第259話:人は一人では生きられないという事実
文化研究部という部活は、活動目的の範囲が広すぎて、ジャムの法則に従って目的を絞り込めず結局何も行わないで終わるということがよくあった。今日もそういう日になるであろうことを、怜は視聴覚教室に入ってから3分で何となく察知した。部室に漂う弛緩した雰囲気。今日は来ても意味ない日である。そもそも来て意味がある日がこれまであったのかどうか、そこからして疑問である。
怜は教室の前の方の席に座って英単語帳を読み始めた。
集まった部員は怜と部長を含めてたった四人だった。
これは詐欺ではないか、と怜は思った。
当然、みんな勢ぞろいしていると思っていたのに。
「今日はたまたまみんな忙しいみたいなのよ」
怜の無言の抗議の声を聞き取ったのか、しかし、部長は悪びれもしなかった。
「ちゃんとみんなからお休みの連絡はもらっています」
怜は部長がなぜ自分を迎えに来たのかを理解した。
「わたしも忙しかったんですけどねー」
唯一の二年生部員である坂木蒼がティーン向けのファッション雑誌なぞペラペラめくりながら適当な声を出した。
「じゃあ、どうして来てくれたの?」
「もしも部長一人だけだったら、寂しくてベランダから身投げしちゃうかもしれないと思ったからです。さすがに寝覚めが悪いですからね。でも、そうしたら、加藤先輩と岡本先輩がいたじゃありませんか、やれやれ」
「いたら悪いのか?」
ウルフヘアの凛々しい岡本くんがすかさず言うと、
「わたしが来た意味ないじゃないですか。返してください、わたしが来た意味」
蒼が答えた。
「来た意味を返すっていうことの意味が分からん」
「ノリで言っているだけですから」
「やることが無いならオレはもう帰るぞ」
岡本くんが言った。
怜は、もっと言ってやれ、と心の中でエールを送った。
「ちょっと待ってよ。せっかく来てくれたのに、何もやらせないで帰すなんて、部長としての沽券に関わるじゃん」
「お前の沽券なんて知らねーよ。こっちは受験生なんだからな」
そう言って席から立ち上がる素振りを見せる岡本くんに、
「分かった。じゃあ、今すぐ決めるから、やるべきこと、ハイ、今決まった!」
部長は慌てて言った。
岡本くんは再び席に腰を下ろした。
怜は英単語帳から目を上げなかった。
えーっと……wholeは「丸ごとの」という意味で、発音注意。wは読まないから、結局は「穴」のholeと発音が同じ。ホールケーキのホール。
「そろそろ次の部長を決めなくてはいけません」
部長の厳かな声が響いた。
怜はうなずくだけはうなずいていおいた。そのくらいはサービスしても構わない。
部長が誰になるとしても自分にとっては関係がない話であり、しかも、誰になるとしてもと言ったところで、この部に二年生は一人しかないのである。だとしたら、次期部長はもう決まっているようなものだった。
「今日はその話をすることにします」
部長の目が、自分以外のもう一人の少女に注がれた。
「アオイちゃん、お願いできるわね」
「嫌です」
「ありがとう。これでわたしの肩の荷も下りるわ。これまで2年間頑張ってきた苦労が……ん?」
「『嫌』って言ったんですけど。やりたくありません、部長なんて」
蒼は、はっきりと言った。
満座は静寂に包まれたが、もともとしゃべっていたのは部長だけだったので、それほど音量が下がったというわけでもなかった。
「アオイちゃん。また何かの冗談だよね」
「いえ、冗談じゃないです。マジでやりたくないです。『本気』と書いてマジです。『死ぬほど』と書いてもいいくらいです」
部長はがっくりと肩を落とした。
「円ちゃんでいいんじゃないですか。いずれはマドカちゃんになるんだし。だったら、わたしを挟まなくてもいいじゃないですか」
蒼は、自分に押し付けられそうになった責任を華麗に1年生部員に転換しようとした。
「……情けない」
杏子は声を震わせた。
「こんな時にもなってそんなことを言うなんて!」
「やりたくないものを『やりたくない』と言って何が悪いんですか?」
「『やりたくない』で通る世の中じゃないのよ!」
「通る世の中じゃないからこそ、通そうとする努力が必要なんじゃないですか」
「分かった。じゃあ、アオイちゃんは努力したわけね」
「そうですね」
「努力は無駄だったわ。アオイちゃんは次の部長になる。異論は認めない」
「それ横暴じゃないですか」
「何が横暴よ。次期部長を決めるのは、現部長の特権でしょ」
「決めるのはいいですよ。でも、それを受けるかどうかは、こっちの話じゃないんですか?」
「アオイちゃん……本当に部長になりたくないの?」
「部長なんてただただ面倒くさいだけじゃないですか。先輩は部長になってなんかいいことありましたか?」
「あったわよ、モチロン」
「たとえば?」
「たとえば……」
そこで、杏子はこれまでの何やかやを思い出そうとしているようなそんな顔をした。そうして、
「色々あったけれど、ここでは簡単には語れないわ」
というまとめ方をした。
「何にもなかったんじゃないですか?」
