第22話:幼馴染みのいる風景
西村賢の一日は、隣家のベルを鳴らすことから始まる。
ベルに応じて現れるにこやかな顔の女性。
「ごめんね、賢くん。まだヒナタ起きてないのよ」
いつものことである。促されるままに、すっかり勝手が分かってしまった家の中をダイニングまで歩いていくと、ダイニングテーブルに自分の席が用意されている。
「コーヒー? 紅茶? それとも野菜ジュース?」
礼を言って野菜ジュースを頼むと、席に座る前に、新聞を読んでいる男性にあいさつする。女性の夫であり、顔なじみ。座った後に、今度はテレビの朝のニュースを見ている自分と同じ制服姿の少年にもあいさつする。思春期まっさかりの彼は、感情を節約したような挨拶を返す。
「ちょっと待っててね、賢くん。もう一度起こしてくるから」
そう言うと、女性はダイニングから姿を消す。
数分して、けたたましく階段を下りてくる音がする。
少女登場。パジャマ姿の彼女は、寝癖のついた頭のままで、不機嫌そのものである。自分の後ろから現れた母に向かって、剣呑な目を向けて、
「お母さん、どうしてもっと早く起こしてくれなかったの?」
非難めいた口調で言う。
「何度も起こしたわよ」
母は取り合わない。事実その通りなのである。しかし、事実は少女の気持ちを全く慰めない。彼女の怒りは、今度は父に飛び火した。
「お父さん!?」
「どうして仕事前にもう可愛くもない娘の寝顔を見にいかなきゃいけないんだ」
ますます不機嫌になった彼女は、今度は年下の少年に向かって、
「ヒロト、弟は姉に仕えるものでしょ?」
鋭い声を出すが、
「この前、CD返しに部屋に入ったら、『年頃の乙女の部屋にノックもせずに入るな』って蹴り入れてきたのは誰だよ?」
少年は仏頂面を姉に向け、もう絶対に姉貴の部屋には入らない、と宣言した。
最後に賢の番が回ってくる。
「ケン、幼馴染みでしょ。起こしに来てよね!」
確かに彼女とは十四年来の幼馴染みで、賢が今、十四歳であることを考慮に入れれば、ほとんど生まれたときから彼女と一緒にいたことになる。家族同然であると言えるかもしれないが、さすがにこの年で、眠っている女の子の部屋に入るのは憚りがある。だが、そんな抗弁はしない。今の彼女にそんなことを言っても不機嫌の火に油を注ぐだけである。
「明日はもう少し早く来て、そうするよ」
素直にそう言う賢に、少し怒りをおさめた彼女は、賢の為に用意されていた野菜ジュースをぐいと飲み干すと、大急ぎで洗面所へ髪のセットに向かった。
「アレは女じゃないよ」
ヒロトがぼそりと言う。危険な発言である。
「だろ、賢兄?」
ダイニングから洗面台までの距離はそう遠くない。賢は彼の勇気に感動したが、賢自身は勇者の供を務められるほどの心胆の強さは無い。
「いや、そんなことないよ。お姉さんはもちろん女の子だよ」
「性別の話じゃないよ。女の子ってのはさ、もっとこう何ていうか可愛らしい感じだろ。守ってあげたくなるみたいな。アレ、守る必要ないじゃん」
女の子が、守られるべきか弱い存在であるというのは、男の身勝手な妄想ではなかろうか。事実、賢の周りには、そんな弱々しい女子は一人もいない。
「それはさ、賢兄の周りに、本当の女の子がいないんだよ。姉貴を含めてさ」
クラス内に余程可憐な女の子でもいるのだろう、哀れむような目でそう言うと、ヒロトは席を立ち上がった。姉と違って、彼は既に学校に行く準備が万端整っているのだ。行ってきます、と挨拶して少年はダイニングを出た。小学生の頃は一緒に学校に通っていたりしたのだが、この頃ではさすがに一緒に登校したりはしない。姉と一緒に登校などしたら、クラスの良い物笑いの種だからだろう。
「ヒナタは学校ではどう、賢くん?」
野菜ジュースの新しいグラスを賢の前に置きながら、日向の母が訊いてくる。
「うまくやってる?」
「クラスでも人気がありますよ。上手くやってると思います」
答える賢。横から新聞が畳まれる音がして、
「とてもそんな風には見えないが、本当か、賢くん?」
