第237話:人生は一度きり
芦谷紬は、渡る世間は鬼ばかり、という諺を噛みしめていた。
――あれ、渡る世間に鬼はなし、だっけ?
調べる気にもならない。
彼女の心を悩ませているのは、もっぱら、一人の男の子だった。
これが恋なのかどうかは分からないけれど、気になるその子ともっと親しく話したい。
しかし、彼には恋人がおり、当然に彼は恋人のものなのである。
気楽に声をかけることすらできない。
ああ、これがもしも5年前だったら、と紬は思うのである。
5年前、転校する前、同じ小学校の同じクラスのときだったら、いくらでも気楽に話しかけることができた。
たった5年前の話に過ぎないのである。
外堀を埋めるために、彼が親しくしている女の子二人に声をかけてみた。
しかし、作戦はうまくいかなかった。
彼――加藤くんも難物だけれど、その二人の少女も中々に手強い。中々というか、果たして隙などあるのだろうかという気にさせられるほどである。まさか、「仲良くしてね」と手を差し出して、「いいえ、結構です」と、訪問販売員じゃあるまいし、あんなにも素っ気なく断られるとは思わなかった。
女子がダメなら男子はどうか。加藤くんと親しくしている男子を経由して、加藤くんに近づくというのは? これも厳しい。というのも、彼が親しくしている男子には、あらかた彼女がいるようであって、そんな男子に接近していたら、そのうちに刺されてしまう。
「うー……でも、話したいよー」
紬は自室のベッドの上で、煩悶した。もしもタイムスリップできたら、5年前にスリップして、もっと彼と語り合うのに。いわば、紬はチャンスを逃したのだった。そうして、一度逃したチャンスは二度と巡って来ないのだ。人生は一度きりということの意味を、まさに紬は噛みしめていた。
スマホが友だちからのメッセージを届けてくれた。
小学校時代の友人で、こっちに帰ってきてから付き合いが復活した子である。
「今、何してる?」
「ゴロゴロ」
「ツムギ、波多野くんって覚えてる?」
「誰だっけ?」
「同小だよ」
「そうだったっけ、それで?」
「イケメンになってる」
「よかったね」
「小学校の時ツムギのことが好きで、今でもまだツムギのこと好きなんだって。てか、ツムギの今の写メ送ったら、惚れ直したってさ」
「勝手なことを」
「いけなかった?」
「その波多野くんには悪いけど、って言うのはなんか上からだけど、わたし、好きな人いるから」
「えっ!」
「いるよ、普通に。だから、責任持って、そう伝えておいてね」
「好きな人いるんだ、誰?」
「同じ中学校の人」
「もう好きになったの? この前帰ってきたばっかりじゃん」
「一目惚れだね」
「波多野くんの写メだけでも見たら」
「いい。実は、わたしイケメン嫌いなの。フツメンが好き」
「そうなの!?」
「そうなの。だから、イケメンであればあるほど、わたしのストライクゾーンから外れていくんだね」
「どんな人、好きな人って」
「同じクラスの男子」
「今日、泊まりに行っていい?」
「次にして。1週間経って、まだわたしの恋バナに興味があったら、話すことにする」
紬は再びごろんと横になった。自慢するわけではないけれど、小学校の高学年になった頃から、ちょこちょこと男子に人気が出た。告白も何度もされた。しかし、紬の心は動かされなかった。耐えたわけではない。さざ波に寄せられた岩のように、ただ動かされなかっただけである。
紬だって、人並みに恋愛に興味はあるし、カレシが欲しいと思っている。しかし、誰でもいいわけではない。紬がカレシにしたいのは、たとえば困っている人がいたときに、一緒にその人のことを助けられるような人だった。
――それじゃ、やっぱり加藤くんになっちゃう。
それはマズイ。彼はカノジョ持ちなのだから。それに、加藤くんが好きなのかと言えば、そういう気持ちかどうかは分からない。昔の彼なら、今好きになれる。年の差があるけれど。なに、5年くらいの年の差、いずれは埋まるだろう。こっちが30になれば、彼は25になる。30歳と25歳なら、それほどおかしくは……。いや、微妙と言えば、微妙である。5歳年下の男性を親に紹介する勇気は、少なくとも今の時点では無かった。
――でも、30歳になれば気持ちも変わるかもしれないし……って、ちょっと待って、なんか、変なこと考えているぞ。
紬は考えを戻した。今の彼はどうなのか。二言三言話した感じ、悪い気はしなかった。というか、丸くなっているような気がした。以前の人を寄せ付けないようなオーラが小さくなり、むしろ、近づくと包み込まれるような気持ちになる。引力があると言ってもよかった。だから、もっと話したいと思うのである。
現状、同じクラスでしかも同じ部活動なのだから、それきっかけで何か話す機会が無いかと窺っているのだけれど、それも無いのだった。そりゃちょっとは話すけれど、昔みたいに二人きりでじっくりと話すことはできない。