「そんなことないわよ!」
「じゃあ、なんか挙げてくださいよ」
「うーん…………加藤くん!」
怜はいきなり自分の名前が呼ばれたのでびっくりした。
「どうした?」
「教えてあげて、部長の魅力!」
「やったこともないのに、分かるわけないだろう」
「何となく想像できることあるでしょ。はたから見ていればこそ分かることが」
「……責任感を持てるとか?」
「そう! それよ!」
杏子は、怜に向かって、犯人はお前だと言わんばかりに指を差した。
「部員の面倒を見ることで責任感を持つことができるのよ!」
しかし、蒼は特に感動した様子でもないようである。
「それだけですか?」
「一つあれば十分でしょ。大きすぎる欲望は身を滅ぼす元よ」
「わたし、責任感とか持ちたくないんですけど。誰かに持ってもらいたいです」
「そういうわけにはいかないでしょ。わたしたちはそれぞれが自立した一個の人間なんだから」
「それって、西洋的な価値観じゃないですか。なんでそんなのにわたしたち日本人が従わなくちゃいけないんですか」
「なら、アオイちゃんは、自立は必要無いって言うの?」
「だって、事実として人間は自立なんてしてないじゃないですか。わたしたちは、誰一人、一人きりじゃ生きられないんですよ。それとも、先輩は、一人きりでも生きていけるって言うんですか? 無人島で暮らしたいですか?」
「……別にそんなことは言ってないけれど。無人島は嫌」
「だったら、自立自立なんて言わないでくださいよ」
「とにかく!」
杏子は旗色が悪くなったと思ったのか、強引に話をそこで遮った。これに関しては、彼女を責めるわけにもいかないだろう、と怜は思った。実質的に二年生がやるしかないのなら、一人しかいない蒼がやるほかないのである。どう頑張ってもその結論は変わらない。
それは分かっているのか、蒼はふてくされたような声を出した。
「あーあ、分かりましたよ。もういいですよ。面倒だから。やりますよ、これでいいんでしょ?」
「そういう言い方ないでしょ、アオイちゃん!」
「言い方なんてどうでもいいじゃないですか。やるって言ってるんだから」
「ダメ!」
杏子は、バンと教卓を叩いた。
「部長の引継ぎなんだよ、もっとこう感動的じゃないと!」
「さすがにそこまでは強要しないでくださいよ」
確かにそれは蒼が正しいと怜は思った。
感動しろだなんてことを要求されたら、それはたまったものではない。
「わたしにもアオイちゃんにもこみ上げるものがあって、それを抑えながらの感動劇じゃないとダメなの!」
「こみ上げるものって……まあ、若干、吐き気はしていますけど」
「そういうことじゃない!」
怜は、二人のやり取りを聞いていた。聞かざるを得ない。耳をふさがない限りは。岡本くんは、ほとんど聞いていないようだった。多少は聞こえるかもしれないが、聞こえていないふりをしている。
「この部長引継ぎ劇は、わたしが前部長から部長を拝命してきたときから、実に2年近くの間、温めてきたんだから、絶対に、アオイちゃんにはそれを演じてもらうからね!」
「ちょ、ちょっと、目こわっ! 重大犯罪人みたいな目してますよ、先輩!」
「そんな目はしてないわ!」
「血走ってる、めちゃくちゃ、血走ってますって!」
「そんな目をされるのが嫌だったら、わたしの劇を演じてもらうわよ、アオイちゃん!」
「どんだけ劇が好きなんですか、この前も文化祭で劇をやったばかりじゃないですか」
「そんなことはどうでもいい! とにかく、感動のシーン行くわよ!」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。今日、引き継ぐんですか?」
「そうよ」
「だったら、明日から、部長はもう部活には来ないですよね」
「…………ん?」
「だって、引き継ぐってことは引退するってことでしょ。だったら、もう部室には来ないってことですよね。部長はもう部活動もしない」
そこで、怜の耳が立った。もしもそんなことになったら、今日のように無理やり部室に連れ込まれることもないわけだ。部長が引退するんなら部員も引退するのが筋である。部活動は無くなる。何と素晴らしいことだろうか。
「べ、別に引き継いだからって来ちゃいけないわけじゃないでしょ」
「あ、あれですね。なんかこう引退した先輩が部に顔を出して、部員に幅を利かせる醜いパターンですね」
部長は言葉に詰まったようである。
「さあ、じゃあ、引き継ぎやりましょうか。部長は明日からは、来なくてもいいんですね」
蒼は続けた。
いいとも、と怜は心の中で答えたが、杏子は答えなかった。
その代わりに、くるりと蒼に背を向けると、
「まあ、今日いきなりってことにしなくてもいいかもね。アオイちゃんにも心の準備がいるでしょうから」
と言った。
「できていますよ、心の準備、今覚悟しました」
「できてないよ、きっと、うん」
「できましたって」
「できてないの!」
部長は強引に話を打ち切ると、
「赤壁の戦いの話をします!」
と部活動と何の関係も無い得意の三国志に話題を移したのだった。