第253話:公民館は個人利用できるところもある
待ち合わせは2時だった。
怜はその15分前に待ち合わせ場所に来ていた。
行き先は歩いて20分程度のところであるので、1時20分くらいに家を出たことになる。
そろそろと家を出ようとしたわけだけれど、日ごろの行いが悪いせいか、母に見つかってしまった。
どこに行くのかと詰問してくる彼女に嘘をつくわけにもいかないので、カノジョに勉強を教えてもらうのだと答えた。母はため息をついたけれど、しかし、何も言わなかった。
「時々、母親は何が楽しくて生きているのかって気になるよ。頭の悪い息子と性格の悪い娘を持って、大した趣味があるわけじゃないんだから」
怜は、約束の5分前に現れたカノジョに言った。服装を褒めた後に。
「レイくんもミヤコちゃんもどっちもいい子だと思うけど」
「慰めはいいよ。本当に疑問なんだ」
「お母様の人生はお母様のものなんだから、レイくんが考えるべきことじゃないんじゃないかな」
「そうは言っても、一緒に生活していて関りがあるわけだから、そうもいかないじゃないか」
「何かわたしたちの窺い知れない楽しさをお持ちだと思うよ」
「だといいけど」
怜は、環と一緒に公民館の中に入った。
受け付けのお姉さんに今日は中学校はどうしたのと問われると、環は早帰りの日なんですと答えた。すると、彼女は納得してくれたようである。もしも自分ひとりだったら納得してもらえるだろうかと怜は考えた。納得してくれないかもしれない。家に電話されて、面倒くさいことになったかもしれない。しかし――
――そもそも一人だったら、こんなところには来ないか。
と考えた。
「2時間になりますので、4時までですね」
個人に対しては利用を制限する公民館が多い中で、怜の町の公民館は例外に当たった。しかし、個人では利用できないと思っている人が多いらしくて、環によると穴場だということである。
公民館の一室に入ると、大きな白いテーブルがでんと用意されていた。
四人掛けの大きなテーブルに二人で勉強できるのだからぜいたくな話だった。
「じゃあ、始めましょうか」
「よろしくお願いします、タマキ先生」
「うむ、苦しゅうないぞ」
「どういうことだよ」
「言葉通りよ」
せっかくいいスペースが利用できるわけだから、怜はフルに使わせてもらうことにした。2時間割いてくれる環に応えるためでもある。教えてもらう教科は英語に決めていた。目下一番問題になっている教科であり、受験までそれが続行しそうな教科でもあった。
怜は、この日のためにストックしておいた質問をすることにした。分からないところに関しては、塾の担当講師に聞いたり、ネットで調べたりしていたが、それでもやはり何となく分からない、腑に落ちないところというのがあって、そこの説明をしてもらいたかったのである。
「レイくんの隣に座らせてもらうね」
怜は環が隣に来るのを認めた。
花のような香がした。
「じゃあ、順に説明していくから」
環は英語の各質問事項について紙に書いて説明してくれて、しかも、例文を書き、そのあとに怜に対して、逆に例文を書いてみるように言ってきた。
「英語の表現って、実際に使ってみるとよく身につくと思うよ」
「よくここまでできるな。ここまでできて、これで試験で間違えることなんてあるのか?」
「あるよ、もちろん」
「絶望するよ」
「でも、満点取らないといけないってわけじゃないからね」
「それを希望にするようにしよう。満点取らないといけないわけじゃない。満点取らないといけないわけじゃない。でも、最低でも8割は必要……あ、邪念が入った」
「集中しなさい」
「いくらでも怒鳴るがいいさ。幸い、ここには誰もいない」
「怒鳴りません。怒鳴ってほしいなら努力してみてもいいけど」
「怒鳴り声は聞き飽きてる。毎朝聞いているんだ」
「じゃあ、次の例文行きましょう。『入口のそばでヴァイオリンを弾いている男の子はわたしの兄です』」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
「なあに? 何か分からないところがある?」
「いや、入口のそばでヴァイオリンを弾くってどういうことだよ。なんなんだよ、そのパフォーマンス」
「問題はそこじゃないでしょう」
「大いに問題だろ。状況が分からないのに、それを英語にしろって言われても、モチベーションがわかないよ」
「わかなくても、試験で出たら書くしかないのよ」
「The boy playing the violin by the entrance is my brother. I wonder why he is doing that.」
「ふふっ」
そこから2時間、みっちりと勉強した。環の教え方はうまく、英語に関しては怜が教わっている塾講師に引けを取らなかった。
「タマキは塾講師になれると思う」
「どうかな。わたしはそうは思わないな」
「どうして? 教え方は先生並みにうまい。少なくとも英語に関しては。お世辞は言ってない」
「多分、教え方とか大した問題じゃないと思う」
「と言うと?」
「だって、ちょっと調べればこんなことはすぐに分かるわけだから、それでどうっていうことないんじゃないかなあ」