と疑いの声がはさまれた。賢は日向の父に向かって、はい、とうなずいた。別に社交辞令ではない。家の中での彼女からは想像が難しいだろうが、日向は学校ではそれなりに人気がある。持ち前のキツい性格は、概ね、親しい友人に対してしか発揮されず、他のクラスメートや教師には物腰柔らかでまた快活でもあるので評判が良い。本人から聞いた――というより聞かされた――話だが、中学生になってから何人かの男子に告白もされているらしい。
日向が寝癖の髪や今日持って行く教科書と格闘している間、賢は幼馴染みの美点について懇々と説いた。信じない様子の日向の父に、あきらめず説明しようとする所に賢の律儀さがある。
「賢くんは本当にいい男だな」
日向の父が落ち着いた結論がそれであった。戸惑う賢。幼馴染みの名誉を回復するつもりが、なぜだが自分の評価が高まってしまった。
「さて、俺も出るか。賢くん、気をつけてな」
いってらっしゃいと幼馴染みの父を見送って、野菜ジュースのお代わりを丁寧に断ったときに、ようやく日向が姿を現した。寝乱れた姿が、すっかりお出かけモードになっている。
「お待たせ、賢」
少しでも何か食べていきなさい、という母の再三の言葉を退けて、日向が家を出ると、賢も玄関から外に出ようとした。出がけに日向の母から、
「今日もあの子をお願いね、賢くん」
と娘の面倒を頼まれる。賢はうなずくと、少し先で自分を待っている少女の元へ向かう。このようにして、賢の一日は始まるのである。すっかり習慣化してしまった朝の風景。
初夏のやや強い日差しのもと、二人は並んで学校までの道を歩いて行く。
家から少し離れた所で、ほらと言って、賢は携帯食の小袋を鞄から取り出して日向に渡した。朝食を食べる時間はないだろうということを予想して、道すがら食べられるように用意しておいたものである。日向は歓声を上げて喜びで顔を明るくした。
「やっぱり腹減ってたのか。もうちょっと早く起きろよな」
と賢は呆れたように言ったが、それだけのことではない。日向にしてみれば、自分のことを思いやってくれたということに対する感動もある。それは賢には分からない。先の日向のセリフではないが、幼馴染みなのであるから当然という意識が賢にはあるのだった。
ブロックタイプの携帯食を食べ終わるのを確かめて、今度は水筒を渡す賢。細く小振りなそれは、キャップを開けると、そのまま飲めるようになっている。水筒の縁に口をつけて飲み終わった少女に、今度は歯磨き用のガムを渡す。
「持つべきものは幼馴染みだよね」
上機嫌で勝手なことを言う日向。
「持つべき、とまでは言えないんじゃないか」
「わたしの立場だと、べきだって言えるのよ」
「オレの立場は?」
「わたしは自分の立場しか考慮しないの」
「そう言うと思ったよ」
こと日向に関する限り、賢は怒りを越え、さらに諦観を通りこした境地にいる。幼馴染みの少女は、十四年この調子なのである。今更、彼女の言動に怒ったり、自分の立場を諦めたりはしない。むしろ、この立場を受け入れて、できるだけ楽しもうとしていた。そして日向といるのは、賢にとって確かに楽しい一面があった。怒りや喜びの感情を露にして行動する彼女を見ていると飽きないのである。時にいらいらさせられるときがあるが、それをどこかで許してしまう自分がいて、結果、日向には悪感情を持ち得ないのだった。慣れとは怖ろしい、と賢はつくづくと思った。
「昨日の本、どうだった?」
横に並んでいる少女が、少し下の位置から訊いてきた。賢の方が彼女より背が高い。
「まだちょっとしか読んでない」
「感想を四百字程度でまとめて一週間以内に提出するよーに。それが面白かったら、次、あたしが借りる」
冗談めかして言った日向の目が、一転、皮肉な笑みを作った。
「それにしてもさ、賢は本当に加藤くんが好きだよね」
「そんな風に見えるか?」
賢は不思議そうに言った。昨年クラスが一緒だった加藤少年と賢の友情に関してはたびたび日向の口に昇る。口に出す頻度が高いということは、それだけ目立つということだ。賢としては、特別なことをしているつもりは特にないのだが、幼馴染みに言わせるとそうではないらしい。
「見えるわよ。加藤くんの読んでた本を借りて読むなんてさ。加藤くんに気がある証拠でしょ」
