第255話:世界のミニチュアへようこそ
動物園は、世界を支配したいという人間の欲望が具現化されたものだという話をどっかで読んだことがある。世界中にいる動物を一ヵ所に集め世界のミニチュアを作ることによって、この世を支配した気になるということである。怜は、そういう考え方もできるのかと感心するとともに、そんな大きな話にしなくても、動物園は単に人間の収集癖によって作られたものではなかろうかと思ったものだった。色んな動物をコレクションしたいのである。ポケモンと同じである。ポケモン知らないけど。
園に入ると、まずはドッグスペースがあった。屋根付きの広い空間にワンちゃんが、わちゃわちゃしているのが柵越しに見える。ここで犬を借りて一時的な飼い主となり園内を散歩させることができるようである。旭は興味を示したが、怜は賛成できなかった。もちろん、犬はきちんとしつけをされているだろうから万に一つも無いとは思うが、もしかしてもしかしたら、彼もしくは彼女が失われた野性を唐突に思い出して、仮の主に対して牙を剥くかもしれない。そんなことになったら大変である。なので、旭がレンタルしたいと言ったら全力で止めようと思ったけれど、その前に、環が、
「どの動物から見ようか、アサちゃん」
とすぐに犬から注意をそらしてくれた。
すると、旭は、
「何がいるの?」
と目を輝かせた。
「いっぱいいるよ。鳥さんもいるし、お猿さんとか、アルパカさんっていうのもいるよ」
「全部見たい!」
「じゃあ、近いところから順番に回ってみましょう」
「やったあ!」
怜は、環に目で感謝の意を表した。
「やだ、レイくん。そんなに見つめられたら照れちゃう」
しかし、伝わらなかったようである。
「行こう、お姉ちゃん、レイ!」
旭は二人の手を引っ張った。
行き着いたのは鳥エリアである。
見ていてほんわかなるような小鳥だったり、優美な気分になる大鳥だったりして、彼らが飛んだり木の枝でポーズを取ったりするたびに、旭は歓声を上げた。そうして、こんなところに閉じ込められて人間を恨みに思っているのではあるまいかと思われるキツい目つきをした猛禽類には、飛行ショーがあった。檻から出して広々としたところで飼育員の腕から腕へと飛び渡らせるパフォーマンスである。
「見たい!」
当然のごとく旭が興味を示したので、パフォーマンス好きの親子連れやカップルやおひとり様の集団に交じって、広々としたスペースへと行ってみた。
「みなさん、ご紹介します。ハクトウワシのキーファです」
だだっぴろい野原で、胸元のマイクを通して、飼育員のお姉さんが美声を上げる。その細腕に留まっている猛禽は、その名の通り白頭であり、堂々とした威厳に満ち満ちていた。それなりの重量でありそうだけれど、お姉さんは平気そうな顔をしていた。キーファさんがそれほど重くないのか、それとも、お姉さんに見た目より力があるのかどちらなのかは、怜には分からない。
「近くで見たいというお子さんはいますか? お子さんだけですよ。大人の方はご遠慮くださいね」
お姉さんが冗談めかして言うと、みんなが笑った。
しかし、怜としては、すぐに笑えない事態になった。
子どもたちが競って手を挙げる中で、
「じゃあ、そこのリボンが可愛い女の子!」
となんと旭が当てられたではないか。
怜はこれは犬どころの話ではないと心配になった。
「あの、すみません」
旭が出ていく前に、怜は手を挙げた。
「はい? お父さん……にはちょっと若すぎるから、お兄さんでしょうか。どうされました?」
「キーファさんを疑うわけではないんですけど、その……何かしら人に対して恨みを抱いているなんてことはないでしょうか。その恨みを、飼育員さんに対してではなくて、か弱い女の子に向けるなんてことは?」
「あら、わたしも女の子ですよ。か弱くは見えませんかね」
どっと起こる笑い。怜はバツの悪い気持ちになりながら、それでも言っておくべきことはちゃんと言っておかなくてはいけないと思って、
「その嘴とか爪とかで、この子の顔に傷がつくなんてことが万が一にも無いって約束してもらえませんか。お願いします」
と食い下がった。
「お約束します」
お姉さんは力強く請け負った。
しかし、彼女とは初対面である。
その責任感の大小を知らないので、念のため怜は旭に付き添わせてもらうことにした。席を立つ時に、
「まだ何も言うなよ」
環に言うと、
「じゃあ、あとでね」
と返された。
怜は旭と一緒に、草地の中央に躍り出た。
「優しいお兄ちゃんだね」
飼育員さんが旭に向かって言うと、
「うん! でも、本当のお兄ちゃんじゃなくて、お姉ちゃんのカレシなの!」
と旭は答えた。
飼育員のお姉さんは切れ長の瞳を意味ありげに光らせて、
「なるほど。それじゃあ、よっぽど心配ですね。カノジョとの関係上」
怜に言った。
怜は意味ありげな目には慣れているので、
「ありがとうございます」
とだけ答えた。
「キーファ、挨拶して」
そう言って、お姉さんは腕を少し旭に近づけるようにした。
当然、旭の近くにいる怜にも近づくことになる。