「じゃあ、いい講師の条件とは?」
「母が週2回ジムに行っているんだけど、どうして行っているのかって言うと、そこのトレーナーさんに会いに行くためなんだって。そのトレーナーさんに褒められたいって思うと、足が向くそうなの。はっきり言って教わっていることなんてそう大したことじゃないし、運動だったらジムに通わなくてもできるでしょ。でも行ってる。それはトレーナーさんに魅力があるからでしょ。講師も同じなんじゃないかな」
「なるほど。生徒に会いに来たいと思わせられるかどうかってことか」
「そう」
確かに、怜は山内講師に魅力を感じていた。初めて会ったときから少なくとも、「今日は塾に行きたくない」と思った日は一度もなかった。
「じゃあ、そろそろ出よう。カラオケと違って、延長のシステムは無いだろうから」
「カラオケに行くことあるの?」
「ほとんど無い。言っちゃ悪いけど、誰にも聞かれてないのに歌うっていう行為に価値を見いだせないんだ」
「誰にも聞かれてないことは無いんじゃないの?」
「いや、聞かれてない。みんな、次に自分が何を歌おうか決めようとして装置をいじるのに夢中になっている」
環は何事かを考えているかのように軽く首を傾けて視線を下げた。
「いつでも誘ってくれ」
怜は自分から言い出した。
「あら、なんのこと?」
「キミのその綺麗な頭頂部を見ていると、不思議とその中に詰まっている考えが分かるような気がしたんだ」
「頭のてっぺんを褒められたのは初めて」
「まだ褒めるところが残っていたなんて驚いたよ。マイクの音量を一番大きくしてオレを責めてくれていい」
「一つ楽しみが終わるともう一つ楽しみが生まれるって、ステキなシステムじゃないかな?」
怜はテーブルの上の消しかすを集めて捨ててから、環を伴って部屋を出た。受付のお姉さんに挨拶して外に出ると、日はまだ明るかった。公園まで歩いてから、その入り口付近にある自動販売機の前で立ち止まり、
「お礼をするよ。ジュースでよかったら」
と隣の少女に言った。
「いただきます。ミネラルウォーターお願いできる?」
「了解」
怜は自分のためにはレモン入りの炭酸水を買った。
それから公園に入って、近くにあったベンチにハンカチを敷くと、彼女を席に導いて自分もその隣に腰を下ろした。
「ちゃんとしたお礼は今度するよ」
「これで十分だし、そもそも妹の相手をしてもらっているから、こっちこそお礼しないといけないと思う」
「今週末、また付き合ってもらうよ」
「本当に大丈夫なの? お母様のご不興を買うんじゃない?」
「そうかもしれないけれど、もとはと言えばあっちが悪いような気がする」
「どういうこと?」
「オレに腹を立てることがあったとしても、こっちから頼んで生んでもらったわけじゃないからな。向こうはオレにあれこれ要求することはできない。同意のない契約は無効だ」
「そんなこと言って」
「言いはしないよ。思っているだけだ。もう息子にはうんざりしているだろうから、これ以上うんざりさせたくない。親孝行だろ?」
「親孝行って言うかな、それ」
「子どもが元気ならそれが孝行なんだっていう意見もあるな」
「随分と子どもに都合のいい考え方だね、それ」
「だから好きなんだ」
「親子って不思議だね。さっき、レイくんが頼んで生んでもらったわけじゃないって言ったけれど、それって、親からしてみても実は同じで、生んでみたらその子だったって感じじゃないかな。生んだ方だって生むかどうかは選べたかもしれないけれど、誰を生むのかは選べなかったわけだよね。生んだ者と生まれた者。本当にこれは縁だと思う。それを縁だと思えるかどうかが親が親である資格、子が子である資格と言えば言えるんじゃないかな。子を慈しむとか、親を大切にするっていうのは、縁を縁だときちんと認識しているっていうそのことだと思うな」
確かにその通りかもしれないと怜は思った。おしなべてこの世のことは全て縁だと言えばそうも言えるけれど、しかし、普通の友人関係と親子ではやはり感覚が違う。少なくとも違うと感じるところがある。
「なんだか、おかしな気分になってきたよ」
「おかしな気分?」
「遊ばれている気がする」
「なにに?」
「何かに。強いて言えば運命にかな」
「全てが運命だとすれば、わたしたちにできることは何だろう」
「多分、できないこと以外のすべてのことはできるんじゃないかな」
そう言うと、怜は立ち上がって、環に向かって手を差し出した。
環はその手を取って立ち上がった。
「そうしようと思えば、手を取って帰りを促すこともできる?」
「その通り」
「わたしは拒否することもできるよ」
「じゃあ、どうして手を取ったんだよ」
「取りたかったから」
「謎めいた人だな」
「すごく明瞭な話だと思うけど」
怜は環の手を放すと、ベンチに敷いていたハンカチをしまった。
「じゃあ、帰るか。本当に今日はありがとう。助かったよ」
「どういたしまして。またいつでもお付き合いしますので」
そう言って、環は手を差し出した。
怜は、彼女の手を取って歩き出した。
その手を拒否しようと思えば拒否することもできたけれど、なぜだかそうしようとは思わなかった。