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プラトニクス  作者: coach
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第25話:禍福はあざなう

 オレンジ色の光が斜めに校舎の中に差し入っていた。一日の終わり。運動部はまだ活動しているが、文化部はもうそろそろ帰る時間である。文化研究部もその例外ではない。

マドカちゃん」

 部室から少し離れた所で、怜は、鞄を提げて廊下を歩く小さな背に、後ろから声をかけた。振り返った少女の顔が、窓から入る夕日に暖色に染まった。その穏やかな色とは対照をなすように彼女の瞳の色は鋭い。

「何ですか?」

 怜は勇気を奮い起こした。日ごろ眠っているものである。たまには目覚めさせておかねばいざというときに使えなくなる。

「一緒に帰らない?」

 少女の頭が下がった。ただし、それは承諾の印にしては下がりすぎていた。円は頭を上げると、

「すみません。今日は寄るところがありますので」

 そう謝ると、くるりと背を向けて離れていった。遠ざかる小さな背を見送って立ち尽くしていると、

「あーあ、振られちゃったね」

 怜の後ろから楽しそうな少女の声がかかる。怜は振り向くと、声の調子を面白くないものにして、

「なぐさめるとこだろ」

 言ってやったが、彼女は、

「一緒に帰る約束をしてる男の子が他の女の子を誘ってるのに、どうしてそんな気になる?」

 いたずらっぽく答えた。怜は肩をすくめると、帰るか、と彼女を誘って、廊下を歩き出した。鈴音は怜の横に並ぶと、

「ま、根気よくね。今はほら、わたしがいるから、タイミングも悪いし」

 と元気づけるように言う。

「それにしても、円ちゃん、可愛くなったわ。ついこの前までランドセル背負って、こどもこどもしてたのに」

「親しいんだな」

「自慢だけど、加藤くんよりもタマキとの付き合いは長いし、マドカちゃんとも仲いーよ」

 確かにその言葉通り、円は部活動の間、鈴音とは親しげに言葉を交わしあっていた。

「やだな、いてるの?」

 鈴音がからかいの言葉を投げてくるが、怜は否定しなかった。円の下の妹と仲が良いので欲が出てきたのかもしれない。

「わたし、(アサヒ)ちゃんとも仲いいよ」

 怜は怖ろしいライバルの出現にうめき声を上げた。

 その大仰な反応に顔を明るくしていた鈴音の顔が怪訝な様子を作ったのに怜が気がついたのは、校門でのことだった。人型の影が一つ地面に伸びている。おそらく三年生の男子である。どこかで見た顔だった。が思い出せない。悪いことにあちらは怜のことを知っているらしい。

「加藤」

 と話しかけてきた。怜はばつが悪い思いをした。誰だっただろう。脳内にあるデータベースを検索したが、ヒットするものがないので、素知らぬ風で、近づいてきた彼の制服についている名札を見た。そうして、ようやく思い出した。宮田(なにがし)――下の名前は覚えていない――は、去年のクラスメートだった。

「ちょっと時間あるか?」

 特別仲が良かったわけでもない彼の唐突な誘いに、怜は、悪いと言って首を横に振った。

「今は難しい」

「少しでいいんだ。ずっと待ってたんだから、少しくらいいいだろ」

 上から物を言うような口調がかんに障る。怜ははっきりと、

「悪いが改めてくれ」

 そう言って、鈴音を促すと、校門を抜けようとしたが、その前に宮田少年は立ちはだかった。行かせる気はないらしい。怜は小さく息をつくと、鈴音に少し待つように言った。先導されるがままに、校庭の片隅に来た怜は、宮田から興奮を抑えたような声で、

「お前と川名とのこと、知りたいんだけど」

 聞かれた。よくよく今日はこの件に縁がある日である。うんざりしたが、人は間違いから学ぶことができる。掃除のときの二の舞を避けるために、怜は、別れてはいないことを簡潔に告げた。告げたあと、かすかに苛立ちが胸を差す。よく知りもしない人間に何でこんな説明をしなければいけないのか。とかく世の中は渡りにくい。

「じゃあ、さっきの子はなんなんだよ?」

 用が終わり歩き出そうとした怜に、宮田はまだ用があるようだった。彼は立て続けに、

「お前、あの子とはどういう関係なんだ?」

 訊いて来た。怜は心中で舌打ちした。心中にとどめておけた自分を褒めてやりたい。

「川名と付き合ってるのにおかしいだろ。どういうことだよ。納得のいく説明をしろよ」

 自分の自制心をある程度信頼している怜にしても、我慢の限度というものがある。単なる昨年のクラスメートに過ぎない人間に愛想よく何でも答えなければならないのか? 答えはNOである。

「お前には関係ないだろ」

 強引に話を打ち切ろうとしたが、相手はしつこかった。

「あるんだよ」

 怜は先を促した。どういう関係があるのか言ってもらいたい。そうして大した関係でなかったら、さっさと解放してもらいたかった。

「……オレは川名のことが好きなんだ」

 怜は自分の察しの悪さを呪いたくなった。それならそれでもう少し対応の仕方があったかもしれない。

「だから関係ある。お前が別れたんなら、オレが付き合う」

 苦手なテンションだった。彼は何か勘違いをしているようである。恋愛ドラマの見すぎなのではなかろうか。ひどい男にはまっているヒロインを陰ながら見守る誠実な主人公気取りか。どこか他所よそでやってもらいたいものだ。怜には三文芝居に出演する気はない。「付き合う」宣言にしても、カッコいいセリフではあったが、宣言すれば良いというものでもない。お前の意志だけの話か、と怜は突っ込んでやりたい気もしたが、とにかくもう面倒であった。

