第243話:倉木日向の参戦
何かがおかしい。
倉木日向は、どんよりとして風情を増した秋の日の朝、通学路の上で首をひねった。
何かがおかしいのである。
何かがいつもと違う。
うまくは言えないけれど、自分のすぐ近くで何事かが進行しているようなのだった。ひそやかに。
初めは愚弟のことかと思いもした。日向には一人弟がいて、これが本当に愛すべきしょうもない弟なのだけれど、この子に関することではないかと思ったのである。何か学校でトラブルでも抱えていて鬱々としており、その雰囲気がこっちにも伝わってきたのではないか。
しかし、違ったようだった。弟は、何だったらルンルンとスキップでも踏みそうな感じで学校に行っている。ちょこちょこと友だちとも遊んでいるようだし、特に問題は無いらしい。それでも念のため、
「学校で何かあったらわたしに言うのよ、グレる前に。グレたらほっとくからね、可愛くないから」
と言っておくと、
「何で学校で何かあったらグレるのが前提なんだよ」
と言い返してくるので、
「ホラ、お姉様の言うことに逆らっている。グレる兆候出てるじゃん」
と指摘してやったら、ぐうの音も出ないようだった。
「でも、ヒロトくらいしかいないんだけどなあ。わたしの周りでおかしなことをしそうな子は」
語りかけたのは、隣を歩く幼なじみに対してである。
「ヒロトは何もおかしくないよ、いいヤツだよ」
「ケンはあの子の姉じゃないからね」
「兄だとは思っているつもりだけどな」
「わたしがどれだけあの子に苦労させられているか分かる?」
「たとえば、どんな?」
「この前のことだけど、あの子をちょっとしたことで疑ったら、『弟を疑うなんて姉の風上にもおけない! アイス3個を買ってくれるまで口を利かない!』とか言って、わたしを脅すんだからね。もう面倒くさいったら。仕方ないから買ってあげたわよ」
「なんかこの前ヒナタから聞いた話と違うような気がするけど」
「この前のわたしと今のわたしとどっちを信じるの!?」
「この前のオレはこの前のヒナタを信じる。今日のオレは今日のヒナタを信じる」
「よろしい。とにかく、あの子には苦労させられているんだけど、それはまあいいわ。運命だと思って諦めているから。問題はそんなことじゃないのよ。何か気になることがあるんだけど、それが何か分からないんだなあ。のどに刺さった小骨みたいにイライラする」
「のどに刺さった小骨だったら正体が分かっているんだから、何なのか分からないものの比喩としては、おかしくないか」
「じゃあ、適当なたとえをケンが考えてよ。とにかく、おかしいのよ」
「ふうん」
幼なじみのツレない反応に日向はムッとしたが、とにかくおかしいと言われても対応の仕様がないのは当然のことである。しかし、その当然のことに対しても何らかの対応をしてくれるのが幼なじみというものではないか、と日向は断じているので、文句を言ってやろうかと思ったそのときに、
「おじさんとおばさんについては?」
という質問が現われた。
「え、なに?」
「おじさんとおばさんだよ。仲が悪いとか」
「そっちは大丈夫だと思うよ。特別仲がいいとまでは言えないし、まあ、中年カップルの仲いい姿とか見たくもないけど、そこそこだとは思うよ」
「家の中じゃないとすると、外に原因があることになるな」
「すごい名推理! その調子で5年前になくしたお気に入りのボールペン見つけてくれる?」
「学校じゃないか?」
「学校にあるの、ボールペン?」
「ペンのことは知らないよ」
「ケンは?」
「何が?」
「何かわたしに隠していること無い?」
「ヒナタはオレの体重まで知っているじゃないか。何を隠せるんだよ」
「質問しているのはわたしよ」
「無いよ、特には。ただつまらないことだと思って言ってないことはあるかもしれないけどな」
「どんなこと?」
「この前、髪の生え際に小さなニキビができてたとか」
「ちょっと! 全然つまんないことじゃないじゃん! 大問題じゃんか! 何で言ってくれなかったの!?」
「言ってたらどうなってたんだよ」
「なんかいい感じのクリームをあげたわよ」
「持ってるのか?」
「持ってるんじゃない、お母さんが多分」
「必要無かったけどな。もう消えたから」
「今度からはちゃんと言って。恥ずかしいのは分かるけど、隠してもしょうがないじゃん」
「別にニキビは恥ずかしくないだろう。見せつけるものでもないけど」
「いいから、誓って」
「聖書は?」
「なに?」
「大統領は聖書に手を置いて宣誓するって『公民』の授業の時聞いたろ」
「聞いてないよ。そんな先生のトリビア」
「無駄知識かなあ」
「今披露されているんだから、そうでしょ。で、何だっけ?」
「何が?」
「さっきケンが言ったこと」
「家に問題があるんじゃないなら、学校にあるんじゃないかって」
「うーん……学校生活に問題があるようには思えないけど、我ながらうまくやっていると思うし」
「だったら、ヒナタの勘違いなんじゃないか?」
「勘違いなんてことあるかな」
そう言うと日向は軽く幼なじみに対して体をぶつけた。
「なんだよ」
「今ぶつかったのを感じたでしょ。今のが勘違いってことある?」
「無いよ。だって、現にぶつかったじゃないか」
「わたしのもそういうことなの」
「よく分からん」
「とにかく、わたしが何かがおかしいって感じている限りは、何かがおかしいのよ」
日向はそう言い切って学校の前の坂を上り始めた。
その違和感は、その日の午前中いっぱい続いて、お昼になった。
