第230話:月が綺麗なのは見上げる人のせい
唐突に何かを思い出すときというのは、脳の中でいったい何が起こっているのだろうかと、怜は思うことがある。特に思い出そうとしているわけでもないのに、いきなり何の前触れもなく、
「あ、そう言えば」
と思い出す。
不思議である。
今回のそれは、カノジョへのプレゼントの件だった。怜は以前、カノジョにペンダントをプレゼントしたことがあった。初めてのプレゼントである。ホトトギスという鳥の形をしたペンダントで、カノジョに喜んでもらえたように思われたけれど、思い出したのはそれ自体ではない。初めてのプレゼントの嬉し恥ずかしさについて思い出したわけではなく、そのプレゼントをした後に、春夏秋冬何かしらの贈り物をすることを約束させられたことを思い出したのだった。
正確に言えば、秋にプレゼントをすることを約束しただけであって、冬や春、そして、来夏のことは何も言われなかったのだけれど、秋だけでいいのだろうかと考えてみればそれはなかなか、心もとない話だった。幸いにして、軍資金はあった。祖父母からの贈り物である。この秋の分は足りる。しかし、冬や春はどうかと言えば、さすがに足りるかどうか。心配してみても詮無い話ではある。中学生ではアルバイトするというわけにもいかないし、仮にできたとして、それよりもなお重大なこととして学業がある限りは、できない理屈だった。
それにしても、なんでこんなことを思い出してしまったのかと、怜は、自分自身に語りかけたが、もちろん、答えは出なかった。いつも通り、なんとなく思い出してしまったのであるから、しょうがない。
――買いに行くか、そのうちに、でも……。
どのタイミングでプレゼントを買いに行けばいいか。そもそも出かけることは禁止されている……というわけではないけれど、実際は、母の無形の圧力のせいで、カゴの鳥、塔の上のラプンツェルの状態なのである。難しい問題である。加えて、来月にも出かけなくてはならない予定があり、そっちも何とか考えなくてはいけなかった。百歩譲ってプレゼントを断念するとしても、来月のお出かけは是が非でも行わなければいけない。カノジョの妹との固い約束なのである。それはもう誓いとも言ってもいいものだった。母の不興を買い、あるいは、もしも叱責を受けたとしても行かなくてはならない。
そのためには、大いに勉強している姿をアピールする必要があった。
「怜、そんなに根を詰めないで、たまにはどこかに遊びに行ってらっしゃい、はい、これお小遣い」
とこのくらいのことを、母に言わせるほど、勉強しなくてはならない。そんなことはこれまでなかったわけだけれど、ないことをあるようにする努力をしなければならない。そうして、努力を必ず結果にしなければならない。分かりやすく模試の成績の向上もいるだろう。この前の模試成績は微上昇だったわけだけれど、もうちょっとはっきりと上昇させなければならない。
――よし!
と怜は気合いを入れた。これは、彼にしては珍しいことだった。何ごとにも気合いを入れなくてはならないことなど、そうそうはないことであって、その例外がカノジョの父親と会うときだったわけである。つまり、怜にとっては、気合いを入れなくてはならないことというのは、あまり好ましいことではなかったというわけだ。しかし、今回は違う。
怜は、すっかりとカノジョのプレゼントのことから、カノジョの妹を遊びに連れ出すことへと、考えがシフトしていることに気がついた。そうして、まずは、カノジョの妹の方を優先することに決めた。きっと、それをカノジョも望んでいるはずだと勝手に思いみなした。とはいえ、もちろん、カノジョのことも気にはかけているのである。当たり前。何かの折に、プレゼントを探しに行かなくてはなるまい、と怜は改めて心に決めた。いろいろ大変だ。
そんなことを考えていると、その当のカノジョから、メッセージが届いたではないか。
「ちょっと時間をいただけると嬉しいんですけれど」
怜は、電話した。
「ビックリした。いいの、レイくん、電話なんてして?」
「電話くらいは許されてるよ。もう少ししたら、弁護士も来てくれる」
「何の罪を犯したんでしたっけ?」
「母親をがっかりさせた罪だな。生まれたときからかれこれ十数年間がっかりさせ続けているんだ。拘留されるのもやむをえない」
「来月大丈夫なの?」
「何とかするよ」
「妹に嫉妬しそう」
「まあ、それもやむをえないだろうな。可愛らしさという点では――」
「ストップ。この世の中には、言わなくてもいい真実っていうものがあるんだよ、レイくん」
「真実を直視しなくてもいいのか、タマキは」
「嘘だって貫けばそれは真実になる、そうでしょ?」
「絶対に違う。嘘は貫いても真実にはならない。それが嘘という言葉の意味だからだ」
「分かりました。じゃあ、わたしは、妹よりも可愛くないという真実を抱いて、今日は悲しみの涙にくれながら、眠りにつくことにします。覚えておいてよね、レイくん。今日わたしが流す涙が、レイくんが、名探偵よろしく、真実を追究した結果だってことを」
「別に可愛くなくてもいいだろ」
「いいわけないと思うけど」
「それがタマキなら、可愛くても可愛くなくても構わないんじゃないか」
「……詳しくお願いします」
「分かるだろ」
「分かりません。……でも、今日はやっぱり説明は求めないことにします。レイくん、勉強中だから。時間があるときに、じっくりと説明してね」
