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プラトニクス  作者: coach
258/281

第258話:部長自らのお誘い

 その日は担任の男性教師の機嫌があまりよくなかった。いつもより態度が横柄で口調がキツい。しかし、このご時世、黒板を殴ったり、生徒の机を蹴飛ばしたりしないのならば、許容範囲だろう。そもそもが、30人以上の、人よりはまだ多分に猿に近いような何が何だか分からないものを相手にしているのだ。そうそう、機嫌よくはいられない。多分に同情すべき余地がある。教師だって普通の人間である。彼らが聖職者だという話は、(レイ)は全く信じていなかった。

「先生、何か嫌なことでもあったのかな」

 給食のあと、昼休みに、芦谷(ツムギ)に話しかけられた。

「あったのかもしれないな。奥さんと喧嘩したとか」

「それをこっちにぶつけないでほしいよね」

「まあ、しょうがない。そういうこともある。公私を分けられる人間はほとんどいない」

「というか、公私なんていう区別はもともと存在しない?」

「そうかもしれない」

「でも、前の学校の先生は本当にいい先生で、是々非々(ぜぜひひ)で対応してくれてたよ」

「そういう教師に生涯で一人でも会えたということは幸運なことだな」

「小学4年生のときの先生もいい先生だったと思うけど」

「覚えが無い」

「わたしに何か隠していることがあるでしょう。加藤くん」

「いっぱいある。昨日、右足の小指の爪が割れた。何かした覚えもないのに。あと、手の肌が少し荒れてきている。たまに頭も痛む」

「病気なの?」

「あるいはな」

「そういうことを聞きたかったんじゃないけど、大丈夫なの?」

「なにが?」

「体調」

「そう言われても、オレにはよく分からない。自分の体のことは自分が一番よく知っているという話をどっかで聞いた覚えがあるが、あれは嘘だな。自分の体のことなんて自分では全く分からない。少なくともオレはそうだ」

「病院で見てもらった方がいいんじゃないの?」

「いや、興味ないな」

「興味の問題じゃないと思うけどなあ」

「人間、死ぬまでは生きているっていうことには違いない。だから、体調がどうであってもそんなに大騒ぎすることはない」

「大事なことだと思うけど」

「あ、そうそう、グリーンピースが嫌いだ」

「どうしたの? いきなり食べ物の話なんかして」

「いや、芦谷に隠していることがまだあったと思って」

「その調子で、A4の紙いっぱいに、加藤くんが隠していることを並べていってもらえる?」

「そんな時間は無い」

 紬は真正面から怜を見つめた。

「何かするなら混ぜてほしいの」

「悪いけど、次の機会にしてくれ」

「ダメ?」

「ダメだ」

「絶対に?」

「絶対に」

「分かった。了解。もう諦める」

 そう言うと紬は怜に背を向けて、自分の席へと戻った。

 怜は、こんなに熱望しているなら仲間に入れてあげてもいいのではないか、とは1ミリたりとも思わなかった。何事にも優先順位というものがあって、それを曲げて八方美人をやれば何も手に入らない。

 怜は机の中から取り出した英単語帳を開いた。昼休みにも勉強するこのオレを見るがいい、と誰にともなく心の中でアピールして遊んでいると、橋田鈴音(スズネ)がやってきた。

「タマちゃんに言いつけちゃおうかな」

「何を言いつける気か知らないが、後生だからやめてくれ」

「『後生だから』って初めて生で聞いた。もともとは、どういう意味?」

「言いつけるならついでにその時タマキに聞いてくれ。彼女は何でも知っている」

「でも、さっき美人と話していたことは知らない」

「今も美人と話している」

 鈴音は、じっと睨むふりをしてきた。

「そんなに見つめるのはやめてくれ。石化したら困る」

「わたしを何だと思っているのよ」

「それが分かったら新しい世界が開かれるよ」

「その世界がいい世界だといいわね。動物園はどうだった?」

「オレにはプライバシーは無いのか?」

「情報社会だから」

「いや、おかしいだろ。情報社会だからこそ、プライバシーの権利が認められないといけないはずだ」

「でも、情報社会って全てが情報になる社会のことでしょう?」

「なんだよ、そのファンタジー」

「それで?」

「別に普通だったよ。アルパカに唾を吐かれそうになり、犬に噛まれそうになり、ハクトウワシに目をつつかれそうになっただけだ。今度、一緒に行くか?」

「そんな危険なところに行きたくない」

「そりゃ残念」

「わたしはこの前クラシックのコンサートに行ってきたよ」

「優雅だな。コンサートなんて全然行ったことない。よく行くのか?」

「たまにね。父の仕事の得意先の人がよくチケットをくれるから」

「素朴に疑問なんだが、どうしてわざわざチケットを誰かにあげるんだろうな。自分では使わないものを誰かにあげるために買うっていうのは、なんかおかしくないか」

「別に何もおかしくない。だって、その人の会社がコンサートを後援しているから。後援者にはチケットは無料で配られる。無料で配られたものを父にプレゼントしてくれたわけ」

