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プラトニクス  作者: coach
224/281

第224話:秋の夜長に勉強を

 怜は、窓から秋の夕空を見上げた。6時限のお勤めを終えて、帰宅した後、勉強をしていると、日が暮れかけてきたのである。こうしてまた一日は暮れていく。今日はどんな日だったかと思い出してみても、まあ、さして何ということもない一日だったとしか思い出せない。つまりは、幸せだったということだろうか。何も無かったことが幸せ。そんな風に感じられるかどうかが人間の質というものだろうと、怜は考えている。

 何も無かったから無駄な日だったと考えることもできるけれど、たとえば腹痛に陥ったときのことを考えてみよ。地獄ではないか。そういう地獄を味わわなかったその分だけ、天国だったと言うことができるわけだ。そうすると、普通の生活ができるというそのことだけで、もう幸せである。青い鳥は求めるものではない。そこかしこに、普通に飛んでいるのだ。

 ……と、まあ、頭ではそんな風に考えることができるのだけれど、どうも心がなかなか納得してくれなかった。日本語には、「腑に落ちる」という言葉があるけれど、そこに落ちていかないのである。

 怜は、いつまでも消化されない食べ物を食べているときのような落ち着かない気持ちになったが、これは今だけのことではなくて、生まれてから幾星霜、ずっとこのような状態であったので、いつものことと言えば言えるのである。しかし、いつものことだとしても、慣れるということがなく、やはり違和感を覚えるのだった。

 こういう感覚は自分だけなのだろうか、と怜はいつものように考えてみた。そうして、考えてみただけで、実際に、それを確認してみようとは考えなかった。誰かに電話してみるとか、SNSで不特定多数に尋ねてみるとか、家族に話してみるとか。そんなことをしたところで、同意を得られようが得られまいが、他ならぬ自分自身がその感覚を持っているというこのこと自体は変わらないわけだから、どっちでもいいと言えた。

 帰ってきてから1時間ほど勉強して屈託を覚えた怜は、散歩にでも出かけようかと考えた。10分ほど外を歩いてくることで、頭をリフレッシュさせることができれば、夕飯までの、残りの1時間くらいをさらに効率的に勉強に利用することができるではないか。

 これは名案、と思ったけれど、おそらく母がそれを許すまいと思い直して、怜は、とりあえず椅子を立って、屈伸運動などして、散歩に代えることにした。運動をすると、多少は屈託も晴れたようである。やはり、人間は動物であって、動物とは「動く物」の(いい)なのだから、動かなくてはいけないのである。いけないのだけれど、怜は、そのあと、1時間ほど動かずに、ひたすら問題集とにらみ合った。

「ねえ、お兄ちゃん。また、今度、川名先輩とどっか行こうよ」

 夕食時に、妹がそんなことを言ってきたので、怜は、ちらりと母の方を見た。母は、特に平然とした様子であるが、それはあるいは息子を信用しているからかもしれず、

「タマキは受験生なんだ。あと、オレもな。そうそう、遊びに行くわけにもいかない」

 その信頼に応えておくことにした。すると、妹は、

「受験生活だって、うるおいが必要でしょ!」

 と、自分が一服の清涼剤になりうるという確信を持った調子で言ってくるではないか。怜としては、母の手前ということもさることながら、これ以上、カノジョに迷惑をかけることはしのびないという思いが強く、ここは、はっきりと言っておいた方がよかろうということで、

「悪いが、受験が終わるまでは、お前のためにタマキを誘う気は無い。お前も、タマキのことを思うなら、そうすべきだ」

 と言っておいた。言って聞く相手ではないことは分かっていたが、それでも言わなければならないときはある。案の定、それを聞いた妹は、悪鬼の形相になった。

「何でお兄ちゃんに、そんなことされないといけないのよっ!」

 鋭く言い返してきたので、怜は、タマキのためだ、と応じると、

「分かった、お兄ちゃん、わたしと川名先輩が仲良くするのが気に入らないんでしょ。嫉妬してるんだ、ああ、やだやだ。男の嫉妬って、ホントにみっともないよ!」

 とさすがの斜め上の解釈をしてきた。論点がずれたことが分かった怜だったが、そのずれを補正しようとはしなかった。別に、妹と議論したいわけではないのだ。議論をしても実りが得られないのは、普通のことだが、ことに妹との議論はそれに当たった。にも関わらず、妹に抗弁したのは、たとえ、得るものが無くても、いや、あるいは、不快という損を得ても、言うべきことは言わなくてはならないという義務感からである。そうして、これは自分自身に対してのそれというよりは、カノジョに対してのそれであると言うことができた。

「別に嫉妬なんてしていない。ただ、お前の行動は、タマキの迷惑になるかもしれないということを、考えてもらいたいと、そう言っているだけだ。あいつのことを考えるならな」

「ウソだ! お兄ちゃんは、絶対に嫉妬してる。だから、そんなことを言っているんでしょ!」

 妹は、その親が目の前にいるにも関わらず、まるで親の敵でも見ているかのような目で、兄を見てきた。そうして、ひとしきり、兄を批判していると、母は、その言動がさすがに度を超していると思ったのか、

