第248話:ある秋の休日 ~椎名巧の場合~
巧は、その日、映画を見に街に出た。母親から前売り券をもらったのである。映画を観たい気分でもなかったけれど、
「家に閉じこもってばかりいないで、たまには遊んできたら」
とお小遣いまでもらっては行くしかなかった。特に部屋に引きこもっているわけではないと思うが、親からはそのように見えるらしい。あるいは、彼女自身が中学生の頃、自由奔放な生活をしていたのかもしれず、それと比べてみると我が子が大人しいといったことかもしれなかった。
外に出てみると気持ちのよい秋晴れである。自転車を使ってもよかったけれど、巧は歩くことにした。一日使うつもりになれば時間はいくらでもある。バス停まで歩いて、バスに乗って街までゆっくりと行くことにする。街に向かうと、巧は以前にここに来た時のことを思い出した。その時は女の子に声をかけたことで、その子と一緒にランチをとることになったのだった。そういう風に言えばナンパエピソードだが子細があった。しかし、それを語るつもりはない。自分の胸にだけ秘めておきたい話というものがあって、巧にとってこれはその類である。
映画館は、駅の近くにある。
バスに乗って駅まで行ってから、駅前に至る大通りを少し戻る格好にして横に折れ、歩行者天国になっている通りへと進む。ちょこちょこと学校で見た顔を遠目にしたが、こちらから声をかけることはしなかった。そこまで親しくもないので、声をかけたからどうということもなかったからである。もちろん、向こうから声をかけられたら応じるつもりだったし、別にこそこそしたわけではないけれど、幸か不幸か、お互いの顔がはっきりと分かるほど接近することはなかった。
上演時間の少し前に映画館に着いた巧は館内に入って待った。人気の映画のようだけれど、特に混んでもいないのは、たまたまなのか何か理由があるのか、そんなことを考えるでもなく思いながら時間を迎えると、巧は重たいドアを開いて室内に足を踏み入れた。すると、ちょこちょこと後から入ってきた客が、結局はシートの8割ほどを埋めるような格好になった。
広めのシートに腰を下ろした巧は、背に負っていたボディバッグを前に回す格好にして、スクリーンに向かった。映画は、一度人の道を外れた男が更生してまっとうな人間として社会生活を送るようになるまでを描いた感動ものだった。巧は特に感動はしなかった。というのも、更生した人間が素晴らしいのであれば、もともと道を外れることなく普通に生きている人の方がよっぽど素晴らしい理屈であり、そんな人はそのあたりにゴロゴロいるからだった。クライマックスの頃、館内ではすすり泣きの声が聞こえてきていたが巧にとっては、ちょっとしたホラーである。感動ものを観に来てホラー体験をするとはまるで意味が分からない。
エンドロールでグズグズせずにすぐに館外に出た巧は大きく伸びをした。まあ気分転換にはなった。それだけで十分だろうと思った巧は映画を見て親への義理も果たしたことだし、このまま帰ろうかと考えた。そこで、ふと周囲を見回した。そうして、自分と同じように映画を見終わった人たちが三々五々散会していく様子を見ながらおかしくなった。彼らを笑ったのではなくて、自分の心持ちを笑ったのである。以前に会ったことがある彼女の姿を雑踏の中に探していたのだった。
――そんな歌が何かあったな。
今はもう会えなくなった恋人をつい街中で探してしまうといった内容の歌を巧は思い出した。巧の場合は、彼女に会えないということは全然無くて、学校で会おうと思えばいつでも会うことはできた。しかし、学校で会うためには会いたいという気持ちをあからさまにしなくてはならず、それがどうにも気恥ずかしいというところがある。もしも、このあたりで会うことができれば、
「こんなローマの街中で会えるなんて偶然ですね。お茶でもしませんか?」
と誘いやすい。以前は彼女に誘われた格好だったのだから、今度はこちらから誘ったって構わないだろう。自然である。
――いや……。
巧は自分の小心に対して首を横に振った。人を誘いたいのであれば、「自然に」などということはありえないのだった。どうしたって誘いたいという気持ちを出す必要がある。それで恥をかくのだったら恥をかく覚悟をして誘うしかない。「自然に」などということを待ってくれるほど人生は長くはない。
「タクミ」
歩行者天国を歩いて戻り大通りに出ようとしたところで、見知った顔に呼び止められた。
「ケン」
去年、2年生の時に同じクラスだった男子である。彼は人好きのする笑みを浮かべると、
「こんなところで何を?」
と訊いてきた。
「偶然の出会いを求めに来たんだ。もう帰るところだけど」
「ナンパか。意外だな」
「ケンは?」
「親の使いっ走りだよ。この辺にある焼菓子店のドーナツが食べたいって言われて、買いに来ているところなんだ」
「何か特別なの?」
「揚げないで作るドーナツらしくて、普通のものよりヘルシーなんだとさ。本当にカロリーのことを考えるんだとしたら、そもそもドーナツを食べない方がいいと思うけどな」
「それが女心なんだね」
「頼んできたの、オヤジだぞ」
「お父さんの依頼を引き受けるなんていい息子してるね、ケン」
「ところがそうでもない。ちゃんと手間賃は貰ってるからさ」
