第238話:隣の芝生が実際に青い場合もある
「宏人、わたしのアイス食べたでしょ!? 白状しなさい!」
「食べてないって言っても、どうせ聞き入れてくれないんだろ」
「何、その開き直り方!? 可愛くない! 食べたなら食べたってはっきり言えばいいじゃん!」
「言ったらどうなるんだよ?」
「怒るに決まってるでしょ!」
「だったら、言っても意味ないだろ。今、現に怒ってるんだから」
「ああ言えばこう言う! 本当にあんたは!」
宏人は、いい加減うんざりしてきた。この話、かれこれ、もう5分ほど続いているのである。昨晩食べずに残しておいたアイスの行方が杳として知れないのに激怒した姉が、弟を犯人だと断定して朝っぱらから叱りつけているのだった。もしも宏人が犯人だとしたら、非難されてもやむをえない。しかし、そんな覚えは無いのである。覚えがないのにアイスを食べていたとしたら、それはもうそういう病だった。叱られている場合ではない。
宏人は、心の中でため息をついた。このままだとらちが空かない。今朝は、これから約束があるのである。うるわしい姉弟のじゃれあいをいつまでも続けているわけにはいかなかった。
「分かったよ。じゃあ、今からコンビニに行って買ってくるから、もうそれでいいだろ」
「ちょっと待ちなさいよ。じゃあ、食べたことを認めるのね」
「認めるよ。オレが食べた」
「何味だった?」
「なに?」
「何の味だったか聞いてるの。別の味のアイスを買ってきたら、承知しないから!」
「何って……」
そんなこと知る由もない。食べていないのだから。「……抹茶味だよ」
「ラムレーズンよ」
「そんなの覚えてないよ。分かった、ラムレーズンな。今買ってくるから」
「あんた、本当は食べてないの?」
「だからそう言っているだろ」
「でも、あんたしかいないじゃん、食べるのなんて…………あっ!」
「ん?」
姉は、コホンと咳払いしてから、
「そう言えば、昨日の夕方、うちに来た賢に、あげたんだった」
と言った。
「えっ、なに?」
「まあ、誰にでも間違いはあるよね」
宏人は、今度はちゃんと深呼吸した。言いたいことは色々とあったけれど、言わなかった。言っても無駄だと思っているからである。
「じゃあ、疑いが晴れたところでもういいよな。オレ、約束があるから」
「志保ちゃんによろしくね」
「ああ」
外に出ると、仲秋の空は綺麗に澄んでいた。この空を見て心のよどみを流すしかないと思った宏人は、それにしても、よくもまあ、アイス一つのことで弟をあそこまでけなすことができるもんだとある意味感心した。まるで、重大犯罪の容疑のある被疑者への刑事の取り調べもかくやというところだろう。
そんなことを思いながら、待ち合わせ場所の公園まで歩いて行くと、今日の澄んだ秋空に負けないような清々しい瞳をした少女の姿があった。藤沢志保は、軽く手を振ってから、近づいてきた。そうして、きょとんとした表情を作った。
「どうしたの、ひどい顔して」
「もとからこんな顔だよ」
「いつもはもうちょっとマシだと思うけど」
「朝の顔はこんなもんなの」
「寝起きなの?」
「そんなとこ。姉貴が藤沢によろしくってさ」
「お姉さんは、いつもわたしのことを気にかけてくれるね」
「いっそ、二人が姉妹になったらいいのに」
「そうしたら、倉木くんはどうするの?」
「オレ? 旅に出るさ。放浪の旅に。自分が何者か分かるまでは、決して帰ってこない」
「そうして二度と帰らなかった」
「到着したところが出発したところよりマシな場所だったら、それもいいかもな」
宏人は、自分の手の中に滑らかな手が滑り込んでくるのを感じた。
「な、なんだよ!?」
「何が?」
「オレの手を取ってる」
「だから? 倉木くんがわたしの手を取ったこともあったでしょ」
「あったけど」
「その時の仕返しを今することにしたのよ。じゃあ、行きましょ」
宏人は彼女に引っ張られる格好で、バス停に行った。
バス停には、何人かの人が並んでいるようだった。
「おい、もういいよ」
「別に構わないでしょ」
「いや、構うだろ」
「何で?」
「何でもだよ」
「分かったわよ」
宏人は、自分の手が解放されるのを認めた後に、
「お前、なんか今日テンション高くないか?」
と訊いた。
「そんなことないでしょ。いつもこんなもんよ」
