第240話:不幸だと思える人生の幸福
水野更紗は理解した。
結局、この世の中は、美しさこそが全てなのだということを。
可愛い子はモテる。人が集まってくる。だから余裕がある。
可愛くない子はモテない。孤独である。だから卑屈になる。
余裕がある人生を送るか卑屈な人生を送るかは、結局の所、その容姿の美しさによって決まるのだった。
たまにマンガやドラマとかで、ブサイクな女の子がイケメンにモテるというものがあるけれど、あれは、美人がモテるという常識の裏返しが受けることを狙っているということであって、いわば、ファンタジーである。そりゃ、ファンタジーはみんな好きである。夢がある。はかない夢だけれど、見ている間は、現実を忘れられる。
しかし、いつも夢を見るわけにはいかない。
現実は容赦なく襲いかかってくるのだ。
更紗にとっての現実とは何か。学校に行って、クラスに入り、美人のクラスメートを見て、美人ならざる自らを省みて、部活に行って、ひそかに思いを寄せる男子を見ては自分が美人だったらすぐにでも告白できるのにと思ってがっかりとしつつ、家に帰る。その繰り返しだった。地獄のようなルーティン。
「どうしたの、更紗。この頃、元気がないようだけど」
我が子を心配する母を見ると、ブサイクとまでは言わないけれど、まあ、可も無く不可も無いような年相応の女性なのだった。その彼女の子どもが自分なのだから、当然に今の更紗になるというのは、どうしようもない運命なのである。親ガチャを間違えたのである。しかし、ガチャを引いたのは自分なのか? なにせ、生まれる前の昔のことなのでよく覚えていなかった。
「別に元気だよ」
「本当に? 学校でいじられてない?」
「それを言うなら、『いじめられてない?』じゃないの?」
「いじめられているの?」
「いじめられても、いじられてもない。ただ、人生の悲哀を感じているの」
「成長したわねえ」
「なにが?」
「だって、この前までオムツをしていた娘がよ――」
「オムツの話はやめて、聞きたくない」
「いいじゃないの、誰もが通る道なんだから。その娘が人生の悲哀を感じる年になったのねえ。お母さん、かんがい深いわ」
更紗は、「かんがい」という部分を脳内で漢字に変換しようとしたけれど、失敗した。
「何でも話せとまでは言わないけど……ていうのも、お母さんがあなたくらいの年の時には、お母さんのお母さん、つまりおばあちゃんに何でも話してたわけじゃないからね。ただ一つだけ言っておきたいのは、更紗が何か一人では抱えきれない辛く苦しいことに遭ったときは、お母さんに相談してね?」
「了解」
「嫌よ、お母さんは。何も相談されないで、ある日突然、『娘さんが当店で万引きを働きました、今すぐ引き取りに来てください』なんて電話されるの」
「ちょ、ちょっと、なんでわたしが万引きなんてするの?」
「だから、ストレスでよ」
「ストレスでもそんなことしないってば。ひどくない、お母さん」
「ひどいのはそっちでしょ。何も相談しないで万引きなんて、どうしてしたの!?」
「いや、してないから」
「あ、してないんだ。……まあ、とにかく、何か本当にキツイことがあったら、お母さんか、お母さんより頼りないけどお父さんに相談するのよ」
「はい、はい」
相談しろと言われても、どう相談すればいいのだろうか。お母さんからじゃなくて、別の人から生まれたかったなんてことを。それは本当に切実に正直な気持ちではあるのだけれど、だからといって、口が裂けても言ってはいけないことだということは更紗にも分かっていた。大体そんなことを言ったら、あっちだって、
「お前みたいな子が生まれてくるとは思わなかった!」
と言うことだってできるではないか。そんな醜い応酬をするくらいなら、一人きりで、事実に耐えた方がマシである。
――でも、一人は嫌だ!
