第24話:言葉にしない想いがある
「ちょっと、男子! ちゃんと掃除してよ!」
注意の声が飛ぶ。その男子の中に含まれていないことを祈りつつ、怜は、せっせと教室の床を掃いていた。六時限目が終わった掃除の時間。解放的な気分になるこの時間に、しっかりと働ける中学生は多くない。特に男子はそうである。現に、今も三年六組の教室担当の班の男子は、教室の床を掃くべきもので、剣の腕を磨き合っている。
「ねえ、聞いてるの!」
班のリーダー格の女子が叱声を上げるが、それを聞くような素直な武士はいない。どこ吹く風で箒を振り回している。別の子を誘って、二人がかりで遊んでいる男子に向かっていったが、やはり効果はないようだった。あるわけがないのである。男子としては、そうやって女子に構ってもらいたくて、ふざけているところもあるからだ。怜は、掃き集めたゴミをちり取りにおさめながら、軽くうんざりした目を同じ班の男子に向けた。小学生の低学年ならばともかく、中学も三年生になれば、女子に対して別のアピール方法を考えてもらいたいものである。
「そのくらいにしておかないと、先生を呼んでくるわよ」
怒ったように言うリーダーに、からかいの声をかける男子。そのくらいにしておいてもらいたいのは、注意している側のその女子に対しても同じことだった。注意する暇があるなら、掃除をしてもらいたいものである。サボる人間に対して注意するよりも、黙って掃除をしてくれればその分早く済むし、何より怜自身の負担が減る。確かに、掃除をしないで済んでしまう男子は不公平であろう。しかし、注意している女子にしても、不公平を糾弾する前に、教室の掃除くらい黙ってしたらよさそうなものである。
差別を是正するのにそこまで躍起にならなかった女子が一人だけおり、怜はどうにか一人で掃除をする羽目にならずに済んだ。床を掃き終わり、教室の一方に寄せていた机を直す段になってようやく、男子の説得を諦めたらしい女子二人も加わり、またさすがに机を運ぶくらいはしないと本気で教師に言いつけられると恐れたのか、遊んでいた男子二人も仲間に入った。
「あの、わたしが行くよ、加藤くん」
教室が元通りの姿を取り返し、あとはゴミ箱のゴミを焼却炉に持っていけば良いというとき、横からかけられる遠慮がちな声。怜は顔を向けると、大人しそうな雰囲気の少女が手を差し出していた。
「いいよ、オレが行くから」
怜は口をしばったゴミ袋を持ちながら答えた。
「でもさ、ずっと加藤くんが行ってるでしょ」
「そんなに小谷がゴミ捨て好きだとは思わなかったな。独占して悪かった」
怜が冗談に言うと、少女は微笑んだ。そのあと、
「好きじゃないけど、いつも加藤くんが行ってるから悪いなって」
生真面目に答える。ゴミを持って行くくらいで彼女の気を引いたのだとしたら、これを先ほど騒いでいた男子に教えてやりたいものである。人の迷惑にもならず、女子の気を引ける。何と素晴らしい行為だろうか。
気にすることなどないことを怜は伝えたが、
「じゃあ、せめて一個ずつにしましょ」
と二つあるゴミ袋を指して彼女は譲らなかった。分け合うようなものでもないと思うが、怜は譲歩した。別にどうしても拒絶しなければいけないことでもない。少女は、班のリーダーの女の子に、ゴミを捨てに行って来ることを告げた。怜が廊下に出ると、彼女はその横に並んだ。
「ごめんなさい」
並んで歩いていると突然にかけられた謝罪の言葉に怜は意表を衝かれた思いで、隣を見た。
「何か、加藤くん一人に掃除を押し付けてるみたいだから」
確かにその通りであるとも言える。何しろ、机を運ぶ段階にならないとまともに動かない手合いばかりなのである。しかし、怜は大して気にしてなかった。自分はできることをするだけである。結果、掃除が終わらなかったとしても、それは自分の責任ではない。幸い今まではどうにか終わって来たのだった。ならば、問題はないはずだ。