「いい加減にしなさい、都」

 とたしなめてきた。

 兄妹の間に割って入られた格好になった都は、母に対しては、口答えせずに、口をつぐむと、つぐんだ口を開けて、豪快に夕食を食べ始めた。飢えた犬のようにがっついて、すばやく食事を終えると、

「この借りは、必ず返すからね、お兄ちゃん!」

 席を立ち際に、捨て台詞を吐いて、足音を高くして、ダイニングを後にしたのだった。

 怜は、たわむれに考えてみた。いつの頃からかできてしまった、この兄妹の不和がおさまって、兄は妹を慈しみ、妹は兄を敬うようになる未来のことを。そうして、現にそのようにしているところを想像してみたところ……吐き気がした。どうやら、仮にそのような未来が来るとしても、今の自分には受け入れる度量は無いようである。もっと、自分自身を磨かねばならぬと思った怜は、自分磨きの砥石として、とりあえず、高校入試の対策を利用することにした。母の期待にも応えることができるし、一石二鳥である。

 自室に戻った怜は、夜の隣で、教科書へと向かった。今日は、一日勉強していたことになるが、それほど頭が良くなったようにも思えなかった。頭の良さというものは、どういう風に認められるものだろうか。勉強しているのだから、勉強していなかったときよりは、頭がよくなっているはずなのだろうが、さして、そんな気にもならないのだった。いつか分かるときがくるのだろうか、その「いつか」ができるだけ早く来てもらえると、助かるのだけれど、こっちの都合に合わせてくれないのが、運命というものである。

 一通り勉強して、また屈託したところで、スマホが着信を告げた。カノジョである。怜は、すぐに、スマホを取った。

「少しだけレイくんの時間をもらえる幸せをわたしにくれたら、わたしは、世界一の幸福者になると思うんだけど、その気持ちがレイくんにないこともないって、そう信じているわたしって、バカかな?」

「もっと端的に言ってくれないか」

「話したいから、5分ください」

「5分でも、50分でもやるよ」

「二度と戻って来ない人生の50分をわたしにくれるの?」

「そういうことになるな」

「自分の幸せが怖いわ」

「なら、25分くらいにするか?」

「5分でいいよ。レイくんの勉強の時間をあんまり奪いたくないから」

「どうせなら、根こそぎ奪ってくれたっていいんだ」

「カノジョさんと一緒の高校に行けなくなったら、カノジョさんはとても悲しく思うと思うよ。端的に言い換えようか?」

「頼む」

「わたしのために死にものぐるいで勉強して」

「了解」

 電話口で、環は、軽やかな笑声を立てた。楽しいことはいいことである。自分がその楽しみを提供しているとすれば、それはさらにいいことだろう……そのはずだ、と怜は思った。

「父が、レイくんとはどうなっているんだって、最近、ことあるごとに訊いてくるのよ」

「どう答えてるんだ?」

「『らぶらぶ』ですって。いいでしょ?」

「それはどうかな。もっと、こう、節度ある答えの方がいいと思う」

「たとえば?」

「そうだな……中学生として誰に対しても恥じない正しい交際をしています、っていうのはどうだ?」

「メモするね」

「あとで、メールを送るよ」

「お父さんが、またレイくんを連れてきなさいって言ってるんだけど、迷惑だよね?」

「タマキ」

「はい」

「お前を疑っている訳じゃないんだが、それは、本当にお父さんのご意向なんだろうな?」

「レイくん……」

「なんだ?」

「もしも、今わたしの顔を見ることができたら、今の発言をきっと後悔すると思うよ。心底悲しい顔をしているから。涙も出そう」

「ビデオ通話にするか?」

「ん?」

「ビデオ通話にすれば、顔見ながら話せるけど」

「ごめんね、なんか電波の調子が悪いらしくて。聞き取りづらいの」

「キミ無しでは生きていけない」

「急にそんなこと言われたら照れちゃう」

「調子のいい電波だな」

「電波に調子とかあるの?」

「お前が言い出したんだよ」

「そんなに怒らなくても」

「怒ってはいない」

「ならよかった。じゃあ、そろそろ切るね」

「もう5分経ったか?」

「経ってないと思うけど、5分いっぱいまで話していたら、もっと話したくなっちゃうから」

「明日の朝、迎えに行くよ」

「お待ちしてます」

 電話を切った怜は、再び教科書に向かった。環と話したことで、リチャージされたバッテリーのように、やる気がみなぎっていた。楽しくするのは無理だとしても、それなりのモチベーションでもって、できるような気がする。これは、ちょこちょこ電話してもらった方がいいかもしれないと自分勝手なことを考えた怜は、すぐに邪な考えを改めて、そのまま寝るときまで勉強を続けたのだった。

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[一言] ちょっとだけお久しぶりかもしれない二人のやり取りに、風情を感じました。ありがとうございます。
[一言] 更新嬉しい
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