更紗は、座っていたソファから立ち上がった。
「どうしたの、更紗?」
「ちょっと、散歩してくる!」
「散歩?」
「公園まで行って戻ってくるから」
「車に気をつけてね」
「はいはい」
家を出た更紗は、近所の公園へと歩き出した。公園までは15分くらいで、往復すると30分くらいなので、散歩コースにはちょうど良かった。秋は徐々に深まりを見せており、道ばたの木々はちょっとずつ色づいている。更紗は、路地から出てきたイケメンとぶつかることはないだろうかと思って、ぶつかってもいいようにダメージが少ない体勢を心がけたが、ぶつかりそうになったのは歩道を走る自転車とだけだった。
――げげ。
公園に向かって歩いて行くと、同じ部活の男の子が横から歩いて来るのが見えた。マイバッグを下げている。思い人ではない別の男子である。彼に対してはどういう気持ちも無いので、出会っても別に悪いことは無いのだけれど、どうも学校以外のところで、さして親しくもない同級生に会うと何となく気が引けるのだった。とはいえ、無視するわけにも行かないのは、向こうもこちらに気がついてしまったからである。
「加藤くん」
更紗はあえて自分から彼の名前を呼ぶと、彼は軽く手を挙げるようにしてきた。
「どこに行くの?」
「帰るところだよ。スーパーで買い物した帰り。水野は?」
「散歩。そこの公園まで行って帰ってくるコース」
「そうか。じゃあ、公園まで一緒に行こう」
「えっ!?」
「邪魔だったか?」
「……そんなことはないけど、わたしと歩いているところ誰かに見られても平気なの?」
「オレは平気だけど、水野が嫌なら無理強いはしないよ」
「わたしは大丈夫だけど……」
「そうか、なら行こう」
更紗は、加藤くんが車道側に来るのを認めた。
思いがけず、意中の男子では無いとは言え、男子と歩くことになった更紗は戸惑ったけれど、この際だから聞いておきたいことがあった。彼とはまんざら知らない仲ではなく、単なる部活動仲間というよりは、もうちょっとだけご縁がある。
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど、加藤くん」
「なに?」
「失礼なことかもしれない」
「失礼なことには耐性がある。しょっちゅう妹に言われているから」
「じゃあ、思い切って聞くけど、加藤くんって川名さんと付き合っているじゃん」
「そうだな」
「川名さんって、超超超超超美人でしょ」
「そういう評価だな」
「もしも川名さんがブサイクでも、加藤くんは川名さんと付き合ってた?」
更紗が訊くと、加藤くんは間髪入れずに答えた。
「川名が今の川名じゃないとしたら、それはもう川名じゃないだろう。だから、そんな仮定は無意味だ」
「それはそうだけど……じゃあ、加藤くんがフリーだとして、もしわたしが加藤くんに付き合ってほしいって訊いたら、付き合う気になる?」
更紗は思わず言ってしまってから、何と言うことを訊いてしまったのだと、一瞬後、後悔した。これでは、まるで自分が加藤くんのことが好きで、間接的に告白しているみたいではないか。
「あの、違うからね! 別に、わたしが加藤くんのことを好きだとかそういうことじゃないから! これには深いわけがあるのよ!」
更紗が慌てて続けると、しばらく沈黙が落ちた。
――お母さーーん!
心の中で母に助けを求めたが、もちろん、助けなど来ない。
前から歩いてきた人を避けると、
「それもやっぱり想定は難しいけど、多分ならないと思う」
加藤くんの静かな声が聞こえた。
更紗はがっかりした。気のない男子だとしても、もしものシミュレーションだとしても、振られればダメージを受ける。それが繊細微妙な乙女心である。更紗は自分に乙女心があることに満足することにした。
「参考までに、なんでダメなのか訊いてもいい?」
「本当に聞きたいのか?」
そんなには聞きたくなかったが、公園までまだ間があった。「ぜひ聞きたいわ」
「分かった。もしこうだったら付き合うかっていう訊き方をする子とは多分付き合わないだろうなと思っただけだよ」
「そっか……」
「でも、それはオレがそうだというだけであって、あらゆる人がそうだっていうわけじゃない。それに、なんでもかんでも自分を通すことがいいことだとも思わない。オレにはオレなりの、水野には水野なりのやり方があるだろ」
「その自分なりのやり方がうまくいかないときはどうすればいいの?」
「うまくいかないなら、うまくいくように工夫するしかない。できることはそれしかない」
「加藤くんにもうまく行かないことある?」
「たくさんある。学校の勉強のこととか、妹との関係のこととか――妹のことはもう諦めているけどな。それに、サッカーボールをうまく蹴れるようにならないといけない。サッカーなんか好きでもないのに」
「持って生まれたものが多い人って、それだけ有利だとは思わない?」
「有利かもしれないけど、それはこのオレには関係ないことだ」
「どういうこと?」
「もしも、誰かが金持ちでイケメンで社交性が高かったとしても、その分だけオレが裕福になったり、かっこよくなったり、人付き合いがうまくなったりするわけじゃない。だから、誰かがそうであることとオレが今こうであることは何の関係も無い。オレはオレの人生をただ生きるだけだよ」
「それがみじめな人生でも?」
「みじめだって言える人生は、まだみじめなんかじゃない。本当にみじめなのは、みじめだっていう言葉を使えないような人生のことだ」
「それ、気休めじゃないの?」
「いや、絶対に違う。自分の人生がみじめだとか不幸だとか言えるのは、本当にはまだみじめでも不幸でも無い。ていうのは、みじめだったり不幸だったりする人生は、ただ黙ってそれを生きるしかないような人生だからだ」
「じゃあ、自分が不幸だとか、親ガチャに失敗したって言っている人は、自分に甘い、自分に酔っている人ってこと?」
「その意味ではそうだ。でも、それもまあ、それでもいいのかもしれない。甘えて生きたって、酔っ払って生きたって、それはその人の人生なんだから……公園に着いたな」
いつの間にか、公園に着いていた。
更紗には別れる前に確認しておかないといけないことがあった。
「あの……加藤くん……」
「誰にも言わないよ。約束する」
加藤くんは、じゃあまた部活で、と言って去って行った。
自分のことを不幸だと言える人は本当にはまだ不幸じゃない。もしもそうだとすると、更紗は本当には不幸じゃないということになる。そんなことがあるのだろうか。この状態が不幸じゃないなんてことが。加藤くんは、うまくいかないことはうまくいくように努めるしかないとも言っていた。うまくいくように努めると言っても、まだ何か自分にできることがあるのだろうか。
――わたしなりのやり方があるとも言ってたな……。
もしかしたら今回の遭遇はイケメンにぶつかるよりも価値があったことかもしれないと、更紗は、フツメンである加藤くんに感謝した。