「そうかなあ」
「じゃあ、富永くんに会える嬉しさでテンション上がってるんじゃないの?」
「『ないの?』って、お前のことだからオレは知らないよ。てか、お前、一哉のこと好きなのか?」
「好きか嫌いかで言えば好きでしょ。だから、付き合ってる」
「じゃあ、オレのことは?」
「好きと言えば好き、ウザイといえばウザイ」
「いや、なんで好きとウザイなんだよ。好きか嫌いかだろ」
「乙女心は複雑なのよ」
「どこに乙女がいんだよ」
「バス来たよ」
現われたバスに揺られること、20分ほどして、着いたのは友人の家の近くである。
友人は、バス停まで迎えに来てくれていた。彼一人だけではなくて、年少の女の子と男の子も一緒にいる。妹と弟である。二人は、宏人を見るなり、宏人に突撃してきたが、ぶつかりそうなところで、素通りして、志保へと向かった。
「子どもは嫌いなんだ」
中腰になっていた宏人は立ち上がって、友人の一哉に言った。
「ところが、子どもの方はお前のことが好きと来てる」
「どこがだよ。マンガみたいに、オレのそばを通り過ぎたじゃないか」
男の子と女の子は、再び宏人に突撃するようにしてきた。
今度は、過たず宏人にタックルしたようである。
「うおっ」
「ヒロト!」
「ヒロト!」
二人の姉弟の声が重なった。
「なんだよ。オレよりあっちのお姉ちゃんの方が好きなんじゃないのか?」
すると、女の子の方が、
「大人のくせに嫉妬しないでよ、みっともない」
と言った。
「キミ何歳?」
「5歳」
「ウソつけ」
「ヒロト、おれ、でんぐり返しできる。やってみるか?」
「いや、待て待て、部屋の中でやれよ。道路の上ではダメだ」
子どもと話していると、心が洗われるようになるのを宏人は感じた。
「何か嫌なことでもあったのか?」と一哉。
「オレ、そんなに顔に出る?」
「出てるな」
「アネキにアイス食べただろって濡れ衣着せられて、詰められたんだよ」
「そりゃ大変だな」
「口にするとそんなつまらないことでってなるんだけど、そこに至るだけの10数年の背景があるから」
「弟は辛いな」
「兄だって辛いって言いたそうだな」
「いや、そんなことはないよ。ただ、生意気盛りの二人の子どもを朝起こして、メシを食べさせて、保育園まで迎えに行って、メシを食べさせて、風呂に入れて、お話をして寝かしつけているだけさ」
「ごめんなさい」
「やってみると、これはこれで案外楽しいもんだ」
「自分の時間あんの?」
「今日、ヒロトが作ってくれるんだろ?」
「そうでした。カズヤはデートでもしてこいよ」
「相手がいればな」
「えっ、じゃあ、今日は何すんの?」
「親友がもみくちゃにされているのを、笑って見てる」
「いい趣味だなあ」
「そうだろ。あと、妹が暴走しないかどうか、チェックしないとな」
「佐奈ちゃん?」
「そう」
「暴走って?」
「お前のことが好きみたいだからさ」
「それはウソだろ」
「なんで?」
「だって、あんないい子がオレのことをなんて、あり得ないだろ。オレには藤沢くらいがちょうどいいよ」
志保は隣から口を出した。「斬新な告白」
「昨日寝ないで考えたんだ」
「今日はちゃんと寝なさい」
「受けてくれる?」
「却下。ちょっとひねりが足りない」
「じゃあ、今度は、ムーンサルト級にしてみるよ」
「ムーンサルトってなに?」
「体操の技」
「それ、ひねるの?」
「失敗すればどこかひねるだろ」
友人の家に着くと、エプロン姿のショートカットの美少女が宏人を迎えてくれるではないか。
「今、お昼の用意をしていたんです」
そう言って、微笑む彼女の可憐さに、宏人はクラクラした。こんな子がもしも自分のことを好きでいてくれたら、それだけで人生はバラ色になるだろう。姉からどんな濡れ衣を着せられても、着こなしてやろうという気にもなるだろう。
しかし、そんなことはありえないのである。それは、妹可愛さに一哉こそが暴走して到達した結論である。彼女がちょっと興味を持っているだけの男を好きなんだという風に見なして警戒してしまうのだ。しかし、宏人はそのことを責めることはなかった。こんな子が妹ならば誰だってそうなる。自分だってそうなる。
「親は夕方まで帰って来ないから、適当に頼むよ。ベビーシッターくんたち」
一哉が楽しそうな顔で言った。
