第250話:修学旅行シミュレーション1
宏人は、洗面台の前で鏡に映った自分の姿を見ていた。
どうにも決まらないような気がしたが、決まらないのが服のせいなのか、自分のせいなのか、それとも、その両者のせいなのかはよく分からない。
――まあ、いいや、そんな日もある。
「そんな日」が恋人の実家に結婚申し込みをしに行く日でなくてよかったと思いながら、宏人は家を出た。非常に運のいいことに、今朝は姉とのからみはなかった。ありがたいなあと思ってふと空を見上げると、どんよりとした雲である。宏人はボディバッグの中に入れた折りたたみ傘を使わなければいいがと思いながら、てくてくと駅まで歩いた。
今日はクラスの気の合う仲間と遠足に行くことになっている。どこへ行くのか? 遊園地? 動物園? アスレチック的なところ? ノー。寺である。来たる修学旅行に備えて、そのシミュレーションを行うということになっていた。寺なんてまるで興味が無いけれど、
「修学旅行の練習するなら、お寺とか神社がいいんじゃないの」
と言われれば、お説ごもっともと受け入れざるを得なかった。寺に興味が無いからと言って、別にあえて行きたいところがあるわけではないのだ。
駅まで歩きながら、宏人は、もしも今隣に「気の置けない」女の子でもいたらどうだろうかと考えてみた。藤沢志保の顔が浮かんだので、それを打ち消して、「可愛くてドキドキする女の子」がいたらと考えた。またもや藤沢志保がしゃしゃり出てきたのでデリートして、「守ってあげたいような女の子」という設定にしてみた。すると、親友の妹の顔が出てきたので、ようやくホッとしたけれど、果たして自分に彼女が守れるかと言えば、ちょっと微妙だった。この前は、逆に同情されているくらいである。
宏人は、自分の隣にいかなる好ましい女の子も設定することができず、落胆した。こうして、一人で生きていくしかないのだろうか。「おひとり様」とは偉大な言葉である。世の一人者に大いなる勇気をくれる言葉だ。しかし、それは誰かと一緒にいることもできるけれどあえて一人であるという意味で、宏人は使いたい。選択の自由の結果でありたい。そうでなければ、空しくはないだろうか。
駅の待ち合わせ場所につくと、宏人が最後だった。
「どうしたんだよ、ヒロト。なんか顔色悪いぞ?」
親友である富永一哉が言った。
「人生のつらさについて考えていたんだ」
「朝っぱらから?」
「こういうことは一日の中で一番体力があるときに考えるのがいいんだよ」
「まあ、それは任せるさ。じゃあ、ヒロトが来てようやくみんな揃ったから行こうぜ」
「オレが遅れたみたいな言い方するなよ。時間通り来たぞ」
「別にそんな言い方はしてないだろ。絡むなよ、ヒロト。花山、今日はヒロトの世話を頼む」
「えっ、わ、わたし?」
一哉に話を振られたショートカットの少女は驚きの声を上げた。
「藤沢とか二瓶だと甘えてグダグダになるだろうから、花山が適任なんだ」
何を言っているんだこいつは、と宏人は思ったが、当の少女が、
「分かりました」
と力強くうなずいているではないか。新参の彼女をみなになじませるのが今回の小旅行の目的の一つだったが、どうやら自分が到着する前に、早くもなじんでいたようである。そう思った宏人は、彼女のために喜んだが、要介護者扱いされてはたまらない。早々に機嫌を直すことにした。今日が生まれてきた中で一番いい日なのだと思いみなしてみる。いったんそう決めつけると、そんな気分にもなってきた。どんよりとした雲も、シンデレラの姉と同レベルの意地悪さを持つ姉も、自分にカノジョがいないことも全てが素晴らしいことのように思われてきた。
「さあ、行こう、みんな!」
宏人は拳を突き上げる振りをして歩き出したが、
「そっちじゃないわよ、倉木くん」
改札の場所を間違えて、志保に訂正された。
切符を買ってホームで待っている間、一哉と瑛子は、もう一人の新参である田沢くんに話しかけていた。話がはずんでいるわけではないようだが、コミュニケーションは取れているようである。
「大丈夫、倉木くん?」と花山さん。
「え、何が?」
「さっき、具合悪そうだったから」
「別にそんなことないよ。オレから元気を取り除いたら、頭が良くてイケメンで優しいところくらいしか残らないからさ」
「随分残っているね」
宏人は花山さんの横から、全く志保がツッコミを入れないのを指摘した。
「お前、ネコかぶってんのか?」
「倉木くん。『お前』っていう呼び方はやめてくださる?」
「なんだって?」
「『お前』なんて呼ばれたら、倉木くんのこと、『あんた』って呼ばないといけなくなるでしょ」
「いつもそう呼んでるだろ」
「呼んでない。いつも、『倉木くん』って丁寧に呼んでる」
「そうかなあ」
「だから、これからは、『藤沢さん』って呼んでもらいたいわけ」
「却下する」
「なんで?」
「呼びにくいし、なんかこう他人行儀だから」
「まったく、あんたは」
「ホラ呼んだ」
