第229話:夕暮れのピクニックに決める覚悟
その日は、学校が午前中で終わる日だった。何の加減か、ごくたまにそういうことがある。もっともっとあってくれてもいいのにと思いながら、ありがたく早く帰らせてもらった怜は、昼食を軽く済ませたあとに、自室ではなくてリビングに陣取って、勉強を始めた。母はダイニングテーブルで、お茶を飲みながら、雑誌を読んでいる。リビングとダイニングはひとつながりになっている。母の視界に自分をしっかりと入れる形で、怜は3時間ほどみっちりと勉強したのだった。それから、大げさな伸びをすると、
「ちょっと、散歩に行ってくるよ」
と母に告げた。
「散歩?」
「ずっと座ってて、疲れたから。何か買い物があれば、買ってくるけど」
「別に何も無いわよ」
それはよかったと思った怜は、公園までぶらついてくることにするよと伝えた。
「遅くならないようにしなさいよ」
怜は、はい、と素直にうなずくと、ゆったりとした様子で外に出て、自転車に飛び乗った。ゆっくりしている時間は無い。できるだけ急いで、自転車を漕いでいくこと10分ほどして、公園に到着。秋の夕暮れは、涼しげだったけれど、懸命に自転車を漕いだために、汗を掻いていた。
怜は、駐輪スペースに自転車を停めて、公園の中に入った。園内では、暮れなずむ時間を惜しむようにして、子どもたちが、ボールをついたりかけっこをしたりしていた。付き添いの大人の姿もちらほらある。怜が一基のベンチのもとへと歩いて行くと、そこには、二人の女の子が座っていた。
「レイ」
そのうちの、小柄な方の子が声を上げると、タッタッタッと駆けてきて、怜の体にどんと体当たりした。その体当たりを受け止めた怜は、
「久しぶり、アサちゃん」
と答えた。自分の出した声が温かみを帯びているのを、若干、気持ち悪く思っていると、
「ずっと会えなくて、寂しかったぁ」
実に泣かせることを言ってくれた。怜は、彼女の手を取ると、もう一人の少女のところへと歩いて行った。
「お疲れ様」
環は、微笑して言った。
「そんなに疲れてはいないけど」
「本当に? 急いで来てくれたんじゃないの?」
「疲れも吹き飛んだよ。二人に会えたから」
環は、片方の眉を上げるようにした。しかし、その発言に対しては何もコメントせず、
「レイくんのには及ばないだろうけれど、ちょっとしたおやつとして、サンドイッチを作ってきたの、口に合えばいいけど」
そう言って、お茶会のテーブルであるベンチへと導いた。
「タマキお姉ちゃんの作ったフレッシュフルーツサンド、超おいしいよ、レイ!」
確かに、超おいしかった。
生クリームとフルーツをふんだんに使ったサンドイッチである。
「わたしも、フルーツをはさむのお手伝いしたんだよ!」
旭は、胸を張った。
「ありがとう、アサちゃん。とってもおいしいよ」
怜は、一つ二つと食べた。もうしばらくしたら夕食だったけれども、食べなければ男がすたるというものである。普段は、男がどうの女がどうのということはくだらないと思っている怜だったが、たまには、可愛い女の子の前では、そういう気持ちになることもあるのだった。
旭も、パクパクと食べた。それこそ、夕食を心配したが、
「アサヒは大丈夫。すごい食欲だから」
と言って、環は笑った。
怜は、ポケットからティッシュを出すと、クリームたっぷりになっている旭の口をぬぐってやった。今日は誰かの目を気にする必要は無い。
「紅茶はどう? レイくん」
環は、水筒から紅茶を注いでくれた。
「何でも用意してあるんだな」
「これだけよ。リンゴや目玉焼きトーストは出て来ないわ」
「十分だよ」
甘い物を食べたせいか、あるいは、わざわざ手作りしたものを持ってきてくれたせいか、その両方か分からないが、怜は、心が満たされるのを覚えた。だんだんと日が落ちてきて、風は静かに、いい日和である。
「わたし、滑り台してくる!」
旭が言った。
怜もついていこうかと申し出たけれど、
「大丈夫。レイは、お姉ちゃんのサンドイッチ食べてて!」
そう言うと、公園の中央へと駆けていった。
「お姉さんの薫陶を受けているんだな」
「わたしは、何も教えていないよ」
「じゃあ、その背中を見て、勝手に覚えているんだ」
「そうかな」
「あーあ……」
怜は、大きくため息をついた。
「どうしたの?」
「いや、毎日こんな風にできたらどんなにいいかって、そんなことをちょっと思っただけだよ」
「それ、プロポーズですか?」
「なぜそうなる?」
「そうじゃなかったら、一人でってことになるけど、一人でこんな楽しいことをするような薄情な人じゃないでしょ、レイくんって」
「ポケットの中にはビスケットが一つってやつだな」
「それそれ」
「タマキは、そんな風に思うことはないのか?」
「わたしにとっては、ここでこうしていることが、もう奇跡みたいなものだから」
「欲が無いんだな」
「そういうことではないと思うけどな」
「同じことさ」
そのとき、滑り台の上から、「レイ! お姉ちゃん!」と、大きな声が聞こえてきた。怜は、手を振って、それに応えた。
「もう一個、食べる、レイくん?」
「もらおうか。今日は、夕飯食べなくていいよ」
「お母様に、怪しまれるんじゃないの?」
「食べないで勉強するって言えば、喜ぶよ」
「そんなに根を詰めないでね」
「詰めたくはないけど、決めたことだからな。それに、まあ、これはこれで面白くもある」
