第256話:わがままの定義
そのあとはアルパカを見ることになった。アルパカというのは、南アメリカ原産の家畜の一種であり、ラクダ科に属するということである。長い首とモコモコとした毛はまるで羊のようにも見える。ハクトウワシの草地を離れた一行は園内バスで移動して、別の広々としたエリアに来た。アルパカエリアは軽い柵で囲まれているだけであり、すぐそばでモコモコを見ることができた。
「うわああ……」
旭は歓声を上げた。家畜だから人に慣れているのだろう、人を恐れる様子は全くない。むしろ親しげに寄ってくるではないか。怜は心癒された。餌をあげていいものなら、やりたいくらいである。可愛いなあと思っていたら、近くで悲鳴が上がった。何だ何だと思って見てみると、どうやら一人の中年男性がアルパカから唾を吐きかけられたらしいということである。
「えーっと、威嚇とか防衛のために臭い唾を吐きかけることがあるんだって」
環が立て看板の説明を読んだ。
怜は柵に手をかけている旭の肩に軽く触れて、
「ちょっと離れた方がいいかもしれないよ、アサちゃん」
と注意を与えた。
「はーい!」
元気よく応えた旭は、素直に柵から離れた。
そうして十分にリーチを取って少しモコモコを眺めていた旭は、別の動物を見たくなったようである。彼女の姉とそのボーイフレンドはその要求に応えてやった。ペンギンやオットセイの海獣エリア、キリンやゾウの大型動物エリアなどを回る。
久しぶりに動物を見ていると、なんとも心穏やかな気持ちになるのを怜は感じた。特段、動物が好きというわけでもないのだけれど、何もしゃべらないというのがよかった。何もしゃべらないにも関わらず、なにがしかの意志をもって、それも人間にはうかがい知れないそれを持って生きているというのが、なんとも興味深かった。それは植物でも同じなのかもしれないけれど、やはり動き回る動物の方が「生きている」と感じられるところが大きかった。一日中見ていても飽きそうにない。
「すごい、レイ、見て! ライオンさんだよ!」
猛獣コーナーで旭は、ひときわ大きな声を上げた。ライオンは檻の中で、ごろんと悠然と寝そべっていた。百獣の王にふさわしいたたずまいである。
「さっきのアルパカさん、食べられちゃうのかな」
「一緒の檻の中にいたら、もしかしたらね」
「食べないでほしいなあ……」
ライオンをじっと見ていると、怜は今度はさきほどとは別の感慨を抱いた。本来であれば、自由自在にサバンナを駆け巡ることができるであろう彼もしくは彼女は、こんな檻の中に閉じ込められてどう思っているのだろうか。そう言えば、野性のゾウと動物園のゾウでは、実に2倍以上平均寿命が違うということである。何の苦労も無く生きられそうな動物園の中の方が実は寿命が短くなる。ライオンも同じだとしたらどうだろう。それでも彼らは何を訴えることもできないのだ。怜が勝手にあわれを誘われていると、ライオンは大きくあくびをした。
一通り園内を回るとお昼が近くなってきた。レストランかフードコートで食べようかと思った怜だったが、
「大したものじゃないけど、お弁当を作ってきました」
環が言うのを聞いた。
「弁当を背にして歩いてたのか。悪かったな」
「大して重くないから大丈夫。わたしこう見えて力持ちだから」
「とてもそんな風には見えないけど」
「アサヒの面倒を見ているんだからね」
怜はマップを見た。すると、ランチエリアがあって、そこにテーブルが用意されており、近くの屋台から買ってきたものや、お弁当などを広げられるようになっていた。
「そこまで行こう」
「うん」
怜は、環と旭と一緒に、お昼ごはんエリアまで移動すると、テーブル席の一つを占めることにした。たくさんある他の席も大方が埋まっていた。売店からお昼を買っている家族もいたけれど、お弁当を作って持ってきている家族の方が多かった。
