第23話:彼女の痛みは彼女のもの
人間関係を円滑に維持するもの、それは想像力である。相手の気持ちを想像しその気持ちに合わせた行動を取ることにより、衝突を失くし、お互い気持ちよく付き合えるのである。
「ねえ、お兄ちゃん。川名先輩と別れたの? ていうか、捨てられた?」
想像力を身につけるためには、行動を起こす前に立ち止まり、頭の中で三つ数えることだ。立ち止まって考える癖をつける。その行動によって相手がどういう気持ちになる可能性があるか。
「まあ、そうなるとは思ってたけどね。でもさあ、先輩に捨てられたからってさ、すぐに次の女の子にいくのはどーかと思うよ」
そして想像力を維持するためには、親しい仲であっても今日初めて会う人であるかのように考えることである。
「でも、お兄ちゃんにそんなカイショーがあったことが驚きだけどね」
想像力が欠けると、信頼関係は、下手な積み木細工のようにがらがらと崩れ落ちるものである。怜は、いまだ奇跡的に残っていた妹への信頼が、今まさに音を立てて崩れて行くのを感じていた。
「あーあ、川名先輩のこと。タマキお姉ちゃんって呼びたかったな」
「あっちはお前のことを妹だとは呼びたくないんじゃないか」
怜は素っ気無く言うと、すばやく朝食の席を立った。妹だけであれば何を言われようが構わないが、朝食の席には母と父がいるのである。面倒なことになる前にこの場を離脱しなければいけない。ご馳走様、と言って鞄を肩にかけ、そのまま玄関に向かおうとしたところを、怜は引き止められた。
「待ちなさい、怜」
怜は立ち止まると軽く目を瞑った。母の静かな、静か過ぎる声。この静けさが嵐を呼ぶのだろうか。
「都の話は本当なの?」
振り返った彼にかけられた母の言葉に、怜は多少うんざりした。付き合っている相手として環を紹介した。それで義理は果たしたはずである。この上、進捗状況を逐一報告しなければいけないのだろうか。関係ないだろ、と一言言って、足早にこの場を去りたいという強烈な欲求に駆られたが、怜はどうにか思いとどまった。それをするとこの場の面倒は回避しても、学校から帰ってきた後、親に対する適切な態度に関して延々とレクチャーを受ける面倒が降りかかってくるのは目に見えているからだ。激情に身を任せるには、それに相応しい時というものがある。今はその時ではない。
怜は気持ちを落ち着けて、環と別れてはいないこと、をはっきりと告げた。
「じゃあさ、今、一緒に登下校している人は誰よ? 友達が見たらしいんだけど、やたら美人だったって」
都が興味深そうな顔をしたが、怜には妹の好奇心を満たしてやる気は毛頭なかった。より確実に兄を追い詰めるために、父母の前で話を出した狡猾な妹であれば、尚更のことである。
「言えない女だってことなの? ますます怪しいな〜」
妹の追撃に、怜は耐えた。鈴音のプライバシーを家族のゴシップのネタに供する気はない。これ以上は何を言われようが何も話す気はなかった。しばらく続いたダイニングの沈黙を破ったのは、驚いたことに父であった。
「環さんを悲しませるようなことはしてないだろうな」
珍しく父の視線を受けた怜は、はっきりとうなずいた。はっきりとうなずける話かどうか自信はなかったが、この機を逃すことはできない。
「それじゃあ、いい。さ、学校に遅れるぞ。行きなさい」
怜は心中で父に感謝すると、不服そうな妹と母を尻目に、家を出た。開放感が胸に満ちる。安らぎの場であるはずの家から外に出たときになぜそんなものを感じるのか、と怜は思った。
孟夏の日差しは強いが、まだ気温は上がっておらず、空気は爽やかである。木々の緑が光を受けて美しく輝いていた。歩いて行く道は、当然学校へと向かうものであるが、通い慣れた道ではない。二週間ほど前から、使い始めた道なのだ。途上にある一軒の家の前に、人待ち顔で立つ一人の少女。近づく怜に気がついた彼女は、顔を上げると嬉しそうに微笑んだ。
