第231話:文化祭の一日
文化祭当日、怜は、いつも通りの時間に起きた。そうして、憂鬱な気持ちになった。文化祭に出ること自体が憂鬱というよりは、文化祭に出ることによって、いつものルーティンが崩れてしまうかもしれないということへの憂鬱である。毎日きちんと決められたことをやっているというのに、今日に限ってはそれができないのは、なんとも気持ち悪かった。そうして、そんなことを気持ち悪いと思っている自分が、どうしようもなく気持ち悪くもあった。
昔は、ルーティンなど何も無かった。もちろん、学校があったり、家の仕事として課されたことはやらなくてはならなかったりしたわけだけれど、それ以外は何も無かったのである。自由だった。それなのに、今では、毎日きちんとやるべきことが決められてしまっているのである。いつから、こんなことになってしまったのか、そうして、いつまでこんな状況が続くのかは分からないが、なってしまったものはしょうがないし、それに慣れていくのだった。そもそもが、生きているということそれ自体に慣れているのだから、それ以外のことなどいくらでも慣れることができるのかもしれなかった。
「なんか劇をやるっていうことらしいけど、わたしに恥かかせないでよね、お兄ちゃん」
妹の対応にも慣れたものである。彼女は、起きたばかりで前衛アートのようになった髪を直す前に、空腹を満たそうとして朝食の席に着いていた。怜は、善処するよ、と応じた。
「努めるだけじゃだめなのよ、お兄ちゃん。この世は結果が全てなんだから!」
だとすると、妹という結果を世に残してしまった、父母の成績はどうなるのだろうか、と怜は考えてみた。もちろん、彼女はこれから成長するだろう。成長したら、また違ってくるところもあるかもしれないが、とりあえず現時点で見たら、この点に関しては、それほど大したスコアにはならないのではなかろうか。しかし、そう言って、妹を非難することは怜にはできなかった。仮に妹のことを言ったとすると、今度は、その兄のことが言われることになって、ますます父母のスコアを下げることになる。
朝からあまり親不孝をしたくない怜は、妹に対して適当なうなずきを返すと、用意された朝食に向かった。あまり食欲が無かったので、ご飯を少なめにしていただくと、
「本当に、お昼ご飯はいらないの?」
と念を押された。今日は、給食は無い。弁当を持参することになっている。その弁当を断ったのは、カノジョが、
「わたしにでんぶでハートマークをあしらったお弁当を作らせてくれたら、向こう3ヶ月間、けっして、日本の政治の批判をしないことを約束します!」
と怜にとっては、特にメリットの無い交換条件を出してくれたので、それをありがたく受けた格好だった。
「タマキさんに作ってもらうとか、ちょっとはタマキさんの迷惑を考えたらどうなの?」
妹が、この前言われたことの仕返しとばかりに言ってきた。怜は争わなかった。できるだけ、彼女とは争わないのが吉である。できれば口も利かない方がいい。怜は、少なくともあと3年半ほどは、妹と一緒にこの家にいないといけないのだということを再確認して、暗澹たる気持ちになった。この家族というもの、こちらの意志に関わらずいやおうなく関係を結ばされる人たちというのは、本当に人間の精神を鍛えてくれるものだと怜は思った。そうでも思わないとやりきれないということもある。
妹との楽しい会食を済ませた怜は、先に家を出た。美しい秋晴れである。そろそろ、中秋の名月も近いはずだった。
「いつだったっけ?」
カノジョと合流したあとに尋ねると、
「三日後ですね」
と答えが返ってきた。
「キミは何でも知っている」
「わたし、月から来たから」
「どんな罪を得て来たんだ?」
「そんなに大したことはしてないと思うけど」
「自分では分からないものだからな」
「そう言えば、『月見れば――』っていう和歌があったね」
「千々にものこそ悲しけれ我が身一つの秋にはあらねど」
「レイくんは何でも知っているんだね」
「知っているものは知っている、知らないことは知らない」
「それを知るという」
「やめよう。どうして、朝から古文だか漢文だかの授業を受けないといけないんだ」
「始めたのはレイくんじゃなかった?」
「そうかもしれないけど、止めてくれてもいいじゃないか」
「せっかく話してくれたから、止めたくなくて」
「オレがいつも押し黙っているような言い方じゃないか」
「違うの?」
「そんなこと言ったら、キミだって結構黙っている」
「あれは、恥ずかしがっているんです。根がシャイだから」
「今は?」
「勇気を振り絞っているんです。なけなしの勇気を」
その割には、彼女の表情には余裕が漂っている。
「お弁当を楽しみにしているよ」
「プレッシャーかけないで」
「プレッシャー?」
「だって、レイくん、料理うまいから」
「オレが作れる料理なんて、髙が知れている」
「でも、一事が万事じゃないかな」
「料理はそんな風にはいかないだろう」
「またレイくんが作ったクッキー食べたいな」
「いつだってふるまうよ。ただ、受験終わってからにさせてもらう方がいいかな。……いや、何とかすれば、作れるかもな。今度、公園でピクニックするときに持っていくのもいいな」
「あれから、アサヒがうるさくて。『今度はいつレイと公園に行けるの?』って」