「面白い?」
「去年までのオレだったら、こんなことはしなかっただろうからな。変化を楽しむ的な意味だよ」
「でも、やらなくてもいいってこともあるよね」
「タマキは、オレに、高校に合格してもらいたいのか、もらいたくないのか、どっちなんだ?」
「どっちにしても、レイくんの価値は変わらないと思うけど」
「その言葉は、オレが不合格の時にかけてくれないかな」
怜は、あまり話題に出したくないことではあったが、妹のことを話題に出しておいた。
「ミヤコが何か迷惑かけたんじゃないか?」
「兄を末永くよろしくって言われただけだけれど」
「ウソだろ?」
「『末永く』とは言われなかったけれど、レイくんのことをよろしくって言われたことは、本当だよ」
「とても信じられないな」
あの妹が、わざわざ兄とこれからも仲良くしてもらいたいなどということを伝えるために、環のもとに行くなんてことがありうるはずがない。ありうるとしたら、それは、妹に何かしらの心境の変化があったということだろうが、特段、彼女には変化は見られない。家では、いつも通りの傍若無人ぶりを披露しているだけである。
「きちんと妹さんと向き合った方がいいと思うよ。レイくんが思っているより、ずっとミヤコちゃんはいい子だよ」
「タマキにもロマンチックなところがあることが分かって嬉しいよ」
「兄妹が互いに互いのことを想い合うっていうのは、幻想的な話ではないと思うけどなあ」
「確かにそれはそうなんだが、オレが言いたいのは、何にでも終わりはあるってことだよ。オレとミヤコにも確かにそういう時期があったんだ。オレは彼女を可愛がり、彼女もオレを慕ってくれていた。現実にそういう頃があったんだよ。でも、それは終わったんだ。終わって二度と戻って来ない。それがもう一度起るかもしれないという考えは、残念ながら幻想だろうな」
「そうかな、終わらないものもあると思うけれど……ねえ、レイくん」
「なんだよ」
「この話、前にもどこかでしたような覚えがあるんだけど」
「確かにな」
「そのときは、終わらないものもあるっていうことで同意したんじゃなかったっけ」
「したかもしれない」
「じゃあ、今の意見はどういうことになるの」
「つまりはだ、オレとミヤコのことはそっとしておいてほしいってことだよ。いつからそんなことになってしまったのかは分からないけれど、ぎっちりと絡まり合った二つの糸みたいに解きほぐすのが難しい関係になったんだ、オレとミヤコは。そうして、オレにはとりたてて解きほぐしたいという欲求もないんだな」
「仲がいい兄妹に憧れはない?」
「希望を持って行動することは確かに大切なことだと思うけれど、運命を受け入れる潔さを持つことも同じくらい大切なことだ。どちらを選ぶかは、人それぞれだろ」
「そんなに大きな話にしなくてもいいと思うけど」
「だとしたら、つまらない話ということになって、話し合う価値は無いということになる」
「紅茶、お代わりは?」
「もらうよ」
怜は、ゆったりとベンチにかけながら、紅茶をすすった。園内から子どもの数が減ったようである。家に帰ったのだろう。怜もそろそろ帰る時間だった。
「次はいつ会えますか?」と環。
「明日会えるよ」
「そうじゃなくて」
「そうだな……じゃあ、今度は、来週の土日にしよう。ずっと母親の前で朝から夕方ころまで勉強しているところをまた見せて、で、おもむろに散歩に出る」
「また、何か作ってこようか」
「頼むよ。美味しかったよ、このサンドイッチ」
「よかった」
環は、ティパーティのテーブルの後片付けをすると、妹の名前を呼んだ。タッタッタッと近づいてきた少女は、姉から家に帰ることを伝えられると、もっと遊びたいとせがんだけれど、環は、静かだが威厳のある声で、
「今日はもうおしまいだよ、アサちゃん。お家に帰ります」
と言うと、シュンとしたあとに、しかし、すぐに顔を明るくして、姉のカレシに向かった。
「レイ! 今度はいつ、お姉ちゃんとわたしとレイとで遊びに行くの!?」
どうやら、彼女は、今日の寂しさを、明日の喜びで埋め合わせようとすることに決めたようだった。
怜は答えに窮した。もうそうそうは遠出はできないだろう。母が許すまい。しかし、キラキラとした少女の目を見ていると、とても本当のことは言えず、とはいえ嘘をつきたくもないので、代わりに覚悟を決めることにした。
「来月どこかに行こうか」
「本当!?」
「ああ」
「やったあ!」
はしゃいだ様子を見せる幼い女の子の横で、その姉が意味ありげな目をしているのを、怜は認めた。
「そんな目で見るなよ」
「そんな目ってどんな目?」
「できの悪い息子を見る母親のような目をしているぞ」
「レイくん!」
「比喩表現がうまくないんだ」
「ちなみに今はどういう目をしてる、わたし」
怜は、環の目をじっと見つめた。
「メデューサの向こうを張って、一歩も引けを取らないような目かな」
「確かにあんまりうまいとは言えないね」
「じゃあ、それも勉強しておくよ」
怜は、駐輪場に行って自転車を引くと、公園の入り口まで二人を送っていった。
「またね、レイ。バイバーイ!」
随分遠く離れても振り返って手を振ってくれる少女に、「ばいばい」と声を返した怜は、その隣で、おそらくは微苦笑を浮かべているカノジョに、「また、明日な」と心の中で声をかけた。