だった。その優しい腕の中に包まれていると、そのままそうしていたいという強烈な欲求にとらわれる。それは不健康なことである。だが、人間、健康でだけいられるわけではない。不健康な状態を知るからこそ、健康の有りがたみが分かるのだ。

 鈴音は友人に感謝した。

 素直に感謝できる友がいることがただ嬉しかった。

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