もしかしたら自分は過度な幻想を彼に対して抱いているのかもしれないと、紬は一応そんな風に考えることはできた。5年前の彼のことも思い出補正によるのではないかと。しかし、それが思い出を美化しているのかどうかも、現にしゃべってみないと何とも言えないところがあって、がんじがらめである。
どうしてこんなに彼と話したいのか。彼自身のことが気になるということの他に、他ならぬ自分自身のこともあった。紬は、自分自身を加藤くんに見てもらいたかった。自分がどういう人間なのかを。果たして彼の目に映るに足る人間なのかを。しかし、それをそのまま彼にぶつけるのは違う気がした。
それは、プライドの問題ではなくて、品位の問題だった。ストレートに物事を行わないだけの品位を紬は、この5年で身につけたのだった。これは、「なんでもはっきりとするのがいい」という現代社会の価値観には真っ向反するものだけれど、間違ってはいないと思っている。なんでもはっきりするのがいいのは、科学的な価値観である。ところが、科学で作れるのはアトムくらいであって、ロミオは作れない。簡単に言うとそういうことなのだった。
紬はベッドから起き上がると、勉強することにした。本当はもっとベッドの上で、恋か何か分からない思いに煩悶していたいのだけれど、受験生、そればっかりをしているわけにはいかないので、机に向かった。この前こっちに帰ってきたばかりだったので、どこの高校にするかをまだ決めていない。学校の先生には、この成績ならトップ校を狙えると言われたけれど、そんなに勉強が好きというわけでもないのだった。トップ校に入って、ビシバシしごかれるよりは、ちょっと下の高校に入ってノビノビやりたいという気持ちがある。
――何て言うんだっけ、こういうの、竜頭蛇尾……じゃない、鶏口牛後だ。
さっきの「渡鬼」についても調べておくことにした。渡る世間に鬼は無し、が正しかった。
――いや、鬼ばっかりだよ!
そう言えば、加藤くんはどこの高校に行くのだろうかと、また彼のことを紬は考え始めた。ひょっとして、彼と同じ高校に行けば色々とチャンスはできるのか。いやいや、待て待て、男子を追って同じ高校に行くって、少女マンガのヒロインじゃあるまいし、そんなことできるわけもない。それに、もしも、彼に望むものを現に彼が持っていなかったとしたら、紬はただ行きたくもない高校に行っただけの非常にアホな女の子ということになる。
――正気になれ、わたし!
紬は、目前の空間図形に意識を集中させた。横たわった直方体を斜めに切って、その断面の表面積を求める問題なのだけれど、やっていることの意味がまずもって分からなかった。これをすることでどんな意味があるのだろうか。羊羹を間違えて斜めに切ってしまったときに、その断面の面積を求めることができるようになるけれど、そもそもそのような欲求を持つことがどういうことなのかが分からない。だから、数学は嫌いだった。生活に密着していない知識というのは、いったいどういう意味があるのか。とはいえ、解けるは解けるので、それが頭の良さということなのだとしたら、頭がいいということは、目が悪いということにならないか。物事の何であるかを見ない人ほど、頭がいいということになる。
そういうことを話せない、話しても分かる人がいないというのが、紬の不幸だった。
また、メッセージが来た。「今度、遊びに行かない?」
「やめとく」
「なんで?」
「サプライズで波多野くん、連れてくるでしょ」
「なんで分かったの?」
「適当。本気だったの?」
「やっぱり、会う気は無い?」
「無いよ」
「ツムギってちょっと変わったよね。前はノリよかったのに」
「5年あれば、おぎゃあと生まれて泣くことしかしなかった子が、政治について語り始めることもあるんだから、人は変わるのよ」
「昔は、そんな変なことも言わなかった」
「変かな」
「変だよ」
「じゃあ、変なんだね」
「わたしは、昔のツムギの方が好きだったな」
「ありがとう」
「なに?」
「昔のわたしのことを好きでいてくれて。あと、さようならとも言わないといけないのかな?」
「どういうこと」
「今のわたしのことが好きじゃないなら、付き合えないでしょう」
「怒ったの?」
「怒ってないよ」
「絶対変」
友だちがそう言うならそうなのだろう。変かもしれないけれど、その分だけ自由になったことだけは確かだった。今まさに話している友だちと、今まさに別れることができる軽やかさが自分の中にある。
「わたしは、5年前の自分よりも今の自分の方が好き。それで、何か不快な思いをさせてたら、ごめんね」
「別に不快とまでは思ってないよ」
「なら、よかった。勉強に戻るね。羊羹の断面積を求めるのを続けさせて」
「羊羹ってなんのこと?」
「今度プレゼントするよ」
紬は再び勉強に戻った。そうして、羊羹のあとは、とんがりコーンの表面積を求める計算をした。今度、とんがりコーンを食べるときにその表面積が分かるということは、非常に素晴らしいことなのだと紬は思い見なそうとしたが、うまくはいかなかった。