第227話:欲しいものは自力で手に入れるべし
都は激怒していた。かならずかの邪知暴虐な兄を除かねばならぬ! と何度目かの覚悟を固めた。都は、単純な女の子だった。その日その日に、自分がどれほど楽しむことができたかということが、彼女の一日を評価するときのバロメーターであって、一日一日の積み重ねが人生であれば、それはとりもなおさず、人生を評価するときのものにもなる。その彼女のこの頃の楽しみの大なるものが、兄のカノジョと絡むことだった。
いかなる世の巡り合わせか、まったく分からないものの、兄は、学校一の才色兼備と交際していた。どうして彼女のような人が我が兄と付き合ってくれるのか、本当に理解不能だけれども、なにかしら邪な企みがあるというわけでもないようである。よこしま! 彼女に限って、そんなことはありえない。自分が仲良くしたいと思っている人に、邪悪な部分などあるはずもない。当たり前。しからば、どのようなきっかけで付き合うようになったのか。もしかしたら、兄が泣き落としを使ったのかもしれない。
「付き合ってくれないと、死ぬ!」
くらいは言ったのだろう。あの兄である、大いにありそうな話だ。しかし、それに泣き落とされたわけでもないだろう、と都は思っている。これは、彼女の度量の広さなのだ。どういうことか。キリストや釈迦や孔子のようなエラい人たちは、弟子を選ばなかったと学校で習ったことがある。つまり、環先輩も、兄から告白されたときに、神の子や仏様や道徳の祖のように、受け入れてしまったということなのだった。そうに違いないと思った都は、深く納得するとともに、環先輩のことを不憫にも思った。人間、度量が広いと、いろいろなものが入ってきてしまって、かえって苦労するものである。
その点、都は、自分の度量の狭さに満足している。いや、もちろん、狭いと言ったって、その辺の女子よりは広い自信があるけれど、誰とでも仲良くなりたいとか、カレシにするなら誰でもいいとは思っていない。わたしにとって楽しい人を友だちにしたいし、わたしにとってカッコいい人をカレシにしたいと思っている。要するに、都は我がままなのだった。そうして、それは自分でもよく分かっていた。でも、それが? 我ままを通さない、少なくとも、通そうとしない人生なんて意味が無い。そんなの生きているとは言えないのではないか。その我がままはどこまで通るのか。それは、相手が決めればいいことである。
そのようにしてこれまで彼女は生きてきたわけだけれど、そのゴーイングマイウェイな人生の中で、どうも我を通せない、いや通したくないと思った初めての人が、兄のカノジョなのだった。その極めて単純な理由として、彼女が年上であるということもあるのだけれど、それ以外にも何かがあるのだった。「何か」というのは漠然とした話だけれど、何かとしか言いようがなかった。何かがあって、彼女には、馴れ馴れしくできない。これまで、初対面の人であっても、逆に、初対面ではないけれど、これまで同じクラスだったけれど全然絡まなくて初対面以上に絡みづらい人でも、都は構わず、友だちのように接してきた。それが彼女に対してはできないのだった。
これは都にとっては、結構な衝撃だった。でも、嫌な感じではなかった。都には、未知のものに出会ったときに、それを拒絶したりそれを自分の枠の中に当てはめたりといった、硬直性は無かった。ただ、未知のものを楽しむといった寛容さがあり、とはいえ、しかし、楽しいからといって苦しくないということではないのだった。彼女の前だと、素の自分でいることができない。いや、まったく猫をかぶっているというわけではないのだけれど、ありのままの自分ではいられない。それが、何とももどかしいという気持ちがある。そうして、どうして、ありのままでいられないのかと考えたときに答えが出ないわけで、出ない答えについてなお考えたいと思ったら、彼女と実際に接してみて、間近で観察するしかないのである。幸いにして、観察対象は、いくら見ていても見飽きる対象ではないようだった。
そのために、兄に、自分と彼女がひとつところにいられるように、腰を低くして、骨折りを頼んだわけだけれど、兄はまったく頼りにならなかった。それどころか、妙な理屈をこね回して、妹をけむに巻こうとしている。そうは問屋がおろさない!
