第232話:つまずかなければ歩き出せないこともある
鈴音は、文化祭の一日を、いつもとさして変わらないテンションで迎えた。周囲のクラスメートたちは、テンションが上がっていたようだけれど、それほど楽しみというわけでもなく、とはいえ、もちろん、嫌だと言うわけでもなかったわけで、つまりは、いつもと同じだったのだ。
「一般公開されていたら絶対に見に行くのに!」
そんなことを言って名残惜しそうに娘を見送る母を後ろにして、その日の朝、鈴音は家を出たのだった。文化祭というと華やかなイメージがあるけれど、そのイメージに当たるのは、高校や大学のそれであって、中学校では大したことはなかった。少なくとも鈴音の学校ではそうだ。体育館に集まって、色々な劇を見たり、ちょこっとグラウンドにステージのようなものができるので、そこで演奏があったりと、まあその程度のものである。一般公開もされていなければ、屋台も出なかった。それでも、授業がないということでもって御の字なのだろう、周囲は浮かれているようだった。
鈴音は、属している文化研究部の劇に出る予定になっていた。劇までの時間、教室で待機中、同じ劇に出る予定になっている男の子に、
「緊張してない?」
と訊くと、
「別にしてない」
と彼は平然と答えた。
「凄いね」
「お前はしているのか、スズ」
「それはちょっとはしているよ、もちろん。だって、みんなの前で役を演じるわけだから」
「スズでも緊張するんだな」
「わたしのこと、何だと思っているのよ」
「アイアンハートかと思ってさ」
「鋼鉄の腕で、首を締め上げてあげたい」
「勘弁してくれ」
「わたしがミスをしたら、何かフォローしてもらえる?」
「オレが?」
「他に誰が?」
「どうやって、フォローすればいいんだよ」
「どうって……わたしがセリフを忘れるでしょ、そうしたら、加藤くんがそれを口パクで教えてくれるのよ」
「通じるか?」
「多分ね」
「じゃあ、やってみよう。ただ、あのセリフを忘れるとは思えないけどなあ」
「というと」
「だって、オレたちがいつも話しているようなセリフだからな」
「それが返って難しいということもあると思うけどな」
「そうか? じゃあ、まあ、スズがセリフを飛ばしてしまったときは、オレが何とかするよ、多分な」
「多分!?」
「確実には言えないだろ、それは。できないかもしれないし」
「できなくても、自信たっぷりにできるって言ってもらえれば、わたしも自信が持てるのよ。そうすればミスがなくなって、加藤くんの出番もなくなるわけ」
「いや、お前がどんなに完璧に役を演じても、オレの出番はあるだろ。役があるわけだから」
「わたしを助ける出番がなくなるってこと」
「分かった。オレがスズを助けるよ。セリフを飛ばしたらオレが教えるし、舞台ですっころんだらオレはそうだなあ……いきなり、大声でも出すか」
「リラックスできたよ」
「それはよかった。まあ、間違えてグダグダになっても、別に大したことはない。そもそもが、大した劇じゃないし、大した部じゃない」
「部長に知られたら、殺されるんじゃないの」
「今ここには、文化研究部のメンバーはオレとお前しかいない。だから、誰にも知られる心配は無い」
「壁に耳あり、障子に目ありだよ」
「六組にメガネ部長無しだよ」
「それはどうかな」
鈴音が意味ありげに視線を巡らせると、彼の視線も動いた。その視線の先に、誰あろう、我らが文化研究部の部長の姿があった。
「わたしのことを言うなら、『おだんご部長』って言ってほしいわね」
田辺杏子は、今日も見事なお団子頭で、仁王立ちしていた。
「こ、こんなところに、なぜ」と怜。
「なぜって呼びに来たんだよ、二人を。そうしたら、わたしのことを話しているのが聞こえてね」
「聞いていたのか?」
「全部聞いていたわよ。まさか、加藤くんがそんなことを思っていたなんて。わたしたちは、現文化研究部の最古参メンバーとして、これまで文化研究部を盛り立ててきたじゃない。それなのに……これは、わたしに対する裏切りだよ、加藤くん!」
「そんなに大げさなことを言うことないだろう」
「信じてたのに」
「信じる方がバカを見る世の中だ」
「たとえそうだとしても、わたしは、信じて裏切られることを選ぶよ!」
そう言って、部長は、どこか遠くを見た。
やれやれと怜は首を横に振った。
鈴音は、この二人はどこまでが本気なのだろうかと思った。二人の間には、ある種の何かしらの絆が確かにあって、入り込めないようなものを感じていたのだった。そう伝えると、
「そんな秘められた友情みたいなものはない」
怜は即座に否定したけれど、部長は、
「……ないことはないでしょう?」
と彼の意見を否定した。
「いや、ないだろ」
「ないことはないよ。だって、わたしたち、一年生の時からずっと一緒だったじゃない」
「ずっと一緒? ……まあ、あの視聴覚教室で、それぞれが勝手にそれぞれのことをやっていただけだけどな」
「それだって、一緒だったことには変わりないわ。そうでしょ?」
「何が言いたいんだ」
「つまり、もっとこう加藤くんは、わたしに対して、尊敬とかいたわりとかそういう心優しい気持ちをもってもいいと思うのよ」
「田辺は、オレに対して、そういう気持ちはあるのか?」
「えっ……………………モチロン」
「随分、長い沈黙だったな。たっぷり、3秒はあったぞ」
「3秒くらい許してよ。地球が生まれてから今までの時間と比べたら、大したことないでしょ」
「それと比べたら、オレの一生も、田辺の一生も、大したことなくなるだろ」
「とにかく、加藤くんは、わたしに冷たすぎる。『部長は壊れ物』ということを胸に刻みなさい」
「もうすでに壊れているかもな」
「きいいいい、悔しい!」
「ほら、変な音が出てる。油を差さないと」
「いつも油を売っている人に言われたくない。とにかく、時間までにきちんと集まってよ!」
そう言うと、壊れやすい部長は、風を巻いて教室を出た。
「部長は昔からあんな感じなの?」
「昔からああいう感じかどうかはよく分からない。なにせ、話さなかったからな」
「視聴覚教室に、部長と二人きりだったのに?」
「その表現は語弊があるな。その時は、三年生が一人いて、その人は女子だったから、もっぱら田辺は、その先輩と話していたんだ」
「それじゃあ、両手に花の状態で一年過ごしたっていうこと?」
「ははは」
「すごい乾いた笑い方」
「1年間はほとんど何もしないで過ごした。ありがたい、満ち足りた平穏な日々だったよ。そこに、一人女の子が入ってきて、まあ、それでも平穏だったかもしれない。彼女と部長が言い合うのを聞いていればよかったんだからな。で、今、受験生のこの時期が一番忙しくなっているってわけだ」
「充実してていいんじゃないの」
「ものは言いようだな。そんなことを言ったら、何だって言える。苦しみは全部試練に変えることができる。ところで、スズ。お昼を一緒に食べないか?」
「また、いきなりだね。カノジョ持ちの方と、お昼を一緒にする勇気はありません」
「それこそ、同じ部活のよしみだろ」
「タマちゃんと一緒に食べるんじゃないの?」
「一応誘ってはみるが、断られる気がする」
「どうして?」
「今日は、あいつがお弁当を作ってくれることになっているんだ」
「それを一人で開ける勇気が無いってこと?」
「そういうこと」
「なるほど。でも、わたしのことを、タマちゃんに断られたときの保険にするっていうのはどうなの?」
「何かいい風に解釈してくれ」
「お断りします。誰か男子の友だちと食べればいいでしょう」
「おい。そんなことできるわけないだろう。まだ、中学校生活は残りがあるんだ。軽蔑されたくない」
「そんなことしないでしょ」
「軽蔑は言い過ぎたかもしれないが、何かしらの負の感情を向けられる気がする」
「加藤くんの友だちに限ってそれはないんじゃないかな」
「無いかもしれないし、あるかもしれない。どんなことにも可能性はある」
「とにかくお断りします。どんなお弁当だったかは、想像しておくことにするわ」
「写メを送ってもいい」
「結構です」
鈴音は、心がリラックスするのを覚えた。肩から力が抜けた気がする。とすると、劇に対して緊張していたのかと言えば、多分そういうことではなくて、緊張というなら、この学校という空間に対してのそれに違いなかった。さっきまでの彼の部長との掛けあいや、自分とのやり取りの目的は、そういうところにもあるのだろうと鈴音は思った。鈴音にとって彼はつまずきの石だった。しかし、つまずかなければ、歩き出せなかったかもしれない。手を取ってくれたのも彼であれば、つまずかせてくれたのも彼である。
「どうかしたか?」
「どうして?」
「変な目で見てた」
「わたしはいつもこういうような目です」
親友のカレシに対してあまりべたべたしたくないという思いがある一方で、あんまりしゃべらないというのもそれはそれで「意識」の裏返しということになるだろうからうまくない。それで、ちょこちょこと話すようにしているわけだけれど、そういう接し方もそれはそれでということになる。鈴音は、まだ立ち上がってもいない自分を感じていた。
「そろそろ、準備した方がいいんじゃないの?」
「そうだな。その前にトイレに行ってくるよ」
「それ、言う必要あるかな」
「言わないと分からないじゃないか」
「分かる必要あるかな」
「スズも行っておいた方がいいんじゃないか?」
「加藤くん!」
「まあ、無理には勧めないけど。ちょっと待っててくれ」
「はいはい」
席を立って教室を出て行く彼を見送りながら、鈴音は、ふうと息をついた。もしも、出会い方が違っていたら、などということは鈴音は考えなかった。出会い方が違っていたら、それはもう別の自分であり、別の彼である。今の自分、今の彼とは関係が無い。そうして、そもそもが、この出会い自体も悪くはなかった。あとは、もうやはり自分の問題だった。もちろん、あらゆる問題がそうであるといえば、そうなのかもしれないけれど。