「土日とかいいかもな。でも、やっぱり出られるのはあの時間帯になると思うけど。朝から一日勉強しているところをしっかりと確認してもらって、その後じゃないと。あのあと、アサちゃんは、夕飯食べられたのか?」
「もりもり食べていたよ」
「お前は?」
「ちょこちょこ」
「お父さんが心配したんじゃないか?」
「嬉しい」
「父親を心配させたかもしれないのに、何が嬉しいんだよ」
「そうじゃないの。レイくんが、父の心配をしてくれたのが、嬉しいの」
「……してたか? 心配」
「そういう風に聞こえたけど、違うの?」
環は、にっこりとして尋ねてきた。
怜は、はっきりと否定して、彼女の希望を断ち切るようなことをしてもしょうがないと思って、そう聞こえたのならそうなんだな、という言い方をした。
「そのうちキャッチボールでもしてくれませんか?」
「なんだって!?」
「父がしたがっているんです。父は父でうるさくて」
「申し訳ないけど、グローブが無いんだ」
「サッカーはどう? サッカーボールはあるよ」
「サッカーボールなんてどうして持ってるんだよ」
「アサヒ用よ」
「お父さんと二人で、公園で、ボールを蹴り合えばいいのか?」
「やだ、レイくん、『お父さん』だなんて……」
「何を照れてるんだよ。他に呼びようもないだろ」
「サッカーボールを蹴り合ってくれれば、キャッチボールの代わりになるね」
「なるかな」
「なるよ」
「サッカーは苦手なんだよな。蹴ったボールが、お父さんのもとに届く自信が無いよ。ボールが届かなければ、気持ちも届かないことになるんじゃないか?」
「きっと、レイくんが蹴ったボールなら取ってくれると思うよ。多分」
「そのうちサッカーの練習するかな。今度公園に行ったときに」
「いつでもお付き合いしますよ」
文化祭は、始まってただ終わった。特にどうということはなかった。怜は、自分の役割を忠実に果たした。劇は、うけもせず、しかし、しらけもせずといった具合である。そういうくらいの反応がちょうどいいのかもしれない。これなら、妹に後ろ指さされることもないだろう。
お昼休みの時に、環が教室まで来てくれた。そうして、周囲に十分に聞こえるほどの声で
「レイくん、食べてね」
と言って、お弁当箱を置いていった。置いて華麗に帰ろうとしたところで、怜はそれを押しとどめて、一緒に食べようと誘った。
「えっ、一緒に?」
「いいだろ」
「でも、ちょっと恥ずかしいな」
「別に恥ずかしいことないだろ」
「でも、席も無いし」
「いや、この辺空いているだろ」
「人の席だから」
「座っていいかどうか、持ち主に聞いてやるよ」
「レイくん……わざとやってない?」
「オレが?」
怜は、どうしてもカノジョと一緒に食べることができないので、仕方なく、一人で食べることにした。お弁当箱を開いてみると、でんぶでハートマークが書いてあった。まさか、本当にこれをやるとは……。ハートマークの中に「レイ」とか書いていないだけ、マシだと思うしかない。
「うわあ、すごいね、加藤くん」
近くに来た紬が、お弁当箱を覗き込みながら、言った。
「母親がやったんだって言ったら、信じるか?」
「今、川名さん、来てたじゃん」
「じゃあ、それ以上何も言わず、自分の弁当箱に向かってくれ」
「はいはい」
怜は、卵焼きを食べ、ご飯を食べ、鶏の唐揚げを食べ、ご飯を食べ、パスタのサラダを食べ、ご飯を食べした。美味しかった。怜は、ご飯の一粒まで、食べ尽くした。
文化祭は午後にまで渡ったけれど、お祭りのように出店が出るわけでもなかった。そもそもが、飲食物の販売など禁じられている。つまりは、体育館でひたすら指定されたクラスの劇を見るということの他には、グラウンドで、ちょっとした演奏があったり、決まったクラスがパレード的なものをしたりするだけのイベントである。体育館の劇にしても、グラウンドの演奏やパレードにしても見るか見ないかは自由で、見たくなければ、教室でダラダラ待機していてもいいのだった。
「前の学校では、クラスでお化け屋敷とかやったけどな」
紬が言った。
「楽しそうだな」
「今度一緒に行ってみる、墓地に」
「何でリアルなところに誘うんだよ。何か出てきたらどうする」
「その人の親族のところに行って、その件について話す」
「出てきたのが嫌われている人だったら、ありがた迷惑じゃないか」
「それは考えていなかったなあ」
「もっときちんと考えた方がいい」
「じゃあ、一緒にお化け屋敷に行ってあげてもいいよ。リアルお化けがダメなら、偽物のお化けで我慢するから」
「悪いが、こう見えてもオレは忙しいんだ。キャッチボールの練習に、サッカーの練習、何だったら、テニスもやっておかなくちゃならない」
「いきなり、スポーツに目覚めたの? スポーツしてなかったんじゃない?」
「どうしてオレがスポーツをやっていないことを知っているんだ」
「知らないよ。イメージ。剣道はやっていたってことは聞いているけどね。そっちはやめちゃったの?」
「何年かやれば、自分に剣才があるかどうかは分かるんだ。剣で身を立てることはあきらめたよ」
「武士じゃないんだから、そんなの当たり前でしょ。エクササイズ的な感じでやっていてもよかったんじゃないの」
「もともと好きでやっていたわけじゃなくて、親に連れられていってただけだからな。中学生になったから、こっちの好きにさせてもらったんだ」
「なるほど、なるほど」
「満足か?」
「うん」
「そりゃよかった」
結局解散になったのは、普段学校が終わる時間よりも遅かった。