――こうなったら……。
都は決心した。自分で環と交渉することを。そうである。考えてみれば、簡単な話だった。兄を介そうとするから面倒が増えるわけであって、自分でやればいいのである。自分で会いに行って、
「タマキさん、今度一緒に遊んでください!」
と言えばいいではないか。共通して利用しているメッセージアプリの、彼女のアカウントは知っているので、メッセージを入れてもいいかもしれないが、それは違う気がした。これまで兄を経由していたのに、それをせずにいきなりメッセージでというのは、失礼な気がするし、どういう反応をするのかじかに見てみたいという気があった。ちらとでも気乗りしないような顔をされたら、潔く身を引かなくてはならない。そんなことは無いと思うけど。
都は、上記の件で兄をいっそう嫌いになったその週の金曜日に、環に会いに行くことにした。金曜日にしたのは、そういうことは無いとは思うけれど、もしも断られた場合に、土日に、その精神的ダメージを吸収してもらうためである。これまで都は失敗したときのことを考えて、事に当たったことなどなく、これはまたこれで初めての経験だった。
その日は、朝から緊張して過ごした。男の子に告白するときには、あるいは、こんな緊張感を抱くのかもしれないけれど、もしかしたら、告白の方がマシかもしれなかった。というのも、告白して断られたとしても、それは恋人としては見られないというそのことであって、友達同士なり、クラスメート同士なりの付き合いをすることはできるということである。一方で、今は、言わば、友達付き合いを申し込みに行くわけであって、それが断られたら友達として付き合えないということになって、つまりは、全く交際を断られるということである。
昼休み、3年生の教室へと向かう都の足が止まった。
これは結構怖いことではないかと思ったのである。しかし、すぐに彼女の足は進み出した。怖くても、前進しなければいけないときというものがある。今日の恐怖を避けたとしても、結局は、それが明日に持ち越されるだけの話だ。明日が来るなんて、誰が分かる? そんなことは誰にも分からない。今日をがんばらない者に、明日はない。都は、勉強その他、他人から強制されることはがんばれない子だったけれども、自分で決めたことに対しては、愚直とも言えるひたむきさでがんばれる子だった。
「ミヤコ、こんなところで何してるんだ?」
げっ、と都は、足を止めざるを得なかった。なぜ、この可能性を考えなかったのか、自分でも不思議である。前から声をかけてきたのは、見慣れた、いさかか見慣れすぎてうんざりした人間だった。我が兄である。
「お兄ちゃん……」
「何してるんだ?」
「何って……散歩だよ。お昼ご飯の腹ごなしにウォーキングしてたの」
「ウォーキング? ここでか?」
「わたしがどこを歩こうが、わたしの勝手でしょ。お兄ちゃんこそ、何してるのよ」
「トイレに行くところだけど」
「じゃあ、どうぞ、ごゆっくり」
そう言って、都は身を避けて、兄を通そうとした。
「三年の誰かに用があるなら、取り次ぐか?」
「そうして、わたしのことを、お兄ちゃんがいなければ何にもできないブラコンに仕立て上げるの? わたしのことが、目に入れても痛くないほど可愛いのは分かってるけど、そろそろわたしも自立したい年頃なの。分かりやすく言い換えようか? ほっといて!」
兄は、軽く肩をすくめるようなフリをして、妹のそばを通り過ぎた。彼からすれば、兄としての義理は果たしたといったところなのだろう。まったく、幸先が悪いことである。よりによって、お兄ちゃんに会うなんて。ふうっと、都はいったん深呼吸した。運不運は、しょうがない。ただ歩いていたって事故に遭う世の中である。問題は、そのあとの、自らの対処の仕方であろう。不運を嘆くか、それを克服するか。都は後者のタイプであると、自らのことを思いみなしている。
――よし!
