第222話:友人の依頼の憂鬱
文化研究部部長、田辺杏子は、部室代わりに使っている視聴覚教室を、満足げに見渡した。実に8人の部員が、うろうろ動き回ったり、何やら叫んだりしている。やっていることは、大したことはないのだが、何をやっているにせよ、やっていないにせよ、ともかく8人いるということが、彼女にとっては大事なことだった。そう、8……ああ、なんという素晴らしい数。
「我が人生に一片の悔い無しって顔してますよ、先輩」
杏子は、隣に来た部員の一人にそう話しかけられた。
「先輩、明日あたり死ぬんじゃないですか?」
「縁起でも無いこと言わないでよ、うふふ」
「縁起でも無いのは今の先輩の顔ですよ」
「どんな顔しているって言うの?」
「どんなって……なんかこう気持ち悪い顔です」
「ひどいこと言わないでよ、アオイちゃん」
「だから、ひどいのは先輩の顔ですよ。整形してください」
「ちょっ、どうして、整形までしないといけないのよっ!?」
杏子は真面目な顔を作ったが、すぐに、またその顔を崩した。
「ほら」
「ねえ、アオイちゃん」
「何ですか?」
「人生ってステキね」
「おえええええ」
「ど、どうしたの?」
「吐く真似をしただけです」
「女の子はそういうの、しない方がいいと思う」
「それ、性差別じゃないですか。しかも、女が言うって。女が女の足を引っ張るなんてこと、あっていいと思いますか?」
「そ、そんなつもりはないよ」
「つもりはなくても、そうしていることもあるんです。先輩はただでさえ誤解されやすいんだから」
「ここは、三階だけどね」
「じゃあ、三階のこの部屋で、散会してもいいですかね」
そう言うと、蒼は帰ろうとした。
「ちょ、ちょっと、アオイちゃん」
「もう十分に今日の分の練習はしたじゃないですか」
今みながやっているのは、いつもの部活動ではなくて、文化祭の出し物の練習だった。文化研究部は、文化祭で、彼らの日常を披露することになっていた。
「わたし思うんですけど、先輩」
「なあに?」
「わたしたちの日常を紹介したいなら、何も劇にしなくても、この様子をカメラで撮って、それを編集して、文化祭の時に映写すればよかったんじゃないですか?」
「そんなの面白くないじゃないの」
「面白いことってそんなに大事なことですか? 人生、楽なのが一番でござるよ」
「ござる!?」
「そんなサルみたいな顔しないでください」
「そんなひどい言い方しないでくださる?」
「わたしはもうこの部屋から去ることにします。じゃあ、そういうことで」
「どういうことなの? とにかく、もう一回、自分のパートを練習していきなさい。これは、部長命令よ!」
「そんなに上から目線でいると、下からアッパーが来ますよ」
「アッパーってなに?」
「これです」
そういうと、蒼は、拳を握って、下から上へ、部長のアゴに向かって突き上げる真似をした。
「昨日、ボクシングの試合を見たんです。見ます、ボクシング?」
「見ないよ。楽しいの?」
「楽しいですよ、殴り合い」
蒼はシャドーボクシングを始めた。
「ヌイグルミをムカつく人に見立てて、殴ると気持ちいいんです」
「そんなことしているの!?」
「そうです。だから、あんまりわたしをムカつかせると、可愛いヌイグルミがひどいことになっちゃいます」
「えっ、まさか、わたしのことを考えて、ウサちゃんを叩いているわけじゃないよね?」
「タヌぽんです」
「絶対やめてあげて」
「じゃあ、このまま帰らせてください」
「……いいわ、じゃあ、今日の練習はここで終わりにしましょう」
そう言うと、杏子は、「カーット」とみなに声をかけた。
「今日はここまでにしましょう。みなさん、お疲れ様でした。文化祭はもうすぐです。各自、家で練習を怠らないようにしてください」
みなが三々五々、教室を出て行く中で、杏子はひとり残って、教室に鍵をかけたあと、職員室にその鍵を返しに行ってから、生徒用玄関へと向かった。そこから帰路を取ると、左手に林があるのだが、そこに、一人の女子生徒がいて、顔なじみである。
「ナナミ?」
声をかけると、平井七海は、微笑んだ。いつも楽しげな彼女の顔に、珍しく陰のようなものが見える。
「何しているの、こんなところで?」
「アンコを待ってたの」
「わたしを?」
「うん」
「まさか、辻斬りしようっていうんじゃないよね? 時代劇とかだと、ここで斬り掛けられるんだけど」
杏子の冗談に、七海は笑わなかった。
「……どうかしたの?」
「ちょっとヘコんでる」
「ナナミが?」
「おかしい?」
「あっ……ううん! おかしくはないよ……それで、どうしたの?」
「サラサに嫌われちゃった」
それだけで、杏子にはピンと来るものがあった。詳しく聞かなくても、今、水野更紗の頭を占めるものは、塩崎輝のことだけであって、彼関連で、何かしらの恨みが、七海に向かったのだ。
「何があったの?」
「わたしが言えば、自分の行動を弁護することになる」
「見損なわないでよ。もしもそう聞こえたとしても、その分、サラサの弁護もするよ」
