第239話:生活の定義は人それぞれ
成績が上がらない。
怜は模試の結果を見ながら、ため息をついた。
正確には上がっていないわけではない。上がってはいる。ちょこっとは。しかし、志望校合格には到底足りないのである。まだ受験まで数ヶ月猶予が残されているけれども、ここから果たして合格レベルにまで上がるのかどうか、大いに疑問だった。
とはいえ、できることは限られている。
勉強するしかない。
それにしても、なんでこんなに勉強しないといけないのか。自分で決めたことながら、理不尽である。いっそ、学校に行かないというのは選択肢としてどうなのだろうか、と怜は思いあまってみた。高校には行かない。しかし、これは妄想の類である。学校に行くのはさして好きというわけではないが、かといって嫌いというわけでもないのだった。ここでしか経験できないことが色々とある。であれば、行くしかない。
もちろん、学校に行くことによって失ったものもあるだろう。何事もプラスだけということはありえない。勉強の意味なんてものはその最たるものではないだろうか。学校に行くことによって、勉強とは一定時間教師の話を聞くことだという認識になってしまった。本来の勉強というのはそうではないだろう。事実、就学前は新しいことを覚えるのが好きだった。しかし、小学校に入ってからはそんなこともなくなってしまった。で、今に至る。
学校に行くことは、トータルでプラスなのかマイナスなのか。しかし、それを差し引きすることはできない。なぜなら、学校に行った自分にとって、学校に行かなかった自分などというものは存在しないからである。なぜだかは分からないが、そうでしかなかった自分が歩く道を宿命と呼ぶ。
怜は、学校に行かなければならない、そのために勉強しなければいけない宿命を負っているのだということを再認識して、リビングのテーブルで勉強をしていた。最近はよくよくそこで勉強をするようにしている。もちろん、母親にアピールするためだ。あなたの息子さんは勉強していますよという。そうしなければいけない理由が色々と怜にはあるのだった。
「怜、ちょっといい?」
ある仲秋の休日の朝、そうして勉強しているところに母が話しかけてきた。怜は何か嫌な予感を覚えた。勉強しているところに話しかけるのは、その勉強自体よりも重要なことがあるということである。
「なに?」
「志望校の話なんだけど」
「うん」
「あなたが頑張っているのは分かるし、頑張る理由も分からないわけではないのだけれど、一つランクを落とすのが、賢明じゃない?」
「どういうこと?」
「どうって……つまり、今の成績じゃ志望校に入るのは難しいから、それよりも一つ下を狙った方がいいんじゃないかってことよ」
「ちょっと待ってよ、母さん。志望校については、母さんがそこにしろって言ったんじゃないか」
「高校を指定した覚えはないわよ。いい大学に入るためにはいい高校に入っていないとしようがないと言ったのよ」
「だから、いい高校を狙ってるんだろ」
「必ずしもそこじゃないといけないというわけじゃないでしょ。それより下の高校でも、がんばってトップクラスにいれば、いい大学には入れるわけだから」
「無理だよ」
「どうして」
「今がんばれないのに、高校に入ってからがんばれるわけないよ」
「それは……そうかもしれないけど」
「オレも今の段階で自分の力が足りているとは思えないし、かと言って、これからちゃんと伸びるかどうかも分からない。でも、まだここで始めたことを放棄する気は無いよ。こっちにも意地がある」
母は意外な顔をした。
「そんなに勉強に本気になるとは思わなかったわ」
「勉強が面白いわけではないけど、まだオレは限界までやってない。限界までやれば面白くなるかもしれないし、そこから道が開けるかもしれない。それに、こんなところで諦めたら、山内先生にも申し訳が立たない。あの人に教わっているということは、あの人の時間をもらっているということだろ。時間をもらっているっていうことは命をもらっているということじゃないか。結果はどうあれ、オレが、先生の貴重な人生の時間を使うに値する人間だったんだっていうことを証明したい」
「……分かったわ。あなたがそこまで言うなら、志望校については、もうあなたが決めなさい。お母さんは何も言わないから。ただ、もう一つだけ」
「なに?」
「塾の回数増やす?」
怜は少し考えてから首を横に振った。今の分で回数は足りている。あとは自分の力で何とかするしかない。
「山内先生ともご相談したら、先生もそうおっしゃってたわ。これ以上の回数は必要ありませんって」
すでに聞いていたとは、さすがに如才ない。
「じゃあ、もうあとはがんばりなさい。お母さんは、あなたの骨を拾う気でいるわね」
激励の言葉の割には嫌なことを言われたけれど、そういう言葉の方がうそくさくなくてよかった。
怜は、その日半日を勉強して過ごすと、
「ちょっと散歩してくる」
と言った。
「日が落ちるのも早くなってきたから、遅くならないうちに帰ってきなさいよ」
「はい」
時刻は3時半であって、まだ日が落ちるまで時間はあるだろう。
怜は自転車に乗ると、安全とスピードのバランスを取って、公園へとやって来た。
「レイ!」
すでに公園のベンチで待っていた少女が手を挙げたかと思うと、猛然とダッシュしてきた。