「おはよう、今日も良い天気だね」
黒髪をサイドアップにしていることによって露になった白い首筋に朝日が跳ねていた。
怜は鈴音に挨拶を返すと、門前に立っていた少女の母に会釈した。
「いつもありがとうね、加藤くん。今日もこの子をお願いします」
心配そうな目に見送られて、二人は歩き出した。
「どお?」
少しして、隣からかけられる声に顔を向けると、鈴音が軽く両手を広げていた。
「何が?」
「今日のあたし」
「オシャレに気をつけたほうがいいな。昨日と同じ服だ」
「当たり前でしょ、制服なんだから。そうじゃなくてさあ、『今日も可愛いよ』とか何とかさ」
「それじゃあ……」
「なになに?」
「その服可愛いな」
鈴音は大いに不満そうな振りを見せたが、何も言わず話題を変えた。
「昨日、迷惑だった?」
「昨日?」
「部活のこと」
鈴音が文化研究部への入部を決めたのが昨日のことである。怜はこれを自分への気遣いだと見ていた。鈴音を家まで送り届けるため、怜はここ二週間ほど部活動に参加していない。娘が無事に帰ってくるのを心配しながら待っているであろう母親のことを考えると、できるだけ早く送り届けたいというのが、怜の気持ちだった。その気持ちが鈴音に知られたのだろう。このままだと、彼女の送り迎えが終わるまで、怜が部活に参加できないと案じた彼女は自分も部に入ることによって、怜が部活動を行うことに支障をなくしたのである。一緒に部活動に参加したのち、終了後、一緒に帰れば良い。
「迷惑どころか、田辺は狂喜してたよ」と怜。
「加藤くんは?」
「迷惑じゃないけど、気遣いは無用だ」
怜ははっきりと答えた。鈴音の送り迎えは、きっかけはどうあれ、今は自分の意思でしていることである。それに対して、気を遣ってもらう必要はない。鈴音は、ふと微笑むと、
「そうじゃなくて、今も登下校で結構ウワサになってるから、同じ部に入ったりすると尚更かなってね」
いった。それこそどうでも良い話だった。と思った怜は逆に、
「スズこそいいのか? オレとウワサになって」
訊いた。鈴音はいたずらっぽく瞳をきらめかせると、
「もし嫌だって言ったら、この送り迎えを止めてくれる?」
質問を返した。怜はその気は無いことを告げた。
「じゃあ、どうしようもないじゃない」
「そういうことになるな」
少女は軽やかな笑声を立てた。
「ほんとにあなたといるとタマちゃんと一緒にいる気分になるわ」
「タマキと似ているところなんか全然無いと思うけどな」
「自分では分からないのよ」
鈴音は笑みをおさめると、しばらく無言になった。通学路を背筋を伸ばして歩く彼女の姿は堂々として見えたが、その内心にはまだざわざわと騒ぐものがあるのだろう。それを押さえつけるために口を閉ざしているのではないかと、怜は推測していた。彼女の過去に何があったのだろう。ふと頭をよぎることもあるが、訊こうと思ったことはない。彼女の過去は彼女のものである。いたずらに触れて良いものではない。
勢いよく肩をたたかれた怜は、足を止めて振り返ると、満面に笑みを湛えた少女の顔があった。
「おはよう、加藤くん」
怜はきょろきょろと辺りを見回した。彼女のお目付け役の姿が見つかると、一安心して、少女に向かう。
「おはよう、倉木」
「どうかしたの?」
挙動に不審な様子を見せた怜を訝しげに見る日向。しかし、それはこっちのセリフであった。不機嫌な顔しか見せたことのない少女の上機嫌な様子に、怜は戸惑う気持ちを抑えられない。彼女の幼馴染みで、顔なじみの少年に、
――何があったんだ?
