第245話:ある秋の休日 ~伊田綾の場合~
その日、綾は隣市で開かれたクラシックコンサートに来ていた。クラシック音楽が、特別に好きというわけではない。父が経営する会社がこのコンサートを後援しており、父が招待客になっているので、そのお供として来たのだった。週に一回しかない日曜日、綾にも予定が無かったわけではないが、たまに自分の予定をキャンセルして付き合うくらいはどうということはない程度には、父親のことが好きだった。
綾は椅子の上で体を少しずらすようにした。
ステージでは今、ピアノとバイオリンの二重奏が行われていた。数人の演者による代わり代わりの演奏の予定時間は90分だったが、すでに演奏開始から2時間を超えていた。アンコールを演奏してくれた上のさらなるサービスタイムである。地方のこぢんまりとしたコンサートだからこそ、このようなことも許されるのだろう。司会者も演者もノリノリだったけれど、綾は疲労を感じていた。もともと、クラッシックがそこまで好きというわけではない上に椅子も上等とは言いがたい、ちょっとした拷問のように感じ始めたときに、ようやくコンサートは終わりを告げた。
「昔のサロンもこのように音楽を聞くのが好きな方々と音楽を演奏するのが好きな演奏家で、時間を忘れて和気あいあいとやっていたんでしょうなあ。実に楽しい時間でした。みなさん、また是非お会いしましょう」
MCは気楽なことを言って、会を締めた。綾は、昔のサロンは音楽を聴きながら飲んだり食べたりできたからいくらでも演奏を楽しむことができたでしょうねと、やや皮肉な気持ちで考えながら立ち上がった。隣で同じように立ち上がった父が、
「いや、いい演奏ではあったけれど、さすがにぶっつづけで2時間は疲れたな」
と言った。おそらくは同じ思いを抱いているであろう人たちと一緒に会場を出ると、
「出演者のみなさんに挨拶してから帰ろう」
と父が続けた。挨拶は演奏前にもしたのである。もう一回されても向こうとしてもありがた迷惑……と言うよりはありがたいことなど何一つ無いのではなかろうかと思ったけれど、綾は何も言わず父に従って演奏会場の脇にある関係者専用の通路を歩いた。突き当たりにドアがあって開くと、控え室である。そこには、今まさに演奏を終えた演者たちの疲労と高揚が混ざり合った顔があった。
「いやあ、本当に素晴らしい演奏でした。後援者の一人として誇らしい気持ちでいっぱいです」
父は感動したような声を出した。演者の面々は皆感謝の言葉を返しつつも、それほど感動した様子でも無い。それはそうだろう。いくらスポンサーだからと言っても、控え室では部外者と変わらない。それでも父は二度目の挨拶をできたことに満足したらしく帰ろうとしたところで、
「おっ、恭吾くんじゃないか」
開いたドアから入ってきた少年に対して小さく驚きの声を上げた。綾と同い年くらいの少年である。コンサートにふさわしいきちんとした身なりをしているが、服を着ていると言うよりは服によりかかられているといった趣だった。
「伊田さん」
彼は知り合いを見つけたためかホッとしたような顔をした。
「お父さんと一緒かい?」
「いえ、お父さんは今日来れなくて、それでぼくを代わりに寄こしたんです」
「そうか、そうか。じゃあ、役目を果たさないとな」
父は出演者に彼のことを紹介した。どうやら、父以外の後援者の息子らしい。つまりは、綾と同じ立場である。出演者とのやり取りを終えたあと、父は、
「娘とは初めてだったかな、綾だよ。綾、彼はわたしの取引先の息子さんだ。進藤恭吾くん」
と二人の仲介を行った。
綾は、
「伊田綾と言います。父がお父様には大変お世話になっています」
と挨拶すると、彼は、「こ、こちらこそ。お父さんにはよくしてもらっていて……」としどろもどろになった。
「恭吾くんも今中学三年生だったね。だったら、綾と同じだ。どうかな、これから若い二人で、中学校生活のことや趣味のことでも話し合ったら」
父が朗らかな声を出した。
綾はさすがにうんざりした。そこまで父に付き合う気は無い。
「お父さん。それはまた今度の機会にさせてください。進藤さんだってお忙しいでしょうし、それに、わたしとの約束忘れたの?」
「約束? 何だったかな?」
「もう! これから服を買いに行く約束でしょ」
「そんな約束したか?」
「しました」
「そうか……すまん、恭吾くん。また、今度ゆっくりな。お父様によろしく」
「は、はい」
綾は自分に向けられる彼の視線に熱を感じて気分を悪くした。そのまま、父を伴って会場を出ると、仲秋の空は高く青く澄んでいる。時刻はまだ4時前で、暗くなるまでもう少し時間があった。
「いい男だろう、恭吾くんは」
車に乗ってから父が言った。