怜はそれを受け止める格好になった。
「こんにちは、アサちゃん」
「レイ、わたしスマホ欲しい!」
「えっ、どうして?」
「だって、そしたらいつでもレイとお話しできるでしょ? でも、お母さんに聞いたら、中学生になってからだって。お姉ちゃん達がそうだったからって。でも、わたしとお姉ちゃんは別なんだから、同じにする必要は無いと思う。そうでしょ?」
「アサちゃんは、お母さんのこと好き?」
「大好き!」
「お母さんがアサちゃんにしてくれたことの中で嫌なことってあった?」
「うーん……お風呂入りなさいって言うことくらいかな」
「お風呂嫌いなの?」
「この頃は好き。お姉ちゃんと一緒にお風呂の中で遊ぶの。レイも今度一緒に入ろうよ!」
「お、お風呂よりプールの方がいいかもしれないね。知ってる? プール」
「知ってるよ!」
「よかった。お風呂よりプールの方が一緒に遊ぶと楽しいところが100個ある。今度、説明してあげるね。それで、スマホについては、お母さんがアサちゃんのためを思ってしてくれていることだから、まだアサちゃんは持たない方がいいんじゃないかな」
「えーっ……レイはわたしと話したくないの?」
旭はしょんぼりとした顔を作った。
怜は大げさに首を横に振った。
「そんなことないよ、毎日だって話したいさ。でも、こうして会って顔を合わせて話した方がいいと思うんだ。毎日会うわけにはいかないけど、その分、会ったときの喜びは大きいんだよ」
「うん、レイがそう言うなら、そうする!」
立ち上がった怜はすぐそばに、少女によく似た面差しを持つ年長の少女を見た。
彼女は微笑むと、
「『何も言うなよ』でしょ?」
と言った。
「よく分かってるな」
「毎回言われていればね」
「そんなには言ってないだろ」
「結構言っていると思うよ」
「そうかな」
「そうです」
「じゃあ、言っているな」
「分かればよろしい」
この前と同じように、ベンチでティパーティが始まった。
旭はもりもりと食べながら、
「この卵サンドはアサヒがお手伝いしたやつだよ!」
自分の料理上手をアピールした。
「美味しいよ、アサちゃん」
「こっちのハムレタスサンドも食べてね、レイ!」
このためにお昼を控え目にしていたので、余計に美味しい。
怜は、今日初めて人に戻ったような気がした。
「大丈夫ですか?」と環。
「何が?」
「疲れているみたい」
「生活するっていうことは疲れるっていうことだよ」
「わたしにできることある?」
「その言葉だけで十分だよ」
「できることがあるって言ってくれるまで、わたし、この場から動かないからね。サンドイッチも食べない」
「なんだよ、それ」
「ハンスト」
「負けたよ。サンドイッチを食べてくれ。要求は受け入れる」
「それで?」
「キミにできることはある。今度、勉強を教えてほしい」
「…………」
「タマキ?」
「聞き間違いかな。レイくんが、勉強を教えてほしいって言ったように聞こえたんだけど」
「聞き間違いじゃない。教えてほしいんだよ。時間があるときでいい」
「わたし、いつでも時間あるよ。売るほど持ってます」
「自分の勉強だってあるだろ」
「そんなのどうでもいいよ」
「いや、よくないだろ」
「でも、どういう風の吹き回しなの?」
「て言うと?」
「だって、これまで一度だってそんなこと言ったこと無かったじゃない」
「人は変わるんだよ。生活するっていうことは変化するってことなんだ」
「その生活の定義、マイブームなの?」
「タマキもやってみるといい」
「結構です。それより、いつにする?」
「何が?」
「勉強会」
「タマキが時間あるときならいつでもいいよ」
「でも、レイくん、部活あるでしょ」
「部活なんていつ休んだっていいんだ。何だったら辞めたっていい。この前の、文化研究部の劇を持って、全ての部活動は終了したんだ、きっと」
「そんなことを勝手に解釈していいの?」
「『生活とは――』って具合に生活の解釈を勝手にしているんだから、生活の中のこまごまとしたことの解釈なんて余計勝手にさせてもらうさ」
「どこで勉強しようか」
「図書館は?」
「でも、図書館じゃ、ひそひそしなきゃいけないんじゃない?」
「ひそひそでいいだろ。それとも、オレを大声で叱りつけるつもりなのか? 『何でこんなことも分からないの!? 小学校から勉強し直してきなさい!』的に」
「楽しそう」
「勘弁してくれ」
「ひそひそよりは普通の大きさの声で話せるところにしましょう。公民館はどう? あらかじめ申し込めば無料で借りられたと思う」
「キミは何でも知っているな」
「確認してみるね」
環はスマホを取り出すと、検索を始めて、空いている日にちを確認した。
「早い方がいいよね。この日はどう?」
と提案された日を怜は受け入れた。その日は、学校が早く終わる日だったので、ちょうどいい。
「一つ借りておくよ」と怜。
「一つ貸しを返せるわ」
「何も貸してない」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
ハムレタスサンドと格闘して見事に勝利を収めた旭が、
「ブランコ押して、レイ!」
ベンチからお尻をずらして地面にジャンプした。
「了解」
怜は立ち上がると、
「片付けを手伝わなくて悪いな」
環に言ってから、少女とともにブランコまで行くと、彼女の小さな背を押してやった。