恥じ入ったような顔をしている少女に、怜は、
「でも、小谷は途中からやってただろ」
と罪の意識を減じるであろう事実を告げた。
「だけど……」
「気にするなよ。したくないことをしないといけないこともあるし」
怜は遠まわしな言い方をすると、少女がはっとした顔を作った。みんなが男子と戯れているときに、一人だけ知らぬ顔で清掃活動に勤しむわけにはいかないというのが中学社会のルールであり、それに怜は言及したのだった。
彼女は目を伏せると、
「それが誰かの迷惑になるのがいやなの」
いった。嫌ならやめれば良い、とは怜は言わなかった。本当に嫌ならやめているだろうからである。
「本当に気にするなよ、小谷」
怜としてはそう言っておく他ない。教室掃除のことくらいでそこまで思い詰めなくても良いだろうし、仮に彼女にとっては重要事だとして、それを話されても怜にはどうしようもないことであった。
「聞いてもいい、加藤くん?」
少し歩いてから気を取り直したような声で言った少女の問いに、
「できればやめてくれ」
嫌な予感がした怜はそう断ったが、質問内容を話す前から機先を制されたことに、彼女がショックを受けた顔をしているので、前言を取り消すしかなかった。
「聞くだけなら」
「その、川名さんとのことなんだけど……」
思った通りだった。こうなると、彼女がゴミ捨てに付き合ったことの真意が透けて見えそうな気がしてきたが、そこまでは考えすぎであろうか。
「気に障ったならごめんなさい」
謝るくらいなら、先に考えて欲しいものだ。それにしても、どうしてこう他人の恋愛に口を出したがる人間が多いのだろう。怜は不思議だったが、落ち着いて考えて見れば分かることでもあった。川名環という少女にはそれだけの影響力がある。けして怜に対して興味があるわけではないのだ。
「喧嘩したとか?」
少女はわざと朗らかな声を出した。冗談のような軽い調子で、怜に話しやすい雰囲気を作ろうとしているのだろう。小賢しい話である。彼女には好意とまではいかなくとも、少なくとも悪感情は持っていなかった怜としては多少残念な思いだった。
「オレも一つ訊いていいか、小谷?」
「え? いいよ、何でも聞いて」
少女は顔を希望の色で染めた。質問に答える代わりに怜にも答えてもらう。交換条件にできると思ったのだろう。
「小谷は誰か好きなやついる?」
思いがけない怜の問いにびっくりした顔を作る少女。彼女は、少し沈黙を溜めてから、
「ごめんなさい」
と謝った。怜が訊いたのと同じ種類の問いを自分がしていることが理解できたのである。
肩を落とした彼女の姿を横目で見て、怜は、キツい言い方だったかもしれないと反省した。一言、環とは別れていない、と言えば良いだけのことだったのだが、今朝の家族とのいざこざのことがあり、少しいらいらしていたのかもしれない。
「実は小谷の言うとおり、喧嘩したんだ」
少女の顔が上がった。
「待ち合わせに十分遅れただけなのに怒り始めたんだよ。どうすればいい?」
怜が困り果てたような口ぶりで言うと、彼女は顔を明るくして、
「それは加藤くんが悪いわ。約束を守らないっていうのは、その人のことそんなに大切に想ってないって、そう思われても仕方ないってことだから」
と諭すように返してきた。
「なるほど。それでどうすれば?」
「謝ったの?」
「死ぬほど」
「何かプレゼントとか」
「何を贈れば?」
「気持ちのこもってるものだったら何でもいいと思うよ」
「分かった。じゃあ、何か適当にみつくろうよ」
「気持ちね、気持ち」
