第254話:動物園に行こう!
目が覚めたときに、今日という一日があったことに感謝する日は訪れるのだろうか、と怜は考えてみた。そうして、首を横に振った。おそらくは、そんな日は永久に来ないことだろう。その日にどんな素晴らしいことが待っていたとしても、目が覚めずに眠り続けられていた方が幸運に違いない。特にその日がさして楽しいことが無い日であれば、なおのことである。
さて、この日――ある秋の土曜日――の怜の予定は以下の通りである。
朝、勉強。
昼、勉強。
夜、勉強。
受験生としてのあるべきスケジュールだったが、「そうであるべき」というのは、大抵は「そうではない方が楽しい」という意味に他ならない。
スケジュールに則って勉強を始める前に、怜はとりあえず、洗面を済ませることにした。いくら「勉強・勉強・また勉強」というスケジュールだとしても、血と肉を持つ人間である限りは、その身を維持するために必要なことを色々としなければいけない。
勉強道具を持って、リビングに降りてから、洗面台で寝ぼけ眼を洗い、そのあとキッチンに行って、お湯を沸かした。やかんが蒸気を吐き出すと火を止めて、湯冷ましを作る。朝は白湯を飲むと健康にいいというのを何かで読んだので、この頃実践していたのだった。何の味もしない白湯を飲んでいると、心が洗われるようになるのを感じる怜は、紅茶の方が美味いと思った。二杯目は紅茶にしよう。
1時間ほど勉強した後に、自分でサンドイッチを作って、今度は紅茶を淹れる。サンドイッチは家族の分も作っておいた。それなりの手間である。これを毎朝、文句も言わずにやってくれているのだから、母は偉大。世には、家事を見下す男性が今でも多いと聞くが、家事や育児に比べたら、外の仕事など大したことは無い。なぜか。証明は簡単である。仕事には替えがきく、家事には中々替えがきかない。替えがきく仕事より、替えがきかない仕事の方が重要である。ゆえに、仕事よりも家事の方が重要である。証明終わり。
「もう起きていたの、怜?」
7時を過ぎたころになって、母が起きてきた。
怜はポットからカップに二杯目の紅茶を淹れようと伸ばしていた手を止めて、母に挨拶した。
「おはよう。サンドイッチ作っておいたよ」
「ありがとう。でも、お母さん、もうちょっとだけ寝ているわね」
いくらでも寝ていてくれていい。何だったら、今日はずっと寝ていてもらっても構わない。……いやと怜は思い直した。一日寝ていてもらったら、息子が勉強にひたむきにがんばっているところを見てもらえない。やはり、適当な時間に起きてもらうしかなかった。
8時になったら二度寝した母がまず起きてきて、それから9時に父、10時に妹が起きてきた。
怜は予定通り、一日中勉強を行った。
「あーあ、お兄ちゃんを見ていると、来年のことを考えて憂鬱になるよ。せめて自分の部屋で勉強してよね」
と妹に言われたが、こっちだって、何もリビングが居心地よくてやっているわけではないのである。母にアピールするためにそうしているに過ぎない。しかし、近頃ではこのアピールも果たして効果があるのかどうか疑問だった。さすがに、お出かけが多すぎた。いくら「勉強していますよ」アピールをしても限界があるだろう。とはいえ、だからといって、できることがほかにあるわけでもない。怜は夜を迎えてなおスケジュール通り、そのまま、母が寝るまで勉強を続けたのだった。
そうして、翌朝、前日のアピールが奏功していることを祈りつつ、家を出た怜が、待ち合わせ場所に着くと、女郎花の妖精のような女の子が待っていた。
「レイ!」
その子はこちらに気が付くと、いつものように嬉しそうに駆け寄ってくれた。
自分が生きていることの価値を素直に認められるほとんど唯一の瞬間だった。
怜は心が温まるのを感じた。
物理的にもあったまったことだろう。
抱きつかれたので。