気合いを入れ直した都は、3年5組に向かって、歩を進めた。昼休みのリラックスタイムを満喫して、がやがやとしている教室の中をちらと覗いたところで、ちょうど出てくる女の子がいて、
「あの……」
と都は声をかけようとしたところで、ぎょっとした。美しすぎる部長として有名な、伊田綾先輩だった。フランス人形はこの人をモデルにして作られたのではないかと思えるような繊細美麗な容姿に気圧された都は、
「2年生ね。何かご用?」
銀鈴が鳴るかのような澄んだ声を聞いて、いよいよ緊張した。
「あ、あの……わたし、加藤都、と言います」
「加藤……もしかして、6組の加藤くんの妹さん?」
「えっ、あ、兄を知ってるんですか?」
「多少はね」
兄はいったい何者なんだろうか。こんな美少女にも名前が知られているとは、侮れない人である。
「ここは5組よ。お兄さんに会いたければ、隣に行かないと」
「あっ、い、いえ、兄に会いに来たわけではないので……あの、ここに、川名先輩、いらっしゃいますよね?」
「タマキ?」
「はい」
「いるわよ。タマキに会いに来たのね。呼ぼうか?」
「お、お願いします」
すると、伊田先輩は、教室に向かって、
「タマキ」
と声をかけた。
すると、一人の少女が立ち上がって、こちらへと向かってくる。それは、まるで女王のような足取りだった。伊田先輩も綺麗だったが、川名環の美しさには、ある種の重々しさがあった。そうして、重々しさがありながらも、同時に、この人に認めてもらいたい、褒めてもらいたいと思わせるような不思議な魅力も備えていた。
「ミヤコちゃん、どうしたの?」
「あの、お話があって……」
「いいよ。じゃあ、場所を変えようか」
そう言うと、環は、先に立って歩き出した。都は、彼女についていった。少し歩いたあと足を止め、こちらを見て微笑を投げかけてくる彼女に対して、都は、これはもう断られることなどないに違いないと確信した。これで断られたら詐欺である。そもそもが、カレシの妹の頼みなのだ。そうそう断られることなど無いに違いない。都は、ホッとした。これまで緊張していたのがバカみたいだった。そうである。カレシの妹からたまに遊んでほしいと頼まれて、断ることなどあるだろうか。なんだ、初めから勝ち戦だったのである。よかった、よかった。
……と思ったところで、都は、自分が今考えたことの、頭の巡らせ方の浅ましさにゾッとするものを覚えた。断られることはない? カレシの妹だから? なぜ、それを、「わたしだから」と考えられなかったのか。兄の妹だから断られることなどない、などとそんな風に高をくくって頼み事をするなど、沽券に関わる話ではないか。
「それで、お話ってなあに、ミヤコちゃん?」
環が導いたところは、棟と棟をつなぐ渡り廊下だった。仲秋の青空が爽やかにのぞいている。
「あ、あの……」
「うん」
「その……あの……」
「うん」
「あの…………す、すみません、『あの』ばっかりで」
「ううん、ゆっくりでいいよ」
「あ、兄がいつもお世話になっています」
そう言って、都は、頭を下げた。
「こちらこそ」
「その……これからも、兄と仲良くしてあげてください」
都は心の中でため息をついた。絶対、変な子だと思われたに違いない。しかし、やむをえなかった。用意してきたことを今この場で変えたのである。代わりに思いついたことはそれしかなかった。都は、自分の頭の回転の遅さを、父と母と、ついでに兄のせいにした。
「わたしは、ミヤコちゃんとも仲良くしたいと思っているんだけど、迷惑かな」
都は、頭を上げた。視線の先には、女王はおらず、代わりに天使がいた。
「ぜ、全然、迷惑なんかじゃありませんっ! お、お願いします!」
「じゃあ、これからもよろしくね」
そう言って、彼女は手を差し出してきた。
その手を取った都は、心から満たされた気持ちになった。今日、ここに来て本当によかったと思った。
「この握手ね、よくミヤコちゃんのお兄さんが、友達のしるしとしてやっているのよ、だから、その真似っこ」
きゅっとこちらの手を握り返しながら言う環の言葉を聞いて、都は、まことに珍しいことながら、兄に対する感謝の気持ちを得たのだった。