第257話:ブルーマンデーへの向かい方
新しい一週間が始まった。
始まってしまった。
ブルーマンデーの始まりに、怜はふうっとため息をついた。
そうしてすぐに気を取り直した。
マンデーが青ざめていても、別に、チューズデーが明るくなるわけでもなければ、フライデーが金色に輝くわけでもないのだ。だったら、月曜日も大切に過ごさなくてはならない理屈である。こちらから大切にすれば、向こうからも大切にされるというもっぱらの噂だった。一日を大事にすることで一日からも大事にされる。何と美しいことではないか。
学校に行く準備を万端整え終わった怜はそんなことを考えながら、階下に降りた。行ってきます、と親に声をかけようとすると、いつものように妹が母親にどうしてもっと早く起こしてくれなかったのかと文句を言っているシーンにぶち当たった。怜は長くもない廊下を行く足を速めた。一日を大事にするということは、こういう喧騒に取り合わないということである。
「行ってきます」
とおそらくは聞こえないであろうが、それなりの声量で声をかけたあとに、怜は外に出た。綺麗な秋晴れの空の下、空気はどこかひんやりとしている。そろそろ冬が来るのだろうか。もう10月の下旬であるので、そろそろそうなるのかもしれなかった。怜は冬があまり好きではない。春夏秋冬にそれぞれいいところを見いだせるのが、日本人の素晴らしいところなのだろうが、そんな気にはとてもなれないのだった。しかし、季節というのが一日を構成する要素であるとすれば、一日を大事にするということは、その日の季節を大事にするということでもあるだろう。
怜は歩きながら、今のうちから先んじて冬のいいところを考えようとした。冬から連想されるワード……寒い、乾燥している、雪が降って歩くのがうっとうしい、日が短くて憂鬱になる、寒い……。そうして、うん、と大きくうなずくと、冬になってから考えようということにした。何も秋の今から冬のことを考えることはないではないか。いざ冬になれば何かいいところが見つかるだろう。どんなに嫌な人間にでも一つくらいはいいところがあるように。そこで、怜の脳裏に思い描かれたのは、妹の姿だった。妹にも何かいいところがあるだろうか。………………元気なところだな、多分。
そういうことにして歩いていくと、カノジョの家の近くに来た。遠めに見て分かる姿が、その家の門前にある。川名環は、こちらに気が付くと手を軽く振ってきた。その手に手を返した怜は、近づきながら彼女の姿を見ていた。一部の隙も無い立ち姿はまるで彫像のようであって、それが実際に息をしている、言葉を話すということが、いつも通りどうにも不思議だった。
怜は立ち止まった。
環は小首をかしげるようにした。
「どうしたの、変な顔して」
「一日を大切にする方法について考えていたんだ」
「どういうこと?」
「ブルーマンデーだからって、憂鬱な顔をしていたら、今日という一日に対して申し訳ないなってことだよ。今日だって一生に一度しかない日なんだ。いい日にするように努めないと」
「わたしはもういい日になったよ」
「テレビの朝の占いの結果がよかったのか?」
「レイくんに会えたから」
うっと、怜は言葉に詰まった。
そうして歩き出した。
その隣に環がつく。
少し歩いたあとに怜は、
「人間恵まれていると、自分が恵まれていることに気が付かないもんだ」
と婉曲な言い訳をした。
「感受性が大切だよね」
「鈍感なんだよ」
「そうでしょうとも」
「感受性っていうのはどうやって磨けばいいんだろうか。山で野宿でもすればいいのかな」
「キャンプ好きなんだっけ?」
「キャンプは好きだよ。空調が整ったロッジの中で、ガラス張りの天井を通して星空を見上げるなんて本当にロマンチックだと思う」
「それキャンプじゃないと思う。そんなのスマホで星空の動画を見れば間に合うじゃない」
「人間はもともと自然の中で暮らしていたなんていうのは嘘だよ。都市を作るっていうことは、人工空間を作るってことさ」
「じゃあ、キャンプ好きな人っていうのはどうなるの?」
「都市生活の反動だろうな。都市に暮らしていると、たまに都市から離れたくなる。それで、人はキャンプに出かける。暗闇の中、星空を見上げて悦に入っていると、急に顔がかゆいことに気が付く。蚊にかまれているわけ。そうして、やっぱり都市の方がいいことに気づく。蚊がいないからな。人はまた都市に帰ってくる。キャンプに興味は?」
「嫌いじゃないよ。子どものころ、息子がいなくて寂しかった父が、わたしと円を男の子にしようとして、キャンプに連れて行ってくれてたの」
「ひどい性差別発言だな。女の子はキャンプしないのか?」
「今のは全部父の話だから」
「蚊に刺されても嫌にはならなかったと」
「そこまではね。ひどく刺されなかったってこともあるけど」
「ラッキーだったな」
「レイくんは?」
「二、三回、親に小さいときに連れて行ってもらったことはあるかな」
「おばあさまやおじいさまのところでは無いの?」
「山登ったり、湖に行ったりすることはいくらでもあるけど、キャンプは無いな」
「いいところでしたね」
怜はその時に彼女から受けた仕打ちを思い出した。
「タマキは、オレに対して事前報告を要求するよな」
「うん」
「タマキもオレに事前報告する気はあるのか?」
「何でもお話ししますよ。知りたかったら、今日の予定話そうか?」
「学校が終わってから何かあるの?」
「レイくんに家まで送ってもらう」
「なるほど、そのあとは?」
「勉強をして、ご飯を食べて、レイくんに電話をかける」
「いい予定だな」
「もうちょっと先のことまで話す?」
「そういうことじゃなくて、もっと特別なことはないのか?」
「今話したことだって、わたしにとっては特別なことだよ」
「失礼しました」
「どういたしまして。それで? 電話してもいい、今夜」
「そのために電話っていう機械はあるんだよ」
「何時にする? 11時くらいは?」
「了解」
「今日あった面白おかしいことを話すね」
「そんなにハードル上げて大丈夫か?」
「そんなに面白くなくてもレイくんは笑ってくれるでしょ」
「今日一緒に帰るならその時にもその面白おかしい話ができるんじゃないか?」
「電話のために取っておきます。帰り道で、『今日面白いことがあってね』っていう出だしでわたしが何か話し出そうとしたら、すぐに止めてね」
怜は立ち止まった。
信号が赤を告げていた。
同じように立ち止まる環の横顔は微笑んでいる。
もしかしたら、これは夢の中の世界なのではないかと怜は考えた。何もかもが綺麗すぎた。そうして、また妹のことを思い出して安心した。まさか、妹のことを考えて安堵する日が来ようとは思いもしなかった。しかし、彼女がいてくれるからこそ、常に現実の汚さを認識することができて、ひいてはこの世界が現実であるということも認識できるのだった。ありがたいことである。
「青になったよ、レイくん」
「ああ」
美しすぎる恋人に対して、醜すぎる妹。そう考えるのは、妹に失礼だろうか。しかし、醜さというのはやはり必要なのではないだろうか。あんまりそんな風に考えると、妹が自分にとって必要不可欠な存在なのだということになってしまってうまくない。怜は、妹以外で自分にとって厄介な人間がいないかどうかを考えてみた。すると、すぐに一人思いついたではないか。
「何を考えているの、レイくん?」
「ん? ああ、倉木のことを考えていたんだ」
「ヒナちゃん?」
「ありがたい存在だということにたった今気が付いた」
「どういう流れでそうなったのか、詳しくお願いします」
「そんなに大した話じゃない」
「そうだとは思えないけれど」
「そうか?」
「わたしの沽券に関わる話です」
「この世の中にタマキしかいないとすると、この世界は美しすぎるって話だよ」
「……その話、今夜までとっておいてもらってもいいですか?」
「いや、これで終わりなんだけど」
「もっと詳細に、数学の証明みたいにきちんと順を踏んで説明してもらわないと納得ができない」
「いや、お前なら分かるだろ」
「分かりません」
「分かるって」
「分かりません。裁判で被告人の有罪を立証するときみたいに、きちんと説明して」
怜は、これ以上、きちんとした説明の例を出される前に了承した。
環は満足したようにうなずいたあとに話を変えた。
「昨日は本当にありがとうございました。旭、ずっと動物園の話をしているのよ。お夕飯中もお風呂でも、寝かしつける時まで」
「喜んでもらえてよかったよ」
「父がレイくんに嫉妬してました。自分がどこかに連れて行ってもこんなには喜んでくれないって」
「その子に責任を負っている人が、その子をたまにどこかに連れて行くだけの大した責任を持っていない人間に嫉妬するっていうのは理屈に合わない気がするなあ」
「でも、嫉妬って理屈じゃないから」
「タマキも嫉妬することあるのか?」
「あります!」
環は、それが何か素晴らしいことででもあるかのように、嬉しそうな声を上げた。
「レイくんは?」
「うーん……いや、特に無いかなあ。自分は自分、他人は他人だろ。そこからしか話は始まらないんだから、嫉妬なんて実は不可能なんじゃないかなと思っている」
「でも、現に存在しているよ。これはどう説明する?」
「自分と他人を取り換えられるという錯覚から来ているんだろ」
「それが錯覚だとしても、どうしてそういう錯覚が生じるのかということが大事なところじゃないかな」
壮大な問題を考えるには、時間が足りなかったようである。
二人はいつの間にか学校の前の坂を登り、校門の前まで来ていた。
いつものように門番の生徒指導の教師に挨拶して校門をくぐり、生徒用玄関で上靴に履き替える。
「部活があったら、わたしのことは気にしないでね」
環はそう言うと、近くからクラスメートに名前を呼ばれて、駆けていった。
怜は、そう言えば部活なんてものをまだやっていたなあと思い出して、すぐに忘れることにした。