「アサちゃん、その服、すごくよく似合っているね。まるで、アサちゃんのために作られたような服だね。服もアサちゃんに着てもらえて喜んでいると思うよ」
怜は彼女のワンピースを心から褒めた。
誉め言葉はいくらでも出てきそうだった。
「お褒めの言葉、ありがとうございます」
旭は怜から一歩、二歩離れると、ワンピースの裾をちょっとつまんで上げるようにして、お辞儀した。
「いつの間にそんなにレディーになったの、アサちゃん?」
「この前テレビでやってたの、お姫様のお辞儀、可愛いでしょ?」
「『可愛い』の100倍だよ」
「やった、えへへ」
怜は今のうちはこうして彼女に相手をしてもらえるけれど、もう少しすればそんなことはなくなるだろうと思った。そうして、それが自分の人生の最も素晴らしい時間の終焉だということも分かっていた。あとはもう失われてしまった青春時代をひたすらなつかしむだけの時間が待っている。あの頃はよかった、さようなら、古き良き時代……。
こほん、と咳払いがして、怜は現実に引き戻された。
旭の姉が、こちらを意味ありげな目で見ている。もっとも、彼女はおおよそいつもそんな目をしているのだった。カレシに対して常に何事かを考えてくれているのである。ありがたいことである。あるいは、有難迷惑である。
「おはよう、タマキ。今日も顔色がいいね」
「わたし、いつの間に病院に来ていたんですか?」
「病院?」
「それ、病人にかける言葉でしょう」
「そんなことないだろう。普通の挨拶だよ」
「そうかな」
「朝一で突っかかるなんて、どこか気分が悪いんじゃないか」
「気分爽快ですよ」
「じゃあ、顔色がいいのも納得だ」
怜は自分の手が取られるのを感じた。当然に旭の手である。旭はもう一方の手で姉の手を取ると、
「行こう、レイ、お姉ちゃん!」
二人に仲直りを促した。もとから喧嘩しているわけでもないので、怜はうなずいて歩き出した。同時に環も歩き出す。今日のお出かけの目的地は、動物園だった。市をまたいで、さらにまたいで行ったところにある。怜は、近頃、動物園に行ったことはなかった。本当に子どもだった頃、旭と同じくらいだった頃に行ったのを覚えているくらいのものである。それ以来行ったことがないところに、行くことになろうとは、人生とは面白いものである。
怜は駅の構内に入ると、売店で旭にお菓子を買ってやった。
「ありがとう、レイ。大事に食べるね!」
怜は感動した。確か前にお菓子を買ってやったときはそんなことは言わなかったはずだ。この二三か月の間に確実に彼女は成長している。ひるがえって自分はどうだろうか。成長しているのだろうか。どうにもそうは思えなかった。
「どうかした?」
「いや、オレも日々成長したいと思ってさ」
「そんなに成長されたら、仰ぎ見るようになっちゃうから。するにしてもゆっくりにして」
「少しでもキミにふさわしい人間になりたいんだ」
「あとで熱を測ってもいい?」
「オレも体調は悪くない」
「念のためよ」
電車に乗ると、旭は窓外の風景の実況中継を始めた。この世の何よりも妙なる音楽に怜は聞き耳を立てて相槌を打った。正面からやはり意味ありげな目で見られているような気がしたが、気にしないことにした。やがて電車のリズムに揺られているうちに少女は眠くなってしまったようである。怜は彼女の幼い体を抱きとめると、遠い昔、妹にもこんなときがあったことを思い出した。
「いつかアサちゃんに嫌われることがあったら、この世の中から色がなくなったように感じるだろうなあ」
「アサヒがレイくんのことを嫌いになるなんてことないと思うけど」
「妹のことを思い出したんだよ。昔はこれでも好かれていたんだ」
「確か、プールに突き落としたから嫌われたんだよね」
「いや、それは冗談だよ」
「それを冗談にするというところが、レイくんのミヤコちゃんに対する気持ちを表しているんじゃない?」
「つまりそこから修正することが大事だってことか?」
「ご明察」
「いいんだ。何事もあきらめが肝心なんだ。それに、昔あったことをもう一度なんていうのは、品がない。昔あったことが一度でもあってくれた、そのことを尊んで生きていきたい」
「『永遠回帰』は必要ないってこと?」
「なんだよ、永遠回帰って……待てよ、どっかで聞いたことある気がする」
「この一回きりのはずの人生がね、全く同じ内容のまま、永遠に繰り返すの」
「それって、新手の地獄か?」
「そんなことはないんじゃないかな。何度でも繰り返すって、ステキなことじゃない?」
「……これまで生きてきた中で、結構恥をかいたことが多いと思うけど、その恥ずかしいことの数々が今頭の中に浮かんできているよ。それをもう一度、いや何度でも繰り返すとか、やっぱり地獄でしかない」
そこで、怜は環がじっとこちらを見ているのに気が付いた。
だから、怜は言ってやった。
「もちろん、アサちゃんに出会えたことは除くけどな」
「レイくんって、意地悪だよね」
「いや、この場合は、お前の方が悪いだろ」
「そうかな」
「男女平等でいかせてもらうぞ」
「男女平等なんかつまんない」
「危険な発言だな」
「精神的・知的な可能性ということに関しては平等かもしれないけれど、男性と女性は同じじゃないわ。だって、男女って区別が現にあるんだから。そんなことを、二年生の時に言われた気がするけど」
「誰に」
「レイくんに」
「オレに? ……そんなこと言ったか?」
「こういうことがあるから、もう一回、起こった方がいいんじゃないかな。一度起こったことがもう一度!」
あるいはそうかもしれない、と怜は思った。しかし、その際は、また同じことが起こって、結局今の自分は以前の自分の言葉を忘れてしまっているのではないだろうか。だとしたら、意味がないし、そもそもがこれが何回目かの自分だとしたら、これより一回前の自分もそれを忘れていたわけであって……。
そこで怜は考えた。いや、待て待て。永遠に繰り返すとしたら、その一回前とか二回前とか言うことなんてできないのではないだろうか。それが永遠ということの意味なのではなかろうか。だとしたら、一体どういうことになるのだろう。一回前とか二回前とか言えないということは、そもそも繰り返すということ自体が言えないということではないか。
怜がそんなことを考えて、はるかな思いにひたっていると、電車は目的の駅に着いたようである。駅到着のアナウンスが目覚ましになったようで、旭は体を起こした。
「着いた?」
「着いたよ」
「やったあ!」
とはいえ、動物園自体に着いたわけではなく、ここからさらにバスに乗っていかなくてはならない。動物園行きのバスは可愛いネコ型のものであって、それに乗る子どもたちと、童心を忘れない大人たちを喜ばせていた。
怜たちは首尾よく席を取ることができたが、怜は、あとから乗ってきた親子連れの子どもの方に、自分の席を譲ってやった。ありがとうございます、と頭を下げる両親に、怜はいいえと首を横に振った。かつてはこうして自分の両親に動物園に連れてきてもらったときがあったのである。覚えていないけれど。
それにしても、今日は昔のことばかりよく思い出す日だった。明るい未来に思いをはせたいというのに、どうして薄暗い過去のことばかり思い出すのだろうか。これが根暗ということなのだろうか。特にそんなつもりもないのだが、根が暗いということは、つもりもなにも関係ないのかもしれなかった。
動物園までショートライドを楽しんだ怜は、美人姉妹を伴って、バスを降りた。同じように降りた他の乗客たちとともに、入口まで行くと、チケットを三人分買おうとしたところで、
「もう買ってあるよ、レイくん」
と環に言われ、自分の分のチケット代を払おうと財布を出したところで、次の時にお願いしますと言われた。
怜は、財布を引っ込めると、その代わりに旭の手を取った。