「お父さんの取引先の息子さんを悪く言いたくはないけれど」
「気に入らなかったか?」
「特に魅力は感じなかったな」
「そうか……」
「ねえ、お父さん。この際だからはっきりさせておくけれど、お見合い相手は探してないからね」
「な、何を言っているんだ。そんなつもりはないよ。綾のことは、嫁にやりたくないくらいなんだからな」
「そう? やりたくはないけれど、やるなら条件がいいところにやりたいと思っているんじゃない?」
「お、おいおい、そんなことはないよ……でも、恭吾くんは気に入らなかったと」
「はっきり言うとそうね」
「じゃあ、綾のお眼鏡にかなうのはどういう子なんだ」
「言ってもお父さんには分からないと思う」
「そんなことはそれこそ分からないじゃないか。おれは綾の親なんだぞ」
「じゃあ言ってみる?」
「ああ」
「毎日がその日一日しか無いっていうことをきちんと意識して生きている人だよ」
「…………」
「車を出して。お父さん」
「もうちょっと解説してくれないか?」
「それ以上言いようがないよ。もういいでしょ」
「服を買いに行くんだったな?」
「服はいいよ。十分すぎるほど持っているから」
「でも、さっき言ってただろ」
「さっきはさっき、今は今。さ、帰りましょ」
発進した自動車は国道を軽快に走ったが、10分ほどで停まった。
停まった車の前に一軒のカフェがある。
「ここから家まで1時間くらいあるからな、ちょっと栄養補給をしていこう。チーズケーキがうまいらしい」
父が言った。
「わたしはいいよ、晩ご飯が食べられなくなっちゃうから」
「娘が食べてないのに、父親だけ食べていたら、恥ずかしいじゃないか。綾がお父さんを誘っているていにしてくれないか?」
さっきのお詫びというわけではないけれど、綾は父の言う通りにしてやった。観葉植物をたっぷりと配した店内は、まるで植物園に来たかのような錯覚を抱かせた。綾は若い女性店員に、チーズケーキとコーヒーを2つずつ頼むと所在なげに店内を見回したところ、我が目を疑った。学校の知り合いの子がいたのである。彼女もこちらに気がつくと、微笑して軽く会釈してきた。
「お父さん、ごめんなさい。友だちがいたから、ちょっと挨拶してきてもいい?」
「男の子か?」
父の目が輝くのを見た綾は、「女の子だよ」と言って、立ち上がった。
綾は、彼女とその母親らしき人の座っているテーブルに近づいた。
すると少女は立ち上がった。「こんにちは、伊田さん」
「もしかして、橋田さんもコンサートの帰りなの?」
「うん」
「こんな偶然ってあるんだね」
そこで橋田さんは連れの女性に目を向けると、
「お母さん、同じ学校の伊田さん。タマちゃんの親しいお友達だよ」
と綾を紹介した。そのあと、
「伊田さん。わたしの母です」
と母親を紹介してきた。
綾は、
「伊田綾と申します。橋田さんとは学校で仲良くさせていただいています」
と言って綺麗に頭を下げた。
「こ、こちらこそ。仲良くしてくださってありがとうね、伊田さん」
面食らったような声と共に橋田さんのお母さんは立ち上がると、
「鈴音、もし伊田さんがよかったらテーブルをご一緒させてもらったらいいんじゃないの?」
と続けた。
「お母さん、伊田さんにご迷惑だよ」
鈴音の、母親をたしなめるような言葉に対して、
「全然迷惑なんかじゃないよ。橋田さんがよかったらぜひ」
と綾はすぐに答えた。
「本当?」
「もちろん、コンサートの話もしたいし」
「でも、伊田さん、お父様と一緒に来ているんでしょ?」
「父は目下チーズケーキに夢中なの。誰のことも眼中に無いから大丈夫」
「そういうことなら」
綾は店員に頼んでテラス席を新たに用意してもらってから、いったん父親のいるテーブルに戻って、
「お父さん、わたし友だちと食べることにするから、一人で食べてね」
と言った。
「綾がお友達と食べている間、お父さんはそのお友達のお母さんらしき美人と食べていたらダメかな?」
「お父さんはわたしにお母さんに告げ口させるようなことはしないよね」
「一人で食べるよ」
「よかった。じゃあ、そういうことでね」
綾は店員に導かれてテラス席に出た。
そこからは、遠くの山並みに雲が影を落としている様子が見えた。
「橋田さん、クラシックコンサート好きなの?」
「母に誘われたんです。母からの誘いは極力受けるようにしているの。伊田さんは?」
「わたしは父のお供。父は後援者の一人だから」
「そうなんだ。とてもいいコンサートだったね。出演者がみんな仲良さそうで」
「演奏時間、ちょっと長くなかった?」
「うーん……ほんのちょっとね」
「本当は?」
「かなり。お尻が痛くなっちゃった」
