第235話:そうだ、修学旅行に行こう!
修学旅行の季節になった。怜の学校では二年生のうちに修学旅行を済ませる。それにも関わらず、どうして三年生の怜が修学旅行を気にしたのかと言うと、それは今二年生である妹がその修学旅行に行くからだった。その間、妹と離れることができる。毎朝顔を突き合わせるたびに、
「親が一緒でなければ絶対にこいつと付き合うことなど無かったのに、うっとうしいなあ」
という目をされなくてよくなるのである。修学旅行。何と素晴らしいシステムだろうか。学校もたまには粋なことをする。自分が行くときよりも、修旅のその日を心待ちにしながら、ルンルンとした気持ちで、その日教室に入ると、怜はクラスの中の一人の少女に目が向いた。そのとき、ふっと、浮かんだ想念に、やれやれと自分でかぶりを振った。どうしてそんなことが可能だろうか。できるわけがない。
いや、できたとして、そんなことをして彼女が喜ぶだろうか。喜んだ振りはするかもしれない。いや、ありがたいと思ってくれることもあるかもしれない。それは大いに考えられる。しかし、同時にそれは彼女を侮辱することにならないか。
こういうのを魔が差すと言うのだろうと思い見なした怜は、差した魔を払うべく頭を振ったら、隣の席の女子から白い目で見られた。
しかし、思い浮かんだその想念は立ち去らず、それどころか怜の心の部屋に居座り続けた。でんとして動かない。一日中占拠されているうちに、怜は根負けした。これは、もう実行に移すしかない。その考えを実行するに問題はいくつもあるけれど、一番の問題は時間だった。一日分の時間が必要であるのだが、怜には現在、自由時間が不足している。
いつからこんなに時間が無い身となってしまったのか。大統領や国民的アイドルならいざ知らず、ごくごく普通の中学生がレジャーのための時間が無いなどというのは、どう考えてもおかしいではないか。この時間問題を解決しない限りは何も先には進まないのだが、簡単に解決することができると言えばできるのである。
覚悟を持つことだった。それだけでいい。時間を使った代償に、怜の時間の管理権者からお小言を頂く。その覚悟さえ持てばいいのである。煎じ詰めれば、人生というのは覚悟を持つかどうかということで決まるのだ。元気があれば何でもできると言った人がいるが、それに倣って言えば、覚悟があれば大概のことはできるのだ。
とりあえず、時間の問題をクリアしたことにした怜は、次の問題を検討することにした。どうやら、怜の頭は、自動的に「計画」に向かって進んでいるようだった。素晴らしい機能である。この機能が勉強にも応用できたらいいのに。自動的に設問を考えてしまうといったように。しかし、それは言っても詮無いことである。
「お兄ちゃん、ちょっといい?」
怜の想念は、妹の闖入によって破られた。
怜は、ノックをするように彼女に言った方がいいだろうかと思って、言っても無駄だろうと即断して、やめた。
「修学旅行でお土産に買ってきてほしいものをリストアップしてるんだ。お兄ちゃんにも一応聞いておいてあげようと思って」
「熱でもあるのか?」
「修学旅行に浮かれてはいるけどね。なに、要らないの、お土産」
「お前が無事帰ってきてくれたらそれでいいさ」
「そういうのいいから。何がいい?」
「じゃあ、抹茶」
「却下」
「なんで?」
「高い」
「じゃあ、八つ橋」
「それは、普通に買ってくるから」
「抹茶か八つ橋しか知らないから、ミヤコのセンスであとはどうにかしてくれ」
「何でもいいの?」
「センスのいいお土産を選ぶことに関しては、お前を信頼しているよ」
「なんか、それ以外のことに関しては、信頼されていないみたい」
「まさか」
怜は少しだけ考えて、一つだけ、食べてあとかたもなくなるものという条件をつけることにした。
「どうして?」
「どうしてってこともないけど」
「後に残るものは迷惑ってことでしょ」
怜は、この種の問題に関する妹の頭の回転の速さに脱帽した。
「分かった」と妹。
「よかった」と兄。
「なんか気持ちの悪い感じのキーホルダーにするから」
「オレの話、聞いてたか?」
「聞いてたから、それにするのよ。口は災いのもとだね」
「だとしたら、もともと聞かなければいいだろう」
「言い方っていうものがあるでしょ! もういい、お兄ちゃんには何も買ってこない!」
もとから、怜としては、お土産など期待していなかったのだから、そんなことを宣言されても痛くも痒くもなかった。
「だったら、話は終わりだな。出て行ってくれないか」
「今出て行くわよ。お兄ちゃんなんて大っ嫌い! もともと嫌いだったけど、余計嫌いになったよ!」
バンとドアを閉めて出て行った彼女を見送った怜は、今のやり取りに自分に非があっただろうかと考えてみて、あるいはあったかもしれないと、対妹との関係の中で珍しく非を認めた。考えるべき事があったので、妹の応対まで気が回らなかったのである。
とりあえず、妹のことは後回しでいい。どうせすぐに謝ったところで、彼女を増長させるだけのことである。それに非があると言ったって、そこまで非があるわけではない。せいぜいが、8対2といったところだろう。もちろん、8が向こうである。
怜はカレンダーを見つめた。決行日を決めなくてはならない。今週末では早すぎる。来週の土日は無理である。そこには予定がある。来月の頭の週末では、どうか。いいかもしれない。いや、いいということにした。そうして、鈴音に電話をかけた。
「どうしたの? びっくりしたあ」
「来月初めの土日、どっちか空けてくれ」
「え、なに?」
「来月第一週の土曜日か日曜日か、どっちか一日、オレにくれ」
「なんで?」
「なんでもだよ。議論は無しだ」
「酔っ払ってるの、加藤くん?」
「正気だよ。ただ、妹と喧嘩して、ちょっと頭にきているってのはあるけどな」
「今すぐ妹さんに謝りなさい」
「却下」
「なんで?」
「面倒くさい。いいな、第一週の土日だぞ」
「了解」
「ん?」
「なによ」
「いいのか?」
「いいわよ」
「何で空けてもらいたいのかまだ理由を話してない」
「信用しているわ」
「妹にも信用されてない男だぞ」
「妹さんは、多分期待が大きいのよ、きっと。お兄さんに対して。期待が大きいと、信頼も大きくなって、それがちょっとでも満たされないと、信用を失う」
「その線だと、スズはオレに期待してないことになる」
「期待してほしいの?」
「そういう人が家族以外に一人でもいてくれたら、人間生きていけるもんだ」
「今どこにいるの? 高層ビルの屋上とかじゃないでしょうね」
「100万ドルの夜景は見えないようだけどな」
「よく分からないけど、自棄にならないで」
「お前のニヤケ面が目に浮かぶよ」
「ねえ、これ、続ける?」
「始めたのはオレだったか?」
「加藤くんでしょ」
「じゃあ、やめよう。でも、続けてもいい」
「じゃあ、土曜日の方を空けるわ。その日は、全ての予定をキャンセルして、オフ日にする」
「忙しかったのか?」
「まあ、それなりにはね」
「後悔させないと言いたいけど、怒らせるかもしれない」
「怒る? 誰が?」
「スズが」
「この頃怒ってないから、怒るのもいいかもしれないね。ストレス発散になるかも」
「怒りが? なるのか? 泣くのはストレス解消になるって聞いたことがあるけど、怒りについては聞いたことがない」
「分からないけど、怒鳴ればそうなるんじゃない?」
「ならなかったら?」
「ただ、怒鳴り声を聞いてもらえればいいわ」
「了解。怒鳴り声には、ある程度、耐性がある。今さっきもそうだったんだ」
「あ、土曜日空けるのはいいけど、交換条件を出すわ」
「なに?」
「妹さんに謝ってきなさい」
「冗談だろ?」
「残念ながら。議論は無しよ。じゃ」
怜は、切られた電話を置くと、一度だけ深呼吸した後に、部屋を出て妹の部屋をノックした。
「はい?」
おそらくは、母親が来たのだとでも思ったのだろう普通の声で応対した彼女が部屋のドアを開くと、そこに我が兄を見たので、ムッとした表情を作った。
「なによ?」
「さっきは悪かったな。ちょっと考え事をしていたから、対応がぞんざいになった」
「ぞんざいって何? ぜんざいの仲間?」
「いい加減ってことだよ」
「反省しているの?」
「しているよ。ミヤコがくれるものだったら、何でもありがたくもらうようにする」
「別にいいわよ、もらってくれなくたって。いらないんでしょ」
「お土産については、どっちでもいい。とにかく、さっきは悪かったな」
そう言うと、怜は、妹の部屋を離れて、自室に戻った。これでいいだろう。謝るには謝ったのだから、約束は果たした。
ぞんざいな対応をしたことに関しては悪いという気持ちはあるけれど、それを言ったら、いつもぜんざいよりも自分に甘く生きている彼女の兄に対する対応はひどいものがある。相手の対応がひどいからと言って、こちらもひどい対応をするというのはあるいは理にかなわないことかもしれないけれど、クレーム係ではないのだから、いつだって冷静な対応するというわけにはいかない。お金ももらってないのに。
ガチャリとドアが開いた。当然に都である。彼女は、不機嫌な顔を保ったままで、
「で、欲しいものは?」
と訊いてきた。
まだその話続いていたのかと思ったが、終わらせないといけないと思い、しかし、やはり何も思いつかなかったので、
「スポンジの剣を頼む」
と言った。我ながら発想の貧困さにうんざりするけれど、しょうがない。
「そんなものがなんで欲しいのよ?」
「男子は、いつだってチャンバラが好きなんだ」
「お兄ちゃん、剣道やってたじゃん」
「やってたな」
「竹刀捨てたわけじゃないんでしょ?」
「あるよ、押し入れに」
「それを振ればいいじゃんか」
「そんなものをそのあたりで振ってたら不審者に間違われるだろ。警察の厄介になって、高校入試受験資格を剥奪されたくない」
「何でそのあたりで振っていることが前提なのよ、道場に行けばいいじゃん」
「もうずっと行ってないから、今さら行けないだろ」
「スポンジの剣なんて買わない。中二にもなって、そんなものを家族のお土産にするって言ったら、頭おかしいと思われるでしょ」
「悪いが、それしか思いつかない」
「もういいわよ。わたしが適当に見繕ってくる。初めからお兄ちゃんなんかに訊かなければよかった」
だったら、本当に初めからそうしてくれればよかったのに、と怜は思った。この一連のやりとりは一体何だったのだろうか。無駄である。しかし、無駄ということを言えば、この人生自体が大いなる無駄と言えないこともなくて、その大いなる無駄の中の小さな無駄に寛容になれないこともないのだった。いや、なるしかないのである。そうしないと、中々生きていくことは難しい。
妹が立ち去ったあとに、怜は次の一手を考えなければいけなかった。しかし、大して考える必要も無かった。カレシというのがカノジョのものだとしたら、カレシが何かをするときはカノジョに許可をもらわなくてはいけないし、そもそもが彼女にも手伝ってもらわないといけなかった。あとはどうだろうか。考えられることはあったけれど、それはさすがに無理かもしれなかった。できる範囲のことをするしかない。とりあえずは、カノジョである。こちらは電話で済ますというわけには行かないので、明日話してみるしかない。