巧は少し考えたあとに、
「もし邪魔じゃなかったら、オレも一緒に行っていいかな。母親にでも買っていくよ」
と言った。
「タクミの探している運命の人ってオレだったんじゃないか?」
「だとしたら、オレとしては非常に助かるね。ケンだったら気心も知れているし。ただ、倉木さんにかなり恨まれることになるな」
「オレは別にヒナタのものじゃないよ」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
「そんな風に見られてるとはな」
「みんな信じたいんだよ。幼なじみが付き合って結婚するっていうストーリーが現実にあるっていうことを」
「そんなモデルケースにされたらたまらないよ」
「でも、もしそうなったら、ケンはそれを受け入れそうな気がするな」
「なんで?」
「そうしないところが想像できないし、そもそもそうしない理由が無いじゃないか」
「やれやれ。オレのことより、タクミのラブストーリーを聞きたいんだけど」
「話すだけのことができたら話すさ」
焼菓子店はこぢんまりとしてはいるものの、販売スペースの他に、飲食できるテーブルが二つほどあった。
「よかったら、食べてかないか。オレがおごるよ」
巧はそんなことを言ってみた。
「えっ、ここで?」
賢は驚いたような声を上げた。
「そう。ちょっと多めにお小遣いを貰って持て余しているんだ」
「いつかのデート代に取っておいた方がいいんじゃないか?」
「いつかのデート用にしてもいいかもしれないけれど、ここでケンに使うのも同じくらい価値があるよ」
「こういうところで食べるのは久しぶりだなあ」
「もしよければだけど」
「条件がある。自分の分は自分で払わせてくれるなら、食べるよ」
「ありがとう」
「どういたしまして」
巧は受付のお姉さんに、紅茶とドーナツのセットを頼んだ。賢も同じものを頼むのを確認すると、テーブルに着くことにする。紅茶とドーナツはすぐに運ばれてきた。テーブル席と販売スペースは一応区切られてはいるもののゆるい仕切りなので、ともすると、販売客と目が合うような造りである。
「タクミには悪いけど」
「いや、実はオレもそう思ってたんだ。ちょっと落ち着かないね、この造りは」
「オレ自身も陳列されてるドーナツのような気分になってくる」
そのドーナツはしっとりとしていて、食感はスポンジケーキのようだった。確かに健康には良さそうだけれど、これを食べるなら多少カロリーを気にしても普通に揚げたドーナツを食べた方がいいのではなかろうかと巧は思った。
「ヘルシーさと美味しさっていうのは、トレードオフなのかな」
「トレードオフって?」
「どっちかしか成立しないってこと」
「ああ、なるほど……でも、そういうわけでもないんじゃないかな。ヘルシーでかつ美味しいっていうのもあるんじゃないか」
「たとえば?」
「果物とかは全体にそうだろうし、野菜だってそうだろうから」
「なるほど。こういうスイーツに限っては当てはまらないのかな」
「いや、もしかしたら当てはまらないのはオレたちの方かもしれない」
「なるほど。ところで、橋田さんの旅行の件だけどオレとヒナタも参加させてもらうことになったよ」
「聞いたよ」
「邪魔じゃなかったらいいけど」
「全然邪魔なんかじゃない。むしろ、ケンがいてくれないと、オレが話せるのがレイくらいになる」
「タクミはそれでも別に構わないような気もするけどな」
「それはケンも同じじゃないかな」
「恋愛対象が男の子っていうのはありだろうか」
「別に構わないんじゃないかな。世の中的にも受け入れられつつある」
「その受け入れられつつある世の中だっていうところが結構重要な気がするな」
「そうだね。誰も生まれ育った社会と別に生きられはしないからね」
「だとすると、これは運命だったのかもしれない」
「美しい言葉だね」
「美しさっていうのは残酷なことでもあるよな」
「もしかしたら、生まれてきたこと自体が残酷なのかもしれない」
巧が言うと、賢は紅茶を口に含んだ。
「残酷な状態にしては、美味いな、これ」
「確かに」
紅茶を飲み終えて店を出た二人は、そのまま歩行者天国も出て駅前大通をさかのぼり、大きな交差点で別れた。
巧はお土産のドーナツの袋を手に持ちながら、家に向かってのんびりと歩いた。さっきの彼と親しくなったのは、別の少年のおかげであって、その少年に対しては格別の思いがある。それが恋心なのかどうかは現在の社会状況と切り離しても分からないけれど、巧にとって決定的に重要な気持ちであることは確かだった。
――覚えず君が家に至る、か。
巧はその彼から教わった漢詩の一節を思い出した。美しい風景を見ているうちに友人の家に着いてしまうという内容だったけれど、あるいはもしかしたら友人の美しさが風景を美しく染め上げているのではなかろうかと思った。としたら、覚えずというのはウソで、本当はそっちにいきたかったということにはならないか。
巧は、ついそちらに向けようとしていた足を帰路へと戻した。そうそうアポなしで突撃していたら迷惑だと思われるだろう。彼の気持ちを脇にしたとしても、そこには彼だけが住んでいるわけではないのである。暮れなずむ秋の日の下を巧は大人しく家へと戻り、揚げていないドーナツを母にあげることで、息子としての評価を上げたのだった。