旭はちょっと身を引くようにした。遠めに見ている分にはよく分からないけれど、鳥目は実に怖かった。じっと見つめていると、半端なく圧を感じた。それでも、旭は泣き出したりはしなかった。このあたりはさすがである。同じことをされたら自分だったら泣き出している自信があると怜は思った。
「あ、そうだ、あんまりキーファの目を見ないでくださいね。ガンつけられていると思ってキレるかもしれないので」
じっくりと見てしまったあとで、お姉さんの注意が遅い。
「さあ、では、行ってみましょうか。いけ、キーファ!」
彼女がゆっくりと腕を挙げるようにすると、その動きを利用するかのようにキーファくんは飛び上がり、大きな翼で虚空を打つと、100メートルくらい離れたところにいるもう一方の飼育員のお兄さんのところまで一直線に飛んでいって、その腕にとまった。湧き上がる歓声。今度は、お兄さんの方からお姉さんの腕へと猛禽が舞い降りる。もう一度、向こうに飛ばせたあとに、お姉さんは、
「さあ、では、今度はキーファにこちらのお嬢さんの腕にとまってもらいましょう」
とんでもないことを言い出した。
そこで、怜はすばやく、
「アサちゃん。その役は、オレに譲ってくれないかな。この通り!」
両手を合わせて旭に懇願した。
依然としてキーファは怖い。
しかし、事情が変わった。
もう怖がっている場合ではない。
「キーファが好きなの、レイ?」
「アサちゃんとタマキお姉ちゃんの次にね。ダメかな、アサちゃん?」
旭はうーんとちょっと考えた後に、
「いいよ!」
にこっと笑って許してくれた。
怜は、内心で大きく息をついた。
そうして、お姉さんに真向かう。
「そういうことで、その役はオレにやらせてください。お願いします」
「分かりました。でも、本当にキーファはいい子なんですよ。彼の名誉のために言っておきますけど」
彼女にとってはよく知っている相棒なのだろうが、こっちは今日が初対面なのである。
こう言っては申し訳ないが、キーファさんは初対面で人からの信用を受ける顔をしていなかった。
「じゃあ、とりあえず、これつけてくださいね」
怜は腕から手までをきっちりと覆うプロテクターのようなものをつけられた。アームカバーである。これが無いと、獲物を獲るための猛禽の爪が思い切りこちらの腕の肉に食い込むことになる。
「あとは、これですね」
アームカバーの手には馬肉を握らされた。
キーファくんはこれを目当てに飛んでくるということだった。
「えっ、お姉さんのことが好きで腕にとまるんじゃないんですか?」
「違います。ご褒美を目当てにしているだけです。対価が得られるから労働する。シンプルでしょ?」
「オレは何かをしても対価をもらったこと無いです」
「きっとその方が幸福ですよ。うらやましい」
怜は緊張した。
なんでこんなことになったのか。おそらくは大丈夫なんだろう。しかし、別に鷹匠をうらやましく思ったことなどなければ、今後もそんなことはないであろう自分が、猛禽を腕にとまらせることになっているのだから、人生というのは実に面白い。面白いと思うしかない。
「では、準備オーケーですか? 行きますよ。腕を水平に上げてください」
怜は何もオーケーではなかったけれど、言われた通りにした。
すると、向こうのお兄さんからキーファが飛び立つのが分かった。
キーファは、ものすごい勢いで飛んでくると、あやまたず怜の腕に止まった。
お、重い。しかも、怖かった。簡単にこちらの目玉をえぐり取れるようなくちばしが間近にあるのである。強盗にナイフを突きつけられているようなものだ。怜は、楽しい動物園に来て恐怖を味わうという得難い経験をした。得難かったがありがたくはなかった。
「みなさん、こちらのお兄さんに拍手をお願いします!」
パチパチパチと、生涯で一番の拍手をもらった怜は、そんなことはどうでもいいから、早くこの鳥を何とかしてくれと思った。その願いが通じてすぐに解放された怜は、
「すごかったね、レイ!」
席に戻ってから、旭のキラキラした瞳を見た。怜が苦笑いをどうにか優しい微笑に変えようとしていると、
「お疲れさまでした」
環が訳知り顔で言った。
「タマキもやりたかったんじゃないのか?」
「全然興味ないです」
「珍しいことだぞ」
「レイくんは、バンジージャンプに興味ある?」
「なんだって?」
「無いでしょ? それと同じことよ。あ、そうだ!」
環が何かを思い出したような顔になって、
「何か言っていいんだよね。さっきの件について」
と訊いてきた。
怜は首を横に振った。
「まだ『あと』じゃない」
「レイくんの言う『あと』っていつのことなの?」
「10年後とかのことじゃないか」
「嬉しい」
「え、なんで?」
「だって、10年後もまたこうして動物園に来てくれるっていうことでしょう?」
そういうことになるのだろうか。
彼女がそういうことになると言うのなら、まあそうなのだろう。
次の動物を見に行きたい旭が、
「レイ! お姉ちゃん! 早く行こうよ!」
と声を上げた。
怜は、いまだ腕がつかまれているような感覚を抱きながら、旭の手を取った。もう一方の手を環が取る。心から楽しそうにしている旭の顔を見ると、鳥に腕をつかまれようが、牛に突進されようが、そんなことはどうでも構わない気もした。