「だから言ってるだろ。別れてないんだよ。悪いけど」

 怜はぞんざいに付け加えた。それが余計な一言だったと気がついたのは一瞬後のことだった。頬に衝撃を感じて、怜は思わず体を揺らした。足を踏みしめて体を支えると、今度は、頭をかばうようにして反射的に出した腕に一撃を受ける。

「むかつくんだよ!」

 大して聞きたくもない告白が、怜の耳に届いてきた。息を荒くしてこちらを睨みつけている少年の姿が怜の目に映っていた。口の中が切れたのだろう。口内に血の味が広がっていく。

「何でお前なんだよ? 何で川名はお前なんかと……」

 憎悪で瞳を燃やした少年がうわ言のように言っていた。

 殴られた頬の痛みを感じながら、怜の頭は醒めていた。環が自分ではなく怜を選んだことに納得がいかない。それは良い。世の中、納得の行かないことは多いものである。しかし、だからと言って、力を振るうのか。怜は拳を握り締めた。

「何で……」

 再び襲い掛かってくる気なら、ただ殴らせてやる気はなかった。が、彼は、一回殴って気が済んだのか、怜を強い目で睨みつけると、その場を離れて行った。

 頭は醒めていたが、その代わりに胸が悪くなった。吐きそうな気分である。憎悪を向けられたことが胸を悪くしていたのではない。そうではなく、むかつくから殴るという短絡的な行為をする人間が、自分を敵視していたことが不快だった。敵意は自分と同じレベルの人間に向ける。宮田あたりに同等に扱われたことがたまらなく不愉快だった。

 憮然とした表情で校門前に戻ると、怜を認めた鈴音が、目には心配そうな色を浮かべながらも、 

「男同士、拳で語り合って来たの?」

 冗談めかして訊いてきた。怜は、思わずかっとして、

「語り合った? 一方的に語られただけだ、面白くもない話をな!」

 吐き捨てるように言った。言って自己嫌悪の沼に落ちた。むき出しの感情を向けるということは、向ける相手への甘えが含まれているということだ。鈴音は甘えても良い相手だろうか。問うまでもない話だった。

 怒声を浴びても少女はひるんだ様子を微塵もみせなかった。彼女は鞄から取り出したハンカチを手早く水筒の水で浸すと、

「ハンカチが汚れる」

 と、怜が嫌がるのにも構わず、彼の口元を軽く拭った。

 ひんやりとした布の感触が気持ち良かった。

 数人の生徒が物珍しそうな目を二人に向けながら傍らを通り過ぎた。

「多分わたしの所為なんでしょうけど、謝れないわ」

 すぐ目の前から声が聞こえてくる。謝ってもらう必要などなかった。そもそも鈴音の責任などではない。しかし、自分の責任であると言えるほどには寛大な気持ちになれなかった。

 鈴音の家に着くまで、怜は無言だった。何も話したい気分ではない上に、常なら怜の言葉を引き出す少女が口を閉ざしているので尚更である。門前で、

「じゃあ、また、明日な」

 と、情けないことであるが、それだけ言うのが精一杯だった。

「加藤くん」

 歩き出した怜の後ろから声がかかる。振り向くと、すぐ目の前に鈴音が立っていた。怪訝な目を彼女に向けると、少女の肩が動いた。その白い手が、怜の頬に触れた。

「何も言わないで」

 怜が口を開こうとしたところを、鈴音は止めた。

「今はわたしの時間。わたしがしゃべる、あなたは聞く。いいわね」

 怜は仕方なくうなずいた。その素直な対応に気を良くしたような顔をした鈴音は、小さく咳払いをしたあと、

「あなたは何も悪くない。たとえ悪かったとしても、わたしはあなたの味方よ」

 いった。まっすぐに怜を見る瞳に澄んだ色があった。

「落ち込まないでとは言わない。でも、あなたを想う人がここにいることを忘れないでね」 

 一言一言が浸み入って、怜の乾いた心に潤いを与えた。

 柔らかな指が怜の口元から離れた。

「さ、いいわよ」

 彼女の時間は終わったのだった。発言を促された怜は、

「少し気が楽になった、ありがとう」

 素直な気持ちを伝えたが、

「ウソつき」

 鈴音は信じない素振りを見せた。

「本当だ」

「どうかな」

「少なくとも感謝の気持ちは」

「本当に?」

 怜が重々しくうなずくと、少女は口元を綻ばせた。

「良かった」

 ほっとしたように言ってから、

「わたしにはこれしかできない。でも、それでいいよね」

 鈴音はそう続けた。彼女の言葉には優しい響きがあり、その優しさは人を癒すことができるものだった。怜の胸にある暗く澱んだものが澄んだ明るさを取り戻しつつあった。ただし、それは怜の流儀ではなかった。澱みがあるならそれをさらうのではなく、その澱みを引き受けるのが彼の流儀である。しかし――

「たまには頭を撫でてもらうのもいいでしょ」

 どこかで聞いたことのあるセリフを言う少女。そう言ってにこりと微笑まれると、そんな気もしてくるから不思議だった。

「たまに、だったらな」

 怜が釘を刺すと、何度もこんなことしないわよ、と鈴音が請けあった。

「スズ、ありがとう」

 凝り固まった気持ちがほぐれたことが感じられた怜が感謝を伝えると、

「素直なあなたって素敵よ」

 とおどけた調子で鈴音が答えた。彼女に背を向けて帰路を取った怜は、先ほどまであった嫌悪感が確かに薄れているのを感じていた。本意ではないとしても、人が自分の為を想って、何かをしてくれたということは、やはり幸せなことである。その幸運を想うと、今日の不運があまり感じられなくなる。怜は現金な自分を笑う余裕ができているのに気がついた。殴られた頬は相変わらずずきずきと痛んだが、心の鈍痛は軽くなっていた。

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