「なるほど。謎は全て解けた、ありがとう。事実は小説よりも奇ならず」

「お気になさらず」

 怜は鈴音の顔色を見た。血色はいいし、生気に満ちている。それを見ている自分自身はどうなのだろうかと考えてみた。そうして、自分の目が自分の顔を直接見ることができない構造になっていることに感謝した。

「そんなに見られると照れるわ。英単語帳に目を戻して」

「こんなの全然見たくない。捨てたっていいんだ」

「そういうわけにはいかないでしょ」

「やってみなければ何事も分からない。この本を教室のゴミ箱に捨てることができたら、どうする?」

「わたしがそれを拾って、加藤くんに返してあげる」

「なんでそんなことをするんだよ」

「現実に戻ってもらうためよ」

「夢の世界で暮らしたい」

「それはかなり難しいんじゃないかな。少なくとも単語を覚えるよりも難しい」

「分かった。単語帳に戻るよ。やむをえない」

「Good luck.」

「I will do my best.」

 単語を覚えた振りをして残りのお昼休み時間を過ごした後、怜は、2時限のお勤めを終えた。授業というのは学生のためにある。しかし、どうしてもやらされているものという感じがしてならないのだった。それで、「お勤め」という表現になるわけである。とにもかくにも、これでようやく学校から解放されると思って廊下に出た時に、目前に現れたのが我が栄えある文化研究部の部長である田辺杏子(アンコ)だったので、びっくりした。

「こんなところで何しているんだ?」

「加藤くんを迎えに来たのよ」

「オレを? どうして」

「この頃、部活を休んでいるでしょう。心配になって来てみたの」

「部長自ら?」

「劉備も自ら諸葛亮を迎えに行ったわ」

「三国志には詳しくないんだ」

「これが三国志だっていうことが分かるんだから大したものだと思うけど」

「体調は悪くないよ、ありがとう。じゃ、そういうことで」

「ちょ、ちょっと! どこ行くのよ、加藤くん!」

「どこって……授業が終わったんだから家に帰るに決まっているだろ。大丈夫、寄り道しないよ」

「そんなこと心配してないわ。言ったでしょ。迎えに来たって」

「迎えに来て、生徒用玄関まで送ってくれるんじゃないのか?」

「送るのは、視聴覚教室よ。部活に迎えに来たんだから」

「オレが受験生だってことは知っているよな、田辺?」

「当たり前でしょう。同学年なんだから」

「だったら、受験生同士、勉強にいそしもうじゃないか」

「受験生である前に、わたしたちは文化研究部の部員でもある。そうでしょ?」

 怜は聞こえよがしにため息をついた。

 杏子はスクエア型の眼鏡の奥にある瞳を鋭くした。

「勉強も大事だけど、わたしとの友情も大事。でしょ?」

「友情が評価される世界じゃないんだ、これから行こうとしているところは」

「そんなことない。だいたい友情さえあれば、この世の中どうにかなることになってるんだから」

「じゃあ、その友情は、オレが高校入試に落ちたらどう報いてくれるんだよ」

「加藤くんの肩にそっと手を置いて、『大丈夫、大学受験でリベンジさ!』って、もう一方の手で夕日に向かって指を向けてあげる」

「夕日って……試験に落ちたのに、日が落ちるさまを見せてどうするんだよ」

「おおっ、うまいね。じゃあ、行こうか」

 怜はこれ以上の議論の無意味を悟った。そうして、これはもうさっさと視聴覚教室に行って、他の部員にまぎれて受験勉強をした方が賢明だと考えた。環と一緒に帰る約束はしていたけれど、部活の場合は気にしないでいいとも言っていた。少し待って待ち人が来ないことを確認してから彼女は帰るだろう。怜は、心の中で環に詫びながら、お団子頭の後に続いた。

「田辺は学校生活を楽しくやっているのか?」

「どうしたの、急に?」

「友情を感じてもらっている割には、オレは田辺のことを何も知らないと思って」

「わたしのことを知りたいの?」

「視聴覚教室に着くまでに軽く説明してくれ」

「軽くって言われたらね、わたしにも色々あるよってことにしかならないわ」

「問題を抱えている?」

「誰だってそうでしょ」

「悩みを半分にできないなら二倍あればいいって歌った詩人がいたな」

「加藤くんはどうなの?」

「受験勉強をしたいのに、部活をやらされるっていう悩みがあるな」

「それ、わたしのことだよね。わたしのことを悩みの種だって思っているってこと?」

「まあ、そういうことだな」

「わたしたち、友達でしょ!?」

「いったいいつ田辺はオレに友情を感じたんだ。そう言えば、それを聞いたことが無かったな」

「いつって……まあ、いつの間にかって感じかな」

「きっかけがあるわけじゃないのか?」

「特には」

「それでよく友情について語れるよな」

「いけないの?」

「いけなくはないけど、おかしいとは思わないのか?」

「何もおかしくなんかないわ。友情を感じるのに、ドラマは必要ないのよ!」

 そうだろうか、と怜は思ったが、もう反論はしなかった。

 杏子とそれほど相互理解を深めたいと思っているわけでもないのだ。

 やがて、怜は視聴覚教室の扉を見た。

 この重たげな扉の中に入れば、もう逃げることはできないのだと覚悟した。

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