怜は神妙にうなずいた。適当な話をでっちあげたのは、彼女の機嫌を取ろうとしたわけではない。彼女にメッセンジャーになってもらいたかったのである。そんなに環と怜の――主に環のだろうが――ことが気になる人間がクラスにいるなら、適当な話を信じさせておくのも一計であろう。この話がクラスの皆の知るところになり、多少なりと彼らの好奇心を満たしてくれるだろうことを、怜は祈った。
「でも、川名さんでも怒るんだね。ちょっと想像できないな」
「意外とすぐ怒るんだよ、ああ見えて」
多少納得の行かない顔をしている少女に、怜は平静に答えた。実際は、彼女の言うとおり、環が怒ったところなど見たことがなかった。
二人は外に出ると、焼却炉に向かった。脇に置いてあるカゴにゴミ袋を入れる。
「それで、川名さんずっと怒ってるの?」
横からの問いに、
「小谷から環に言ってくれないか。もう怒りを静めてくれって」
いい加減に答えたその時だった。
「もう怒ってないよ」
そよ風に鳴る風鈴のような妙なる声が響いてきた。
怜の背筋が立つ。聞き覚えのある、ありすぎる声だった。
諦めた怜が振り返ると、にこやかな微笑を浮かべた少女が立っていた。少しクセのある漆黒の髪が、初夏の微風を受けてさらさらと鳴っていた。
「あの、わたし、先に帰るね」
気を利かせたのか、居心地が悪かったのか、クラスメートの少女が立ち去ると、怜は環と二人きりになった。新しい経験である。怜は環といて緊張を感じたことがなかったが、今まさにそれを感じていた。
環は手にしていた袋を焼却炉脇のカゴの中に入れると、怜と向かい合った。
怜のほうから沈黙を破った。
「それで?」
促すような調子でいうと、
「それでって?」
環が分からない顔で問いを返す。怜は覚悟を決めた。彼女に限って分からないはずがないのである。
「怒ってるんだろ?」
「怒ってないって今言ったばかりよ」
環は柔らかく言った。その口調のどこにもとげのようなものはなかった。が、例えウソだとしても自分とのプライベートなことをカレシが他の子に話していて気を悪くしない女の子がいるだろうか。仮に環がそういう子だとしても、謝るべきことだろう。
「悪かったよ」
環は首を横に振った。
「ううん。悪いのはわたしよ」
夜を映したような瞳がじっと怜を見ていた。怜に戸惑いはない。環が言おうとしていることはよく理解できた。
「何も悪いことはないだろ」
「そう思う?」
「逆の立場だったら、どう?」
「逆にはできない。わたしは彼女じゃないもの」
「それがお前のいいとこだな」
環は微笑をおさめた。
「いいとこ……か。どうかな、分からないわ。ただ、わたしにはできないのよ」
「知ってるよ」
「お願いしても?」
怜はうなずいた。ただし、と彼は続けて、
「交換条件がある」
と切り出した。環はちょっと驚いたような顔をしたが、
「さっきの話、許してほしい」
という怜の言葉を聞くと、微笑んでうなずいた。そのまま、彼女は歩を進めてきた。
「会わないのか?」
横を通り過ぎようとしたその時に、怜は訊いた。言わずもがなだったかもしれないが、それは彼なりの思いやりだった。
「……時が来たら」
環は怜を見なかった。そのまま彼女は校内の人となった。
二週間ぶりの邂逅にしてはあっけないものだったが、それで十分に環の気持ちは伝わった。言葉足らずの秘密めかした言い方は怜なら分かってくれるはずだという信頼もあるだろうが、それ以上に友人のことを口に出したくないという気持ちがあるのだった。口にすると、余計なことを言ってしまい、友人を侮辱することになるのではないかと恐れたのだろう。環に限ってそれはないと思うが、逆に言えばそれだけ大事な人なのだ。事に自分で当たれない彼女の苦悩はいくばくか。それを想うと、ふと現れる気持ちが怜にもある。しかし、その気持ちもまた口には出せないものだった。