二人の掛け合いに、花山さんは笑っていた。
「二人って仲がいいんですね」
「なんだかそう見えるみたいなんだよなあ」
「今日来てよかったです」
「まだ何も始まってないよ」と志保。
「ええ、でも……よかったです」
来てよかったと言われるのであれば、来ない方がよかったといわれるよりいいことに変わりなく、宏人としてもよかったわけだけれど、これはもともと一哉の企画なので、自分の功績にすることはできなかった。
電車が来ると、それに乗り込んで、40分ほどの道行きである。
今度はもう一人の男子・田沢くんと宏人は話すことにした。
隣の席に座って話しかける。
共通の話題もあるかないか分からないので、ストレートに、
「きみのことが知りたいんだ」
とやると、見事にひかれたようである。
「それじゃ、告白じゃん。倉木くん」
前の席から、二瓶瑛子が笑っていた。
「コミュニケーション能力が低いんだよ。どっかに通おうかなって思ってる」
「そういう講座?」
「そう」
ここから瑛子との会話を始めてしまうことがよくないということが分かる程度には宏人にもコミュニケーションに関する知見があったので、きちんと彼の方に戻ることにして、好きなことを訊くことにした。
「それじゃ、お見合いじゃない」
という瑛子のツッコミをまた受ける格好だったけれど、とりあえず話をしなければどうしようもないわけで、相手に話してもらわなければどうしようもないわけだから、こうするほかないのだと宏人は自らに言い聞かせた。逆にどうやって瑛子と一哉がさっき彼に話しかけていたのか後で教えてもらおうと思った。
首尾よく、パソコンでゲームをやるのが趣味らしいということを聞き取ることができた宏人は、そのあたりの話は全く知らないので、逆に教えてもらうことにした。すると、やはり自分の好きなことは話しやすいのだろう、訥々とした語り口ではあるが、話してくれたので、それに相槌を打ちながら宏人は、やりもしないパソコンゲームの知識を増やしていった。
悪い子ではなさそうであるが、別にめちゃくちゃ気が合いそうなわけでもなさそうである。しかし、そこまでは望むべくもなかった。しかも、電車の40分で彼の人となりが分かったのだと判断することもできない。悪い子ではなさそうだということが分かっただけでよしとした宏人は、電車が目的の駅に到着したというアナウンスを耳にした。
到着した駅は我が町の駅よりは大分こぢんまりとしていた。宏人は40分間の屈託をやわらげるために電車を下りてから伸びをした。そうして、改めて神社に来る必要なんてあったのだろうかと思われたけれど、言葉には出さなかったし、態度にも出さなかった。
志保は歩きながらきょろきょろとあたりを見回していた。
「お上りさんっていうんじゃないか、そういう態度の人のこと」
「これから、参道を登るからちょうどいいじゃない」
「何見てたんだよ」
「弟にお土産を買っていこうと思って。どこで買おうかなと思ってただけよ」
「オレはアネキには何も買っていかない」
「それは好きにしたらいいんじゃない」
「薄情だと思うか?」
「可哀そうな先輩」
「じゃあ、大凶のおみくじでも土産にもっていってやろう」
「大吉が出たらどうするの?」
「お土産に持って帰るよ。隣の幼馴染に」
「女の子?」
「いや、男だよ。そして、アネキの婚約者」
「こ、婚約者?」
「だとアネキは思っている。そういう風に思われている時点でひどい不幸だろ。それを少しでも緩和してあげられればと思って、大吉をあげるよ」
「今から婚約者がいるってどんな気持ちだろう」
「いろいろと面倒なことが省けていいよな」
「倉木くんは、ロマンチックっていう言葉知らないの?」
「知ってたよ、去年までは。今年から分からなくなったんだ、誰かさんと出会ってから」
「こっちを見ないでよ」
えっちらおっちら表参道を登っていくと、その両隣に店が並んでいた。神に参拝に出かけるところに、どうしてこんなに現世の欲得を抱えているようなやつらがたくさんいるのか分からない。大いなる矛盾である。しかし、この矛盾こそが真実なのだろうか。
「帰りにここでアイス食べない、倉木くん?」
瑛子が言った。
「朝食べてこなかったの?」
「食べてきたよ。でも、アイスは別腹」
「確かに」
「賛成してくれる?」
「する、する。オレはラムレーズン味を取るよ。二瓶は?」
「えっ、同じ味にしちゃいけないの?」
「いけなくはないけど、アイスの味をおそろいにしたら、みんなから変な目で見られるじゃないか」
「そんなことはないと思うけど……でも、まあ、わたしあんまりラムレーズンは好きじゃないから、そもそも同じ味にすることもないけどね」
「大人な抹茶?」
「うーん……」
「シンプルバニラ?」
「どうかな」
「みんな大好きチョコクッキー!」
「惜しい」
「もう分からないな」
「やっぱり山塩だよ」
「や、やまじお?」
「そう」
「…………美味しいの?」
「お揃いにしてみる?」
「参拝が終わるまでに考えておくよ」