と目語してみたが、彼にも分からないらしい。賢は軽く首を横に振っただけであった。
「あの、おはよう、倉木さん」
鈴音が、怜の影から姿を現して、おそるおそるといった調子で挨拶した。日向は、鈴音の姿を認めると、
「おはよう」
と挨拶を返したあと、
「どうしてわたしの名前、知ってるの?」
尋ねた。
「タマキに聞いてるの」
鈴音は共通の友人の名を出して、彼女を安心させたあと、
「タマキはわたしのこと何て?」
興味を持った日向に対し、
「一番の親友だって」
答えた。日向の顔が一層輝いた。その輝きは、彼女の隣にいる少年が、鈴音に挨拶されて、少しどもりながら答えたときに、少しだけ鈍くなった。
怜は日向の様子を見ながら、やはり何ごとか、おそらく良いことが彼女にあったのだろうと思った。環への友情から、鈴音を敵視――もちろん、それ以上に怜を蔑視しているのだが――しているはずなのに、それが態度に表れていない。上機嫌の様子である。なぜなのかはさっぱり分からなかったが、怜は賢に感謝しておいた。日向の機嫌をこれほど良くできるのは、幼馴染みの彼しかいない。
そのまま平和裏にことは済み、仲良く四人で登校できるかと思ったが、そういうことにはならなかった。再び歩き出そうとする一行を、日向は止めると、鈴音に向かった。
「橋田さん。あなたに一つ言っておくことがあるわ」
鈴音が神妙な面持ちで、彼女の言葉を待つと、日向は怜に指を向けて、
「加藤くんは、タマキのだからね。そこんとこ、よろしく」
強く言った。鈴音は一瞬意表をつかれたような顔をすると、
「川名環だったら、相手にとって不足はないわ」
不敵な調子で言った。日向がむっとした顔になる。
「勝てると思ってるの?」
「勝負はやってみないと分からない。地の利はわたしにあるし」
「チノリ?」
日向は賢の顔を見たが、彼が分からない顔をするので、仕方なくもう一人の少年に説明を求めた。
「つまり、同じクラスだってことだよ」
怜が説明する。日向が確認するように、
「環とは友達なんでしょ」
訊くと、鈴音はうなずいた。
「そうよ」
「それなのに?」
「友情より優先すべき感情が時にあるものでしょ」
「本気なの?」
「うそよ」
「そう、本気だって言うなら……え?」
「うそ。そんな気ないよ」
呆気に取られた日向に、
「タマキが羨ましいな。あなたみたいな友達がいて」
まっすぐに鈴音が言った。
日向は一つ息をついた。からかわれていたことに気がついたのである。しかし、最後の鈴音の言葉の響きに真実が含まれていたのを聞き分けた彼女は腹を立てなかった。代わりに、
「わたし、倉木日向、よろしくね」
と手を差し出した。今度は、鈴音が呆気に取られる番である。その反応に気を良くしたのか、日向は、目で微笑むと、
「タマキの友達だったら、わたしの友達でしょ」
いった。鈴音は日向の手を取った。
「橋田鈴音です。よろしく」
友情の握手を終えたあと、日向は幼馴染みを伴って一足先に歩き出した。
「いい人だね、倉木さん」
二人の後姿を追って歩き出しながら鈴音が言う。これも驚くべきことであったが、日向はおそらく、怜と鈴音に――主に鈴音に――気を遣ったのだった。
「倉木相手に、ああいう冗談は危険だぞ」
怜が忠告すると、鈴音はくすっと笑って、
「その甲斐あって、友人が増えたわ」
いった。いちいち友人を作るのに斬り結ばないといけないのならば、命がいくつあっても足りない。
「わたしはそうやって友だちを作ってきたのよ」
「タマキとも斬り合ったのか?」
「もちろん。かなりの深傷を負ったわ」
周囲の目が鈴音に集まっているのを怜は感じた。彼女が人目を引く子であるというのがその理由の一。もう一つは、彼女が人通りの多い校門前で立ち止まっていたからである。
「じゃあ、行きましょう」
鈴音は軽く息を吐き出すと、校門の内側に足を踏み入れた。初めの登校のとき以来、怜が手を引くことはなかった。少し歩いてから後ろを振り返る少女。怜の姿を認めると、彼女はほっとした様子を見せ、生徒用玄関に向かって歩き出した。おそらく、彼女にとっては、この校内に入る瞬間が一番緊張する瞬間なのであろう。教室に入ってしまえば、随分リラックスしているように見える。その緊張をやわらげるために自分がいくばくかでも役に立っているのかというと、まさかそんなことはあるまい、と怜は思う。彼女の悩みは彼女のものである。誰にもそれを理解することはできないし、また、鈴音自体、そんなことは望んでいないだろう。しかし、理解できないと認識しているそういう人間が隣にいるということが何がしかの意味を持つこともあるのではないか、と怜は思う。
――タマキならそう言うだろう。
いや、と怜は思い返した。タマキならそんなことは言わないだろう。いつものように微笑しているだけのような気がする。彼女と会わなくなって二週間ほどになるだろうか。彼女から告白される前の状態に戻っただけであるはずだったが、怜は、その状態と今の状態が同じような気がなぜだかしないのだった。