第249話:ニヒリズムの一日
怜はときどき夢想することがある。
今の自分では全くない他の誰かに生まれていたらどうだっただろうかと。
時代も場所も性別も容姿も性格も人生観も全てが異なった全くの別人として生まれていたらどうだったか。
そんなことを考えては、今のしがらみから逃れることができたところを想像して、ちょっとだけ自由な気持ちになったあと、しかし、そのときでもやはり何やかや別のしがらみがあって、あるいはそれは今よりもひどいものかもしれず暗澹たる気持ちになるのが常だった。
ここからは逃れられない。
だからこその、ここではないどこかへ、ということになるのだろう。
「心ここにあらずっていう顔してたよ」
6時間目が終わったときのことである。
橋田鈴音に怜は話しかけられた。
「『総合』の時間に集中しろって言われても困る」
「どうして?」
「どうしてって、『総合』っていうのは、そういう時間じゃないか。集中を要しない時間。自由に物を考えられる時間」
「一応授業時間なんだよ」
「そうかなあ。だったら、今の『総合』の時間って何やってたんだ?」
「全然聞いてなかったの?」
「ほとんど」
「すごく大切なことをやってたんだよ」
「へえ」
「それについて、微に入り細に穿って説明してあげたいけど、掃除の時間だから」
「怪しいな。本当は何も大したことはやってなかったんじゃないか?」
「わたしのことを信じてないのね」
「少なくともオレ自身よりは信じているよ」
「信頼は時に裏切られるよね」
「だから価値がある」
「信じなさい。でも、裏切られても人を恨まないように」
「信じた自分の馬鹿さ加減を恨むよ」
「その方がすっきりしていていいよね、きっと」
怜は椅子から立ち上がった。
そこで授業終了の鈴が鳴った。
少し前に「総合」の授業は終わりを告げ、先生は終了時間前に優雅に教室を後にしていたのである。
怜は我が班が掃除を担当している裏庭へと足を向けた。
その隣に同じ班の少女がついた。
クラスメートで、常に学業成績において、学年一、二を争っている才媛である。
「加藤くん、大丈夫?」
「え、何が?」
「疲れているみたい。『総合』の時間、うつらうつらしていたよ」
「小谷の肩に寄りかかりそうになっていなければよかったけど」
「それは大丈夫」
「じゃあ、よかった。確かに疲れているのかもしれないな。小谷は?」
「わたし? 元気いっぱいだよ」
そう言うと彼女は軽くガッツポーズを作るようにして、自分のその所作に照れたような顔をした。表情を元に戻してから、
「中学三年間のうちで今が一番楽しいかもしれない」
と続けた。
楽しいことはいいことである。
「そりゃよかった」
「ありがとう、加藤くん」
「何が?」
「えっ?」
小谷さんは、びっくりしたような顔をした。
「何で驚くんだよ」
「おかしいよね……えーと、とにかく、ありがとう」
「意味が分からない」
「ごめん、そうだよね」
「まあ、オレが何か役立っていたならよかったよ」
怜は裏庭に出ると小谷さんと他班メンバーとともに草取りを始めた。秋も暮れかかってきたので、草の伸び具合はそれほどではなかった。怜は夏場と違って勢いを失った哀れな草を引っ張りながら、色々と今後の予定のことを考えていた。カノジョの妹をどこかに連れていかなければならないし、そのあとに、カノジョならぬ女の子を小旅行に連れていかなければならなかった。なかなか忙しい。問題はそれらのことではなくて、受験勉強をしながら、それらをしなければいけないというそのことだった。それで思い出した。そう言えば、カノジョに勉強を教えてもらうことになっていた。
予定がありすぎる。
一つ一つの予定は嫌なことでは全く無いが、それらがいっぺんにあるということは、やはりよくなかった。怜は空を見上げた。秋空は美しく澄んでいる。人といるのは、とりわけ気の置けない人といるのは悪くはないが、時には空と語り合う時間が必要だった。人は人無しでは生きてはいけないかもしれないが、常に人と一緒にいるわけにもいかないのである。そうすると、やはり考えるのは、祖父母の家だった。あそこで育ったわけでは全然無いが、なぜかあそこが自分の原風景であるような気がしている。
よくよくと考えてみるまでもなく、自分で選んだわけでもない場所に週5日、ざっと8時間拘束されて自分で選んだわけでもない人間と過ごさなくてはならないのだから、正気の沙汰ではなかった。おまけに給食も美味しくないと来ている。
草を取り終えた怜はゴミ袋に入れた。班全員のそれを集めると、焼却炉に持っていく係を、いつものように買って出た。さきほどの彼女が一緒に行くことを申し出たが、一つのゴミを二人で運んでいく必要はなく、怜は丁重に断った。
焼却炉まで行くと用務員さんの姿が見えなかったので、そのあたりに置かせてもらうことにして、教室へと戻った。掃除が終わると帰りのホームルームがあって、ようやく解放の時を迎えるというわけである。今日は部活には行かないことにした。申し訳ないと思わないこともないが、受験勉強をしなければいけない身なのである。
生徒用玄関まで行くと、待ち人はいなかった。環とはいつも待ち合わせをしているわけではない。怜は一抹の寂しさを感じながらも、同等にどこかホッとするような気持ちを抱きながら、帰路を取った。
学校の行き帰りが一日の中でわずかに自由になる時間である。
その時間を怜はゆっくりと楽しんだ。
途中、見事に黄葉した銀杏の木を見た怜は、そこから立ち去りがたくなった。
とはいえ、歩みを止めるわけにはいかないので、そのまま歩みを進めることしばらくして、家に到着したのだった。到着してしまった。深呼吸してから、玄関ドアを開き、
「ただいま」
と母に声をかけた怜は、自室に戻って制服を脱いでリラックスした格好に着替えた後、勉強道具を持ってリビングに下りた。最近はいつもここで勉強をするようにしていた。もちろん母へのアピールのためである。そうして1時間ほど勉強していると、
「ただいまー」
と妹が帰ってきた。彼女は兄を一瞥したのみで、特に声もかけないでいると、
「シャワー浴びてくるね」
と部活動の汗を流してくることにしたようである。このあたりが潮時だと思った怜は、また何かしら妹との不毛な掛け合いが始まる前に、自室に引っ込むことにした。夕食にはまだ1時間半ほどある。もちろん勉強するつもりである。それしかない。
暗くなってきたので部屋の電気をつけた怜は、机について勉強を再開した。この作業を悠々と行って、結果を出し続ける掃除の時の彼女、小谷舞のような人種を、怜は心の底から尊敬した。そうして、仮にこの作業がうまくいって志望校に合格できたとして、その後3年間また同じ作業をしなくてはならないとなったときのことを思い暗い気持ちになった。今日はよく暗い気持ちになる日である。
いつも通りの時間に帰宅した父を加えて、家族で夕食を取る。特に楽しい会話はなく、妹が今日一でムカついたことを話す機会だけがあった。
「『総合』の時間に男子が騒いでて、それでとばっちりを食って、クラスみんなでお説教を受けたんだよ。そんな全体責任みたいなのって、おかしくない!? その騒いでた男子だけを呼んで、別に注意すればいいのに。あー、ムカつく。来年は絶対あの先生はヤだな」
「都、先生に向かってそういう言い方はどうなの?」
母は注意したが、妹は聞かなかった。
「『先生』っていうのは、ただわたしより『先』に『生』まれたってだけでしょ。それで偉そうな顔されても困るし」
「なんてこと言うの、あなたは」
「だって、その通りじゃん。わたし、先生なんて全然偉いなんて思ってないし。ただ、従わないと面倒くさいことになるから従っているふりしているだけだよ。で、それってわたしだけじゃなくて、ほとんどの子がそうだと思うよ。たまーに好きな先生がいて尊敬できる人もいるけど、それって100人に1人くらいじゃないかな」
「まったく……あなたからも何とか言ってください」
怜は父が何かを言い出す前に、ご馳走様と言って、食卓を後にした。父が妹にするかもしれない説教をこっちも聞くとしたら、それこそ全体責任ではないか。こういうとき、受験生はいい。夕餉の食卓を早々に立っても、「勉強するから」と言い訳が立つ。しかし、逆に言えば、それはそれくらいしかいいところが無いということでもある。
歯を磨いて、シャワーを浴びてから自室に戻って、勉強を再開する。
そうして1時間ほどすると、怜は頭痛を感じた。常に無いことだけれど、1年に2、3回はそんな日があるのだった。こういう時は、早めに寝るに限る。まだ10時だったけれど、早々に休ませてもらうことにした。ベッドに横になると、頭痛はひどくなった。気を紛らわすために、怜は、スマホを使って動画サイトから適当な音楽を聴いた。音楽は昔の名作ゲームの音楽らしい。一度もやったこともないゲームの音楽に集中していると、体の欲求なのかどうか分からないが、夢の世界に片足を入れることができそうである。
この頭痛が仮に明日まで続くと面倒なことになる、と怜は思いながら、夢の世界の襲来を見た。
朝起きると見たはずの夢は覚えていなかった。話によると、目覚めるタイミングで、夢を覚えているかどうかが決まるということである。ありがたいことに頭痛は消えていた。昨夜のそれは、もしかしたら体からのメッセージだったのかもしれない。
「もうちょっとおれを気遣え」
という。
まことに申し訳ない思いながら、受験までは無理を聞いてもらうほかなかった。とはいえ、昨日のような頭痛にまた襲い掛かられては厄介なので、何かしらの対策をスマホで調べることにした。本当にこの装置は便利である。人生で知るべきたった一つのこと以外はどんなことでも教えてくれる。それゆえに大した価値がないものだとも言えるのだけれど、おおよそ価値が無いもので構成されているのが、人生なのだった。