「塩崎くんと公園で話していたのが、サラサに伝わったみたい」
「…………それだけ?」
「それだけなんだけど、伏線がある。その前に、彼の家に行ってるの」
「えっ、なんで?」
「特に何でってこともないよ。ただ、どんな人か見に行っただけ」
「そんな、イベント行ったみたいに言われても」
「そっちの話も伝わっちゃって、それで、何か誤解されたみたい」
「サラサは、今そういう状態だから。……で、ナナミは塩崎くんのこと、どう思っているの?」
「なんとも思ってない」
「そう」
それはおそらくは本当のことだろう。というか、七海がウソをついたり、ごまかしたりしたところを、これまでに見たことが無い。
「わたしからサラサに言おうか?」
杏子は申し出てみた。言って聞いてくれるかどうか分からないし、おそらくはその可能性は非常に薄いと思うけれど、友人の頼みだとしたらやるしかない。
「その逆のことを頼みに来たの」
「え、どういうこと?」
「サラサがわたしのことを悪く言ったら、それに反対しないでほしいの」
「え、な、なんで?」
「その方がサラサの気が晴れると思うから」
杏子は、友人がもう一方の友人の悪口を声高に言って、それを自分がうなずきながら聞いている図を想像してみた。それは大分、醜悪な図だった。これまで、杏子の属する仲良しグループは、陰で仲間内の悪口を言ったことはなかった。少なくとも、杏子はない。言いたいことがあったら、必ずその人の前で言った。それを崩すようなことはしたくない。
「現にわたしにも悪いところがあったわけだから、その悪口を受ける資格がわたしにはあるの」
そう言う七海は、まったく悪びれた風でもなかった。
「話し合うことはできないの?」
「今はちょっと難しいと思う」
「塩崎くんのことで、わたしたちが仲違いするなんて、おかしくない?」
「理不尽なことが起こるのがこの世の中だから」
そんなことを言えるほど達観していない杏子は、やっぱり更紗に一言、言った方がいいと思ったけれど、
「それは多分他の子がしてくれると思うから、アンコは、サラサの味方をしてほしいの」
と七海が言った。
「他の子にも、このこと話したの?」
「ううん、話していない。多分、これを聞いてくれるのは、アンコだけだと思ったから」
「…………」
「アンコにしか頼めないの、お願い」
そう言うと、七海は、頭を下げてきた。
友人に頭を下げさせておいて、それを断ることなどできない、杏子は、嫌な仕事だと思いながらも、うなずくしかなかった。
「ありがとう」
七海が去ったあと、杏子は帰路を取った。家に戻りながら、帰宅した後、更紗にこちらから電話でもして、彼女の現状を確かめてみようかと考えていたら、なんと、
「おかえり、更紗ちゃんが来ているわよ」
当の本人が家で待っているではないか。おそるおそる、自分の部屋まで行った杏子は、
「おそーい!」
更紗の不機嫌な声を聞いた。
「遅いって……別に約束していたわけじゃないでしょう?」
「約束していないと、遅いって言っちゃいけないわけ?」
「言っちゃいけないわけじゃないけど……」
「じゃあ、いいじゃん。今日泊まらせてもらうから」
「いきなり何よ……別にいいけど。……何かあったの?」
杏子は自然な様子で尋ねてみた。すると、更紗は、
「聞いてよ!」
と身を乗り出すようにしてきて、事の顛末を語り出した。と言っても、短い話である。七海から聞いた通りのことを、更紗は繰り返した。
「ひどいと思わない!? わたしがヒカルくんのことを好きだってことを知っているのにさ! ナナミがそんな子だとは思わなかったよ!」
杏子は、反射的に出そうになった七海への弁護を、何とか飲み込んだ。特にと友人に頼まれたことである。守らなくてはならない。そうして、チャックした口が、
「ナナミとは絶交したから」
「ひえっ!」
次なる更紗の言葉によって、無理やり開かされた。
「ぜ、絶交!?」
「そうよ」
「冗談でしょ?」
「冗談じゃないわ。さっき、会ってそう言ってきたから」
「会ってそう言ってきた!?」
なるほど、さっきの七海の落ち込みようもこれで納得である。
「そうだよ。もう友だちではいられないでしょ」
杏子は、よっぽど更紗に諫言したかった。それは確かに、黙って、友人の意中の男子のところに行くのはどうかと思う。というか、そもそもその行為の意味が分からない。だとしても、それはそれほど大したことなのだろうか。しかも、七海は、何かしら更紗のためを思ってやったことであるはずなのである。そういうことを考慮せず、おそらくは話し合いも何もせずに、一足飛びに絶交だなんて、そんな話はないだろう。言ってやった方がいいんじゃないかと思った杏子は、下げられた七海の頭を思い出して、その気持ちをすんでのところで、押さえ込んだ。
「あー、もう、ホントにひどい! 何もかも最悪!」
少なくとも、「最」悪ではないだろうと、杏子は思った。「最」も「悪」い状況なのは、友人がもう一人の友人の悪口を思う存分言うのを、一晩かけてじっくりと聞かなければいけない自分自身だということを、杏子は認めていた。