怜は余計なことを言って、課題を増やしてしまったことを知った。言わなくてもいいようなことをつい言ってしまうのは、それだけ、彼女との付き合いに慣れてきてしまったせいかもしれなかった。
「もう一度、付き合い始めた頃のことを思い出すよ」
「でも、そんなに変わっていないような気がするけど」
「変わってない?」
「うん」
「そんなことないだろう。それじゃあ、オレがまったく進歩がないみたいじゃないか」
「初めから完成されているから」
「誰が」
「あなたが」
「オレが? だとしたら、キミから色々と欠点を指摘されるのはどういう理屈なんだよ」
「いくら優れた人でも、いつも優れ続けることはできないと思うの。高級車にもメンテナンスが必要でしょ。よくは知らないけど」
「何だか今日は攻撃的じゃないか?」
「誰が?」
「キミが」
「わたしが? そうかなあ、わたしは、いつもこんな感じだと思うけれど」
「何かあったら、いつでも助けになるぞ」
「本当に?」
「言うだけはタダだから、言ったんだ」
「それは言わない方がいいと思う」
「で、何かあったのか?」
「あると言えばあるし、ないと言えばないような。あるともないとも言えないかな」
「繊細微妙だな」
「うん。この世の中のたいていのことと同じようにね。じゃあね」
環は、スマホを切った。
怜はどうやら、メッセージをもらったときは、メッセージで返した方がいいと思った。それがバランスというものである。そのあとは、誰からもメッセージもなければ、電話もなく、寝るまでひたすら勉強して過ごした。11時30分を回って、そろそろ休もうかと思って、窓から空を見上げると、煌々とした月の光が見えた。
怜は、少し迷ったあとに、環に、「こっちは月が綺麗だ」とメッセージを入れることにした。返信を期待していたわけではなかった。むしろ、無い方がいい。このメッセージを明日の朝に見た彼女はきっとこう思うことだろう。「月がどうこうなんていうことを言ってくるなんて、なんていうロマンチックな人なんだろう」と。あるいは、「つまらないことでメッセージをよこす人だなあ、反応に困るよ」と思うかもしれない。後者の可能性はあまり考えずにメッセージを送ると、メッセージの返信どころか、電話が来たではないか。
「起きてたのか?」と怜
「起きてました。もう寝ようかなと思ってたけど」
「なんで、電話してきたんだ」
「いけない?」
「いけなくはない。カレシに電話をするのは、国民に保障された基本的人権の一つだ」
「社会の勉強していたの?」
「ああ。もっと基本的人権のこと、知りたいか」
「聞かせて。『カレシに電話をする権』っていうのは、いったい、憲法の何条に書いてあるの?」
「13条だな。幸福追求権。だいたい、何でもこれでいけることになってる。素晴らしいことだと思わないか。憲法は、幸福を追求する権利を国民に保障してくれているんだ」
「幸福自体は保障してもらえないの?」
「そこまではな。幸福の内容は人それぞれだから」
「でも、例えば、病気よりは健康を、貧困よりは裕福を、カレシに電話できないよりは電話できる方を、っていう感じで、大まかには幸福の内容についても、みんなに共通しているところもあると思うけれど」
「……キミは、この問題に関して、誰かと議論済みなのか?」
「不幸にして、憲法について議論できるのは、レイくんくらいかな」
「じゃあ、今考えたってことか?」
「うん」
「即興で?」
「ええ」
「……議論は灰色って言ったの、誰だったっけ?」
「『議論』じゃなくて、『理論』じゃないかな」
「それで?」
「ゲーテだと思う。ファウストの一節かな」
怜は、環と議論することを控えることにした。自分よりも知識がある人間と議論をしてどうなるというのか。議論については、世の大人たちはよくしているし、学校でも大いにすべし(ただし教師に対してはすることなかれ)と推奨されているけれど、それは間違いなのではないかと思った。少なくとも、環とのそれに関しては間違いだろう。
「これから、オレが何かしら社会的な話をしたら、止めてくれないか」
「どうやって?」
「直接言ってくれてもいいし、咳払いしてくれてもいい、あるいは、オレの足を踏むとか」
「わたしは、レイくんに何でも話してもらいたいけれど」
「どんなことであっても『何でも』っていうのは、ダメだ。『何でもいい』っていうのは、『どうでもいい』と同義だからな」
「レイくんに限ってそれはないと思うけれど」
「オレはお前ほど、オレ自身のことを信じられないんだ」
「じゃあ、わたしを信じてください。あなたを信じているわたしを。Trust me.」
「なんで英語?」
「さっき観た洋画で言ってたんです。麻薬取締官が二人で麻薬組織に乗り組むとき、一方がもう一方に言うの」
「なんで、たった二人で?」
「二人じゃないと、しまらないセリフだからでしょ。で、信じてくれる?」
「分かった、信じるよ」
「じゃあ、何でも話してくださいね。これからも」
「了解」
「早速、何か話すべきことある?」
怜の頭にプレゼントのことが浮かんだ。
「……今はないかな」
「今ためらった話は、明日伺います。じゃあ、お休み、レイくん」
環が電話を切ったあと、怜はスマホを見つめたまま、もう一度月を見上げた。
月はいっそう輝いているように見えた。