どうしてそういうことになるのか。面白そうな本だったから勧められて借りてみたとは思えないのだろうか。
「だって、実際、賢は加藤くんのこと好きなんでしょ」
「それは確かにな」
そのセリフにいつもは不機嫌になる日向だったが、今日はその代わりに不思議そうな顔を作った。
「加藤くんって、どこがいいの?」
「何だよ、お前こそ、怜に気があるのか?」
「そんなわけないでしょ」
日向は底冷えのする声を出した。不用意な一言で、やはりいつも通り不機嫌にしてしまったらしい。しかし、賢は自分の迂闊さを後悔したりはしない。気分屋の日向をコントロールすることは不可能なのである。今朝のように明らかに怒りを買うときは格別、あとは成り行きに任せ、ことがあれば自分が耐えればよいくらいの気持ちでいる。
「怜の良さは一言では言えないな。でも良い奴だってことは分かる。その良さに気がついてるのは別にオレだけじゃない。太一だって、俊だって、レイのことは好きだよ。何より、川名だろ。怜のどこが良いのかなんて川名に訊けよ」
「訊いてもはっきりと答えてくれないのよ。この前なんて、『空の高さが分からなくても空が高いってことは分かるでしょ、それと同じことよ』なんて言うんだから」
「さすが川名だな。上手いこと言う」
よく言うわ、といってどうしようもないという風で首を横に振った日向は、
「加藤くんのことはもういいわ」
と継いで話題を変えた。もともと彼女から始めた話なのだが、指摘するのも面倒なので、次の言葉を待つと、日向は軽く咳払いをしてから、
「賢は好きな人とかいないの、加藤くんの他に。女の子でね」
なぜだか緊張した声で訊いてきた。彼女が何を期待しているのかは知らないが、賢は、
「いない」
と、簡単に答えて彼女の当てを外れさせた。日向の目が疑り深く細められる。
「本当でしょうね?」
「本当だよ」
「でも、わたしの周りには結構可愛い子っていると思うけど。タマキとかナナミとかアヤとかさ。タマキは加藤くんがいるけど、ナナミとかアヤは特別な人がいるわけじゃないみたい。惹かれたりしないの?」
「まあ、可愛いとは思うけど。オレ、可愛い子って苦手なんだよな、緊張してさ」
その言葉が終わると少し間があった。その間がどうしてできたのか、判明するのに数歩かかった。
「どうせわたしは可愛くないわよ」
日向がふてくされたように言うのが聞こえてきた。賢は側面を衝かれた思いがした。別にそんな意図を含めた気はないし、幼馴染みなら他意がないことを分かりそうなものである。しかし、賢には日向に自分の気持ちを推し量ってもらいたいという欲求はない。誤解されたら、それを解くための努力をすれば良いし、そうして努力しても無駄であったら日向の負の感情を受け止めれば良いだけの話である。
「ヒナタは可愛いけど、幼馴染みだから慣れてるんだよ」
さらりと少女の曲解を否定する。その言葉にもやはり他意はなく、賢としては事実を述べたのみだった。その事実に引っかかるものを感じたのだろう。前を向いていた少女の顔が自分の方にまともに向けられているのに賢は気がついた。
「……今、何て言ったの?」
「何が?」
「だからさ、今、何て言ったのかって。今のセリフ繰り返してくれない」
日向が苛立たしげに訊いてきた。賢が命じられるまま同じセリフを繰り返すと、日向の足がふと止まった。訝しげに賢も足を止めると、日向の顔がすぐ目の前にあった。
「それ、本心でしょうね?」
幼馴染みに詰め寄られた賢は、何が彼女の気を引いているのか分からない。日向については分からないことだらけである。じいっと真剣な目で自分を見つめてくる少女に向かって、何もウソは言ってないことを告げると、彼女は、
「それならいいわ」
と素っ気無い声を出して顔をそむけた後、足早に歩き出した。少しして振り返った彼女は自分が置き去りにしたにも関わらず、何してんの、と急かす声をかけてきた。
よくは分からないがどうやら機嫌を直してくれたことに少しほっとした賢が幼馴染みに追いつくと、朝日を浴びている加減だろうか、彼には少女の顔が輝いているように見えた。