美味しくお昼をいただいたあとは、外の公園で遊んだり、家の中でボードゲームをしたりして、時を過ごした。おおむね宏人は、二人の年少の子どもたちに襲いかかられた。子どもと侮るなかれ、力は相当ある。こんな二人をいつも相手にしているのだから、友人のことを尊敬の念で見るほかない。
「ちょ、ちょっとタイム!」
宏人は、馬乗りしてやろうと躍起になっている二人を止めた。
「タイムなんてないぞ!」
「あるんだよ。何にだってタイムは!」
宏人は何とか二人を体の上からどかすと、ダイニングスペースで優雅にお茶を飲んでいる藤沢志保を見た。
「この立場の違いはなんなんだよ、藤沢。お前もこのリトルモンスターズに、もみくちゃにされろよ」
「わたし、そういうキャラじゃないから」
「シッター失格だろ」
「じゃあ、わたしは、マネージャーになるわ」
「どういうことだよ」
「シッターである倉木くんを監督する役目よ。ほら、もっと遊んであげなさい」
「ずるいぞ!」
宏人のタイムアウトは終わり、再びもみくちゃにされた。
ようやくそれから解放されて、宏人もお茶を飲める状態になったときには、そろそろお暇しなければいけない時間になっていた。最後に志保が二人の少年少女に絵本を読んでやっている間に、ダイニングテーブルにつけた宏人は、
「先輩、今日は本当にありがとうございました。先輩に来ていただけて、妹も弟もすごく嬉しかったと思います」
佐奈に正面から言われて、心打たれた。
「どうかしましたか?」
「いや、いい子過ぎる。世の中にこんなにいい子がいていいのだろうか、と思って」
佐奈は頬を染めた。「大げさです」
「そうそう、お前の前だからそういう振りをしているんだよ。結構、だらしないぞ、こいつは。服も脱いだら脱ぎっぱなしだしな」とその兄。
「も、もう、やめてよ、お兄ちゃん! それ、お兄ちゃんの話でしょう!」
「はは、悪い、悪い……お、おい、ヒロト、どうした?」
「えっ?」
どうしたと問われても何を聞かれているのか分からなかったが、どうやら、宏人は自分が涙を流しているのだということに気がついた。おそらく、理想的な兄弟姉妹のあり方を、この家に見たからだろう。ここだけではない。志保の所だって、年少の弟と仲良さそうである。それなのに、どうして自分だけなんだと、自分を憐れんでしまったのだった。情けないことこの上無いが、止めようとする間もなかったのだから、しょうがない。
宏人は、ハンカチで涙を拭った。
「大丈夫か?」
「ああ、大丈夫だよ。ドライアイなんだ」
「ドライアイ?」
「そう」
「だったら、涙出ないんじゃないか?」
「じゃあ、花粉症だよ」
「じゃあって何だよ」
「羨ましかったんだよ」
「何が?」
「二人が。悪いか?」
「悪くはない。何を羨ましがられてるかは分からないけど」
「お前も毎日、アイスを食べたなんていうくだらないことで責められてみれば分かるよ」
「うちじゃ、そんなことしょっちゅうだけどな。『所有権』っていう概念がないんだ」
「うちには『信頼』っていう言葉が無い」
「何か助けてやれるといいけど」
「いや、いい。多分、オレがアイス並みに甘えているだけだから」
宏人が首を横に振ると、佐奈が気遣わしげな表情で、
「先輩、わたしにできることがあったら何でも言ってくださいね」
親身な調子で言ってくれたので、もう一度泣きそうになった。
宏人は、志保と一緒に帰路を取った。彼女を家に送り届けてから自宅に戻ると、お風呂上がりであろう姉が華麗な下着姿で迎えてくれて、目の毒である。
「ヒロト」
「何だよ。今度は何を食ったんだよ、オレ」
「冷凍庫開けなさい」
「え?」
「早く」
宏人は言われたとおりにした。すると、そこには、アイスのカップが三つあるではないか。
「何だよ、これ?」
「朝は悪かったわ。それで手を打ちなさい。根に持たないでよね」
姉はそれだけ言うと、下着姿でうろうろしているところを母に見とがめられて注意されそうなところで、それをかわすように自室に行ったようである。
宏人は、あの姉にも少しは罪の意識というものがあるのだろうかと思って、見直すとともに、友人の前で弱音を吐いたことを恥ずかしく思ったが、アイス補償の裏に、隣家の幼なじみで姉が勝手に自らの婚約者と目している少年の存在があったことを、翌日知るのだった。