「ちょっと、タマキのところに言ってくるね、ケン」
「夕飯までには帰って来いよ」
「面白い」
「そりゃよかった」
幼なじみを頼りにしていないわけではないが、彼は自分に近すぎて物事を客観的に見られない可能性はあると日向は思った。別の友人に考えてもらうべきだろう。そうして、もしも彼女が、
「ヒナちゃんの勘違いじゃないかな」
と言えば、もうそれはそれで受け入れてもいいかもしれないとも思った。自分のことは自分で判断するにしても、自分と同じくらい彼女の判断を信頼しているということである。
日向は3組の教室を出ると、廊下をたどって5組へと向かった。昼休みの廊下はどこかへ急ぐ者や、おしゃべりしている者でごった返している。そこを縫うようにして5組に到着すると、一人で読書をしている心友の姿を見た。
「タマキ」
「ヒナちゃん」
こちらを見て笑顔を見せてくれる彼女の美しさに、日向はうっとりした。もしも幼なじみがいなかったら、この子を所有したくなったかもしれないと、そんなことを時たま思うのである。
「そんなわたしをどう思う、タマキ?」
「いいと思うよ。光栄です」
「引かない?」
「引きません」
「よかった。ケンに振られたら、加藤くんのライバルになろうっと」
「可能性は?」
「ゼロかなあ。ていうか、そんな事態は許さない」
日向は環の前の席に陣取った。持ち主が来たらすぐに返すつもりである。
「悩みがあるんだけど、聞いてくれる、タマキ」
「もちろん」
「かなりふんわりとした話なんだけど」
「ムースみたいに?」
「そうそう。甘い話ではないけどね」
そこで、日向は自分の抱えている違和感について話した。そうして、話しているうちに何だか妙な気分になってきた。違和感の原因が、この目の前の彼女にあるのではないかとそんなことを思ったのである。それは確信へと変わる。そうである。学校に原因があるのではないかと言った幼なじみの適当な推理が当たっていた格好だった。何かがおかしいと感じ、その理由が家族でもなく幼なじみにもなければ、この子にしかないではないか。
「タマキ」
「はい?」
「何かわたしに隠していること無い?」
「隠していること?」
「そう。近々引っ越すとか、不治の病に冒されているとか……もしかして、加藤くんとの仲が悪くなっているとか? だったら、わたし、加藤くんを絶対に許さない!」
日向は立ち上がった。
「落ち着いて、ヒナちゃん。レイくんは、普段のままだよ。ちょっと、わたしより妹に余計に気を遣っているところはあるけれど、それ以外は普通です」
「いやらしい。付き合っている相手の妹に色目を使うなんて!」
「どっちもわたしより可愛いからしょうがないよ」
「そんなことないって! これで謎は全て解けたわ。加藤くんによって苦しんでいるタマキのその雰囲気をわたしは感じ取ったんだわ。なんてエラいんだろう。自分で自分を褒めてあげたい。6組に行ってくる!」
「タイム」
「タイム?」
「そう。実はヒナちゃんには知らせてないけど、みんなで遊びに行こうっていう話をしていたの。何かを感じたのだとしたら、その件じゃないかな」
日向はショックを受けた。愕然とした。弟が万引きしたと聞いてもこれほどのショックは受けなかったことだろう。
「わたし……タマキに何かした?」
「出会ったときから、いいことしかしてくれてないよ」
「本心?」
「もちろん」
「だったら、どうして?」
もう一度席に着いた日向は環から事情を聞いた。そうして、半ば感心して半ば呆れた。環のカレシである加藤くんが、クラスメートの女の子のために遠出を企画して、それに乗っかるということなのである。どうして、そんな話になるのか。まるで意味が分からない。
「ヒナちゃん。怖い顔になっているよ」
「そりゃなるでしょ。加藤くんは何か根本的に勘違いしていると思う」
「わたしはそうは思わないけど、でも、たとえそうでもいいんじゃないかな」
「どういうこと?」
「相手が自分の意に沿わないことをしても、それはいいんだよ。だって、相手はわたしじゃないんだから。それが自分じゃない相手と一緒にいることの面白さだと思う。ヒナちゃんだって、西村くんが何をしても、それで嫌いになるわけじゃないでしょ」
「嫌いにはならないけど、でも、ケンがおかしなことをしてたら刺し違えてもやめさせるけどね」
「さ、刺し違える?」
「うん。わたしは、そういうことが付き合うっていうことだと思う。そうじゃなきゃ、一緒にいる意味なんか無いよ」
「それは、すごくヒナちゃんだね」
「タマキは?」
「わたしは、レイくんがどぶにはまったら、一緒にどぶに落ちてみようかなってそう思っているよ」
「一緒にはまったら誰も引き上げる人がいないじゃん」
「ヒナちゃんがそうしてくれるでしょう?」
「加藤くんのことは助けないかもしれない」
「ヒナちゃんはそんなことはしないよ」
「本当?」
「保証する」
自分に関することを他人から保証してもらうというのも何だか妙な感じではあるけれど、日向は嬉しかった。
「一緒に行ってくれる、ヒナちゃん?」
「いいの?」
「うん」
「でも、橋田さんに迷惑なんじゃない?」
「スズちゃんからは女の子の誰を連れて行くかは一任されているの」
「タマキ」
「もう怒らないで。可愛い顔が台無しだよ、ヒナちゃん」
そう言って微笑する彼女を見ていると、日向は可愛い顔に戻らざるを得なかった。
こうして修学旅行(簡易版)への、倉木日向の同行が決定した。