「いただきまーす!」
旭はよほどお腹がすいていたのか、環のリュックから取り出されたお弁当のおにぎりをもりもりと食べた。怜も、おにぎりをいただいて、おかずもいただいた。大したものじゃないと言ったのは環の謙遜で、売り物と遜色ないほどお弁当は美味しかった。
「アサヒもお手伝いしたんだよ、レイ!」
「ありがとう、アサちゃん。美味しいよ」
「料理って面白くないけど、レイになら作ってあげるね」
「実はオレもクッキーが作れるんだ。円お姉ちゃんほどおいしくはないかもしれないけど、今度、アサちゃんに作ってあげるよ」
「レイ、クッキー作れるんだ、すごい!」
旭はまるで魔法使いでも見るかのような驚きの色をその大きな瞳に映した。この所作を今だけではなくて、これからもずっと続けることができれば、世界は彼女のものになることだろう。自分にもこんな頃があったのだろうか。なんにでも素直に驚きを示すことができた時代が。あったかもしれない。しかし、それはもはや遠い過去である。
「口に合わなかった、レイくん?」
「まさか。どれもこれも美味しいよ。料理の才能がある」
「才能なんてないわ。マドカにはあるかもしれないけど。わたしは、ただ繰り返しているうちに、それなりのものができるようになっただけよ」
「どのくらい繰り返したの?」
「200回くらいかな」
「それだけ繰り返せること自体が才能だよ」
「繰り返す才能ね。もっといい感じの才能をもらえればよかったけど」
「オレはその才能を分けてもらいたいよ」
「何かが繰り返せないの?」
「何も繰り返せない。繰り返せるのは、歯磨きくらいか」
「歯磨きは大事だよ。歯は体の窓だから」
「そんな諺、聞いたことないなあ」
旭は、すっと手を挙げると、
「アサヒ、毎日ちゃんと歯磨きしているよ!」
と元気のいい声を上げた。
「えらいな、アサちゃん」
「へへへ」
昼食を食べ終わった後は、ネコとたわむれる館に行くことになった。館の中には、人懐こいネコがたくさんいて、触ったり抱いたりすることができる。旭ははしゃいでいたが、怜はあまりいい気はしなかった。というのも、犬や鳥よりは可能性は低いだろうけれど、それだって、ネコがいきなりひっかいてくることだってないとも限らない。そうして、少女の可憐な顔に傷でもついたら一大事である。
「レイくん、いくら何でも心配しすぎよ。そんなことまで心配していたらキリがないでしょう。ただ外で遊ぶだけだって、転んでケガしないかとかそんなことまで考えないといけなくなっちゃう」
「アサちゃんの兄じゃなかったことは、オレにとっても、アサちゃんにとっても幸運だったかもしれないな」
「もう」
「こればっかりはしょうがない」
「抱っこする? ネコちゃん」
「いや、いい。そうしたいとも思わないし、あっちだって、放っておいてもらった方がありがたいだろ」
環は居住まいを正した。
「ありがとうございます。今日もまたアサヒの我がままに付き合ってくださって」
「我がままなんていくらでも言えばいいんだよ。それが通るかどうかはまた別の話なんだ。今回はたまたまそれが通ったってだけさ」
「レイくんは、アサヒの我がままだったら、かなり通しそうな気がするな」
「そんなことはないよ。オレにだってできないことはある。できないことはできないさ」
「でも、できることはしてくれる?」
「そりゃそうだろ」
「わたしの妹だから?」
「違うよ。アサちゃんがいい子だからだよ。タマキの妹かどうかなんてこととは関係ない」
「わたしの我がままはどのくらい聞いてもらえるのかな」
「タマキは我がまま言わないだろ」
「そんなことないです。言いまくりますよ」
「これまで聞いたことない」
「結構言っていると思うけどな」
「たとえば?」
「一緒に登校してほしいとか」
「それを我がままと呼ぶなら、世の我がままに別の名前が与えられるよ」
「根が慎み深いので」
「何かあれば言ってくれ。できることとできないことがあるって言ったけど、まあ、やってみなければできるかどうか分からないってこともあるからな」
「バンジージャンプは?」
「それはやらなくても分かる。そういうこともある」
少し離れたところで存分にネコちゃんと遊んできた後に、旭は戻ってきた。
「ねえ、タマキお姉ちゃん……」
「ダメよ、アサちゃん」
「えっ、まだ何も言ってないよ」
「ネコ飼いたいんでしょ?」
「なんでわかったの!?」
「アサちゃんには言ってなかったけど、お姉ちゃんはね、アサちゃんの心を読むことができるの」
「……じゃあ、今わたしがなんて思ったかわかる?」
「『そんなの嘘だあ』って思った」
旭は驚きで目を見開いた。「どうして、ダメなの?」
「お父さんがネコアレルギーだからよ」
「……お父さんだけ、別の家で住むようにしたら?」
怜は噴き出した。それをごまかすために、咳払いした。
「アサヒ、お父さんが可哀そうだとは思わないの?」
「…………分かった。我慢する。わたし、我慢できる子だから」
自由奔放に生きているであろう彼女にも耐え忍ぶことができたのである。それはおそらく彼女にとっていいことだろう。
ネコを見た後は、帰路を取ることになった。
旭は、また来たいと言ってきかなかった。
怜は今度は安請け合いはできない。しかし、
「そのうちね」
というのも嫌だったので、受験が終わる3月以降なら大丈夫だと言っておいた。
「ええーっ……そんなに後なのぉ……」
旭は露骨にがっかりした顔を作って、怜にクリティカルヒットを与えた。
「アサちゃん、楽しみが後にあるのってステキなことじゃないかな。だって、その時が来るまでドキドキしながら暮らすことができるんだから」
環が妹に声をかける。
旭はその理屈に納得がいったようないかないような顔をした。それでも、敬愛する姉の言うことだからなのだろう、不承不承ではあるがうなずいた。帰りの電車の中で、旭は窓側の席から外を眺めていたが、行くときと同じようにうとうとした。
怜は隣から寄りかかってきた少女を受け止めた。
「ありがとう、レイくん」
「どういたしまして」
「勉強の件なんだけど、わたしでよかったら、いつでも教えるからね。ビデオ通話でやってもいいし。画面に問題を映し出しながら教えるの、どう?」
「だったらスマホよりタブレットの方がいいだろうけど、買ってもらえると思うか?」
「わたしのお古、あげようか。よかったら」
「お古?」
「そう。新品を買ってもらう予定だから、持っているものが必然的にお古になるでしょ」
「予定っていつ立てたんだよ」
「たった今」
「だと思ったよ」
「気に障った?」
「全然。ありがたい申し出だけど、公民館の方がいいな。家でテレビ電話でお前と勉強しているときに妹に闖入されでもしたら、竹刀で頭を殴られるかもしれない」
「大げさじゃない?」
「かもしれない。でも、避けられる危険は避けたいんだ。なにせ、オレの頭は一つしかないからな」
旭は駅に着くまで眠っていた。
もう少しで駅に着くというアナウンスが流れたとき、怜がその小柄を柔らかくゆすぶってやると起きたようである。
いつかの時と同じように、駅には環の母が迎えに来てくれていた。
恐縮しながらその車で家まで送ってもらっていると、今度は怜自身が眠くなってきた。
「着いたよ、レイくん」
うとうとしかけた時に声がかかって、軽く頭を振るようにして意識をはっきりさせると、怜はドライバーを務めてくれた環の母に礼を言って降りた。
日が沈む頃である。
一日が終わったのだった。
「また明日ね、レイくん。今日は本当にありがとう」
わざわざ車から降りて別れの挨拶をしてくれる少女の瞳はまるで星を宿しているようであって、彼女に感謝をされる一日が良い日であったことを怜は認めざるを得なかった。




