第246話:ある秋の休日 ~平井七海の場合~
その日、七海は、バスでちょっと遠くにある自然公園に来ていた。そこは、緑溢れる広大な公園で、子どもの遊び場から、トレッキングコース、植物園まで揃っていた。たまに心を空っぽにしたいときにここに来るのである。近頃、彼女が属する俗世間は中々にせわしなくて、多少心がよどんでいるような気がした。そういうときにはここに来て、人間のいないところで清々するのが彼女の流儀だった。
「いいところでしょ、アンコ?」
しかし、今日は彼女一人ではなくて、友人を帯同していた。誘ったわけではなくて、たまたま今日の予定を聞かれたときに、隠すことでも無いから正直に話したところ、友人も行くと言い出したのである。本当は一人で来るのがよかったのだけれど、気の置けない友だちなので、一緒にいても障りになることはなさそうだった。
「フリスビーでも持ってくればよかったね」
友人の田辺杏子はそう答えてから、リュックを背負い直した。
七海は微笑みながら、
「身軽な格好でいいって言ったのに」
と言った。
「だって、アップダウンあるんでしょ?」
「街中だってアップダウンくらいあるでしょ」
「そうだけど、念には念を入れたの。歩いているときに、雨が降って来るかもしれないじゃん」
「で、折りたたみ傘を?」
「レインコートだよ。ナナミの分もあるから」
「わたしの分まで?」
「だって、ナナミ、自分で持ってきてないでしょ?」
「無いよ。今日、降水確率ゼロバーセントだよ」
「天気予報なんて当てにならないでしょ」
「疲れたら代わるからね」
「大丈夫。こう見えて頑丈だから」
「分かった。じゃあ、行こう」
七海は友人を先導する格好で歩き出した。初め道はアスファルトだったが、そのうちに土の道になった。夏には水芭蕉を咲かせている池を通り過ぎると、林の中を行くことになる。晩秋に差し掛かった日はそもそも強くない上に、その日も遮られてしまうことで林の中は随分と涼しかった。ややもすると寒いくらいであるが、歩くのにはちょうどいい。
「空気が美味しいね」
友人が言って、
「ここナナミの秘密の場所とかだった?」
続けた。
「別にそんなことないよ。でも、あんまり人と一緒に来たことはないかな。登山に興味ある子はアンコくらいじゃない?」
「登山には別に興味無いよ」
「運動不足解消?」
「それもあるかな。この頃、ちょっとお腹周りがやばいしね」
「全然そんな風には見えないけど。脱いだら凄いの?」
「凄い凄い。驚くと思うよ」
「じゃあ、ここで運動したら温泉にでも行く?」
「着替えを持ってないよ。タオルも」
「残念。じゃあ、今度にしよう」
二人が歩いている道は急な登り坂となった。道幅は広いので脇から転がり落ちる心配は少ないけれど、ガードレールのようなものは無い。杏子は息を切らしながら、
「高くなってきたね。どこまで上がっていくの? 雲の上まで行くんじゃないの?」
と登り始めて5分もしないうちに弱音を吐いた。
「もうすぐ着くよ、頂上に」
「もうすぐって何秒後?」
「子どもみたいなこと言わないでよ。でも、ほら、着いたよ」
「えっ、着いたの?」
「よかったね、雲の上まで突き抜けなくて」
林を抜けると二人は再びアスファルトの道へと出た。ここは歩道兼、関係者用車道のようであり、軽トラがゆっくりと向かってくるのが見えた。それを避けた後に、七海は杏子とともにさらに道を先へと歩いた。紅葉が盛りの時期を迎えており、道行く木々はまるで燃えるようである。世界は美しい、と七海は感じた。それは街中でも感じることはあるけれど、やはり自然が多いところの方が感じやすいのだった。
「ちょ、ちょっと休憩しようよ、ナナミ」
45分ほど歩いたところで、相棒が音を上げた。
「だらしないよ、アンコ」
「だらしなくないよ。わたし、文学少女なんだから。むしろ、ここまで歩いたことを褒めてもらいたいよ」
「じゃあ、そこのベンチで休もう」
道沿いに何基かベンチが用意されており、道行く人を適度に休ませられる作りになっている。
七海はその一つに友人を導いた。
「ああ、疲れた。よっこいしょ」
「アンコ、おばあちゃんみたい」
「ちょっと! 当年とって15歳のわたしに対してなんてこと言うのよ!」
「はいはい、じゃあ、水分補給しましょうね」
「ちょっと歩き慣れてるからって、上から目線で見ないでよね」
「目線だけ上からなんじゃなくて、ウォーキングに関してはわたしの方が上なの。だから、目線も上からになる。理屈でしょ?」
「うー……」
「どっかで、タヌキが鳴いてる」
「タヌキなんか鳴いてない! 可愛いウサちゃんが鳴いているの!」
友人が憤慨するのを横目にして、七海は背にしていたスポーティバッグからペットボトルを取り出して、キャップを外しミネラルウォーターを飲んだ。友人は炭酸飲料を飲むようである。
「それが太る元なんじゃないの?」
「ほっといてよ。この一杯があるから生きていけるんだから」
「将来アル中になるアンコを引っぱたいて止めてあげる訓練を今からしておかないと」
「何でわたしがアル中になんてなるのよ!」
「そういう感じのセリフだったよ、今の」
「別に普段から飲んでいるわけじゃないからね。こういう運動をしたあとは欲しくなるの。ナナミだってたまには飲むでしょ?」
「三ヶ月に一回くらいはね。でも、ただの炭酸水の方が美味しいかな」
「気取っちゃって」
「本心よ」
座っているベンチからは遠くの山並みがよく見えた。赤や黄に染め上げられた山々は見事なパッチワークである。いつまで見ていても見飽きない風景がそこにあった。
「こういう風景を自分の部屋から見ることが毎日できたら、どんな人生になるんだろう」
七海は言った。
「風景で人生変わるかな」
「変わるよ。自分が生きている世の中の外側にこんなに美しい世界があるっていうことを知ることができたら、生活することなんて大したことないことのように思えるでしょう」
「それって逃避じゃない?」
「アンコは本が好きでしょ」
「うん」
「読書って逃避?」
「それは……違うかな。本はわたしのもう一つの世界だよ。たとえ昔の映画みたいに本の中に本当に入って行くわけにはいかないとしても」
「そうでしょ。わたしのこの景色も同じだよ。決してその中に入っていくわけではないけれどね」
「なるほど」
「そろそろ行こうか」
七海は立ち上がった。
「え、もう?」
「あんまり休みすぎると歩き出したくなくなっちゃうよ」
「分かったよ。よっこいしょ」
「大丈夫? アンコおばあちゃん?」
「こういうかけ声をかけると体に負担をかけない、っていうのをこの前本で読んだの!」
「今度、アンコにはあれあげるよ」
「なによ?」
「あれ、あれ」
そう言って七海は遠くからこちらに歩いてくるお年寄りの集団に軽く手を向けるようにした。きちんとした山歩きの身なりをした彼らは、スキーのピックのようなものを両手にして、それで地面を突くようにしながら整然と歩いてきた。
「い、いらないよ、あんなの!」
「あんなのっていうのは、お年寄りに失礼なんじゃないの」
「じゃあ、ナナミが使えばいいじゃん!」
「必要になったら使うわよ。無理したっていいことないからね」
「うー……なんかまた負けた気分」
「何も戦ってなんかないよ。じゃあ、行こう」
七海は友人を伴って歩き出した。老人の集団に挨拶をしてからアスファルトの平坦な道をしばらく歩くと、道は土に変わって、再びまた林の中へと入る格好になった。さっきの林とは違って、木々はまばらであって、青空も覗いており、空気は明るかった。どこからか子どもたちの騒ぐ声が聞こえてきている。聞いているだけでこちらも楽しくなるような声で七海の足取りは軽くなった。
途中にこぢんまりとした温室があって、中には熱帯の植物がいくつかあるようである。
「寄ってこうか、アンコ」
息を切らし始めている彼女を導くと、色とりどりの植物が迎えてくれた。どれもこれも日本ではまず見かけない植物でそれはそれで興味深かったけれど、何も日本に取り寄せなくてもいいのではないかとも七海は思うのだった。
「育った場所と切り離して、こんな温室に閉じ込めるなんて、罪じゃないかな」
「詩的なことを言うね」
「存在が詩みたいなものだから」
「誰の言葉?」
「言葉は誰のものでもないよ、アンコ。誰かの言葉が分かるっていることは、その言葉が自分のものでもあるっていうことでしょう?」
「それ自体がいい言葉だね。メモしとこうかな」
「もう一回言う?」
「うん」
「汝自身を知れ!」
「そんなこと言ってなかったでしょ!」
温室をあとにした七海たちは、再び疎林にもどって、軽く空を見上げるようにしながら歩いた。胸一杯に吸い込んだ森の空気は爽やかに甘く、体の中から綺麗になるような気持ちだった。
「これからは、もうちょっと運動しよう」と杏子。
「そんなに運動って必要無いらしいけどね」
「それも本で読んだけど、でも、毎回ナナミの足手まといにはなりたくないからね」
「また付き合ってくれるんだ」
「もちろん」
七海は急に立ち止まった。
杏子も立ち止まると、
「ど、どうしたの?」
驚いた声を出した。
「アンコに言っておきたいことがあるの」
「え、な、なに?」
「ありがとうね。今日一緒に来てくれて」
「え? べ、別にそんなの何でもないよ。てか、わたしの方から来たいって言ったんだし」
「心配してくれたんでしょう、わたしのこと」
「……あからさまだった?」
「アンコは優しいから」
「バレたならさ、もう思い切って訊くけど、大丈夫なの? いろいろ」
「大丈夫よ」
「よかった……本当はちょっと心配してたのよ。山に登るとか言い出すから」
「わたしが山で遭難するニュースが頭に浮かんだと」
「まあ、ね」
「多分、自分自身のことがどうでもよくなるっていうことは無いと思うから、安心して」
「ならいいけど。ナナミってタフそうに見えて意外とセンシティブだから」
「なんで英語?」
「言いにくいことを言うときに、英語って便利だと思わない?」
「それが外国語の利点かもね」
「とにかく、わたしを心配させたくなかったら、これに懲りずに一緒に遊ぶこと。いい?」
「了解。じゃあ、今度は温泉ね」
「そっちは楽そう」
「山奥の温泉だったらどうする?」
「そこまで歩くとか言わないよね!?」
「さあね」
七海は歩き出した。隣に友人が来るのを認めながら、七海はこのままどこまででも歩いていけそうな気がした。やがて林は切れて、再び空と山並みの見事なハーモニーを見た。人外にも世界があることを知っていれば何があっても生きていける気持ちを、七海は新たにした。