「そうでしょ。いつもあんな感じってわけじゃないんだけど、MCが違うとああなっちゃうのか、出演者のノリなのか」
「でも、よかったよ。プロの生演奏が聴けたんだもん。贅沢な時間でした」
そう言って心から楽しそうな顔をする彼女を見て、綾は綺麗な子だなあと素直に思った。その綺麗さにはしっとりとした落ち着きがあって、こういう美しさを優美と言うのだろう。まるで名画でも見ているような気にさせられる。
「我がままを聞いてくれてありがとう、伊田さん」
「えっ、何のこと?」
「今度の旅行のこと」
「ああ……そんなの何でもないよ」
綾は、橋田さんの友人の男の子が橋田さんのために主催する小旅行に参加することになっていた。橋田さんの別の友人で綾にとっても知り合いである子から頼まれた格好でもある。その子から何かを頼まれれば、大方のことはオッケーするだろう。
「伊田さんみたいな友だちがいて、タマちゃんが羨ましいな」
「わたしたちだってもう友だちでしょう?」
「えっ?」
「一緒にケーキを食べたら友だちっていう諺、聞いたことない?」
「あるかも」
「じゃあ、友だちになりましょう。今の橋田さんの発言が社交辞令じゃないとしたらだけど」
「本心です」
「よろしく、橋田さん」
「こちらこそ、伊田さん」
「友だちには『アヤ』か『アヤちゃん』で呼ばれてるの。別のあだ名をつけてくれてもいいけど」
「じゃあ、アヤちゃんで。わたしも、友だちには『スズ』とか『スズちゃん』で呼ばれてるかな」
「じゃあ、スズって呼んでいい?」
「お母さんに感謝しないと。まさか、コンサートに来て、友だちを増やせるとは思わなかったよ」
「それはわたしも。お見合い断ってよかった」
「お見合い!?」
「お父さんの趣味がわたしの結婚相手の候補を見つけることなの。もう少しで、ここにその子と一緒に来ることになったかも。本当によかった」
「大変だね」
そこで、チーズケーキ二つとコーヒーと紅茶が運ばれてきた。
綾は、いったんおしゃべりをやめて、チーズケーキにフォークを入れた。向かいの相手も一緒に食べようとしているのを確かめてから口に入れると、とろけるような味わいは天国である。鈴音がチーズケーキを食べる所作は美しく、まるで生まれてからこの方チーズケーキしか食べていないかのような慣れた趣だった。
「美味しい」
と、鈴音が心の底からそう思っていることを確信させるような満面の笑みで言った。
「美味しいね」
「美味しいものを食べていると幸せな気分にならない、アヤちゃん?」
「なるね。そうして、ものを食べるだけで幸せを感じられる人は上等な人なんだと思う」
「だとしたら、わたしは最上等な人かもしれない」
「どうして?」
「食べるときだけじゃなくて、歩いているとき、話をしているとき、字を読んでいるとき、眠りにつくとき、つまり、生きていることの全てがそれだけで素晴らしいと思うことができるから。これは逆にダメなのかな」
「いいと思うよ」
「よかった」
「それは、今日があったということに価値を認めているということ?」
「ちょっと違うと思う。わたしにとって、今日は『ある』か『ない』かじゃなくて、現にあったものなの。そこから全てが始まるの」
なるほど、と綾はうなずいた。鈴音が何を言いたいのかは理解できる。しかし、皮膚には染みて来なかった。綾にとっては、今日はあるかないかの次元の話であり、なかったこともできたのになぜかあったものなのである。だからこそそれは尊いのだ。
「人は種々な真実を発見することは出来るが、血球と共にめぐる真実は唯一つあるのみだ」
鈴音は歌うように言った。
「えっ、何?」
「いつかどこかで誰かが言った言葉だよ。もしかしたら、それはわたしの言葉だったかもしれないし、アヤちゃんの言葉だったかもしれないね」
常に無いことではあるが、綾は圧倒されるのを感じた。しかし、それは嫌なプレッシャーでは全然なくて、心地良ささえ感じるものだった。綾は鈴音をしっかりと見返して、
「『たとえ明日世界が滅亡しようとも今日私はリンゴの木を植える』って言った人がいたけれど、こんな下品な考え方は無いと思う。今日リンゴの木を植えられたのならそれだけが大事なことで、明日世界が滅亡しようがしまいがそんなこととは関係が無いでしょう。明日と結びつけられた今日なんて、それはもう今日じゃないわ」
と言った。言ってしまってから綾はどうしてそんなことを言ったのか自分でも不思議に思った。わざわざ言うようなことではなく、むしろ胸に秘めて置くべき類のことを自分から言い出すなどということは、これも常に無いことである。
鈴音はちょっときょとんとした顔をしたが、すぐに微笑して、
「今日は本当にいい日になりました」
と温